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「いっぽ、ふみはずしてごらん」

 は、長女が5歳のときの名言。おそらくどこかで聞きかじった「一歩、踏み出してごらん」を言いたかったのが勢い余って「踏み外して」になったのだろうけれども、「一歩踏み外す」は、あながち間違いではないものに思えて、当時、ウウンと唸ってしまったのを覚えている。

 そもそも、踏み外すなんてことが、あり得るのだろうか?

 むしろ、正道と思われているものが、案外、わたしたちが楽に、この命を全うするのを、大枠の流れとして妨げていて、でもわれわれ大衆はそれに盲目的であることで得ている安心感のようなものに思った以上に依存していて、そこから抜きんでることを自分にも他人にも良しとしない。

 そこから踏み外すなら、本望じゃないか。

 踏み外すことで「正道」とは異なる道ができ、その道に親和する同胞が軽快に人生を歩んでゆく助けになるのならば、わが身を喜んで横たえよう、と思う。――自分の半生は重厚すぎたから、若い人や子どもたちにはそんな経過を経ずに開花して行って欲しいと、心から、祈ってやまない。そんな重厚な半生を送ってきた同年代はたくさんいるように思うし、それが1Q84周辺生まれ世代の御使命なのかもしれない、なんても、想う。(わたしは85だけど、村上春樹小説にこよなく魅せられる方なので、早生まれということで、84に入れとく。)

 冒頭の名言が降りたもうたのは、次女を産んだ直後のフルタイム勤務で心身を病んで、マミートラックよろしく非常勤になりながらも、自分を見つめ直し、自己表現することへ、もう一度希望を抱き始めた頃のことであった。妊娠と結婚と出産で、あとは後生だ、と諦めしかなかったわたしにとって、それは漂着した無人島で長い年月を経て、船の汽笛を聞いた時のような、忘れかけていた希望がほわっと心の中に舞い上がったような、時期であった。

 きっと、そういう全てを奥の奥で察しての「ふみはずしてごらん」だったのかも、とすら思う。

 その長女は、今、11歳。そこから、大分歩いてきたものだ。

 おかげさんでだいぶ、踏み外せて、きたところです。今は離れて住んでいるけれど、あなたが生まれてきてくれたことは私の人生の喜びに他ならない。ありがとねぇ、はなちゃん。

 あなたも一歩、いかがですか?

 「いっぽ、ふみはずして」みませんか?


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