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【自閉スペクトラム】鬱蒼とした針葉樹を手入れして、自閉児の心の手入れを想う

縁あって住んでいる現在の借家は、針葉樹を生垣にしてその建物をぐるっと囲ませている。築27年だから、恐らく彼らもそれぐらいの樹齢なのだろう。前アパートから弾かれるようにそのお家に越してきて、約4年。初めて真正面から、この木と向かい合っている。

元々そういう契約で、年に一回、大家さんの雇ったおにーちゃん達が二人位来て、チェーンソーでその針葉樹を「剪定」していった。「剪定」とカッコ付きなのは、棚子が申すのも何だがおにーちゃんたちの仕事はあまりにも植物への愛情を欠いて居たからだ。本業の庭師ではなく、便利屋さんか何かなのだろう、一通り伸びたところをガガっとやったら、落ちて枝の間に引っかかった葉っぱなんかもそのままにしていくから、一週間ほどすると枝を離れたそれらが茶色くなって、見目哀しげになった。また、針葉樹の足元に植わっている低木も、バラでさえ一緒に電動の刃先で刈り取ってしまう。

(昨年、牡丹とツツジを根本からやられた時は、さすがに飽き飽きした…!毎年五月に桃色の大輪が咲く牡丹も、今年は枝を伸ばすだけで精一杯だったし、ツツジなんて残された切り株から地を這うようにして伸ばした枝先から数輪、花をつけただけだった。)

そんなのも、大家さんの家だから仕方ない、と忙しさに紛れて思っていたが、上述のように、内心やぶさかでなかった。

針葉樹林の手入れ

令和三年の初夏になって、私の中の園芸虫がうずいて、そのポジションを確立しようとしている。つき動かされるように、苗を買っては植え、鉢が小さくなったと言っては最近オープンしたホームセンターで土とプランターを買い込み、を繰り返している。

その過程で、この4年で初めて、垣根の手入れをしているのである。

それはずっと、見た目に鬱蒼として、正直手に負えなそうで、かつどうしたら良いか分からない対象だった。

私たちが越してくる前はしばらく空き家だったらしいこちらの植物は、往々にして放っとかれた感が漂う。石畳になっている家の前の地面の、レンガの目地に生えた雑草も、周りの他のお家のそれよりも、勢いづいている。結構まめに手入れしてきたこの数年を経ても、そのやんちゃ加減は、何となく目に余るほど。一度、そういう方向に伸び始めたエネルギーというのは、相当な労力と時間とをもってしなければ、歯止めが利かなくなるのだ。それは、何なら良い方向にタガを外して伸びてって欲しいものであるにも関わらず。

こと某垣根の針葉樹に至っては、表面だけをその場しのぎ的に人間の良いように削って内側には目もくれられなかったから、内側に茶色の枯れ枝が密に残り、そこに前述の「剪定」で落ちた葉が茶色くなって引っ掛かり、密で暗い小森林帯を形成する。つまり、間伐の適切に行われていない人工林そのものになってしまっていたのだ。

杉やヒノキなどの人工林は、人の手で間伐し、下枝を払ったり、樹木の生長に合わせて間引いたり、育ちのわるい枝を枝打ちで取り除いたりすることで、明るい林が保たれ、下草も生えて保水など森林としての機能が保たれる。そうした管理を行わないでいると、木々は光を求めて自己免疫的に枝葉を方々に伸ばし、それがまた光を遮る要因になり、自分自身と生存競争をして、自ら立ち枯れてしまう。もしくは、そうして細々と育った木々が台風などの自然淘汰で容易に折れてしまったり、ツタが絡まって貧栄養となってしまったりする。

――手入れのされない人工林は、鬱蒼として自分で自分を締め上げる。

よくよく庭の針葉樹と向き合って、内側の枯れ葉を手でしごいたり、枯れた枝を払ううち、私の中には針葉樹に同情した怒りがこみ上げる。

「人工的に、人の都合でこんなに密に植えて、その本来の樹形やそれを保つための知識を学ぶこともなく、木の性格に合った手入れもせずに、密にした状態を目隠しと自分の都合の良いようにだけ使って、表面だけ型にはめるように削って、木々は、己の枝葉の間で光を求めて伸び合って自ら光を遮り、鬱蒼として内側から立ち枯れそうになっている。何と自然の個に対して無知なふるまいであろうか。」

それは、自閉スペクトラムの濃度が濃いめのグレーゾーンに位置しているであろう、私自身の経験と、重なる。


私の持って生まれてきた個性には目もくれず、大人の都合の良いように「教育」して、その通りにできたら喜んで、それにそぐわない部分は冷たく無関心につまはじきにして、私という10歳の女の子は、てめぇらのおもちゃじゃないんだよ。

表面だけそうして成型した私という人格は、内側で感じ、想うことがその知覚と発露と表現の方法を知らず、ひたすら鬱蒼とし、その間引きの方法も知らず、頭ばかり重くなり、心も引きずられ、光を求めてまたそれを考えて解決を試み、自分の首を再び絞めた。それが、どんなに苦しかったことか!

私の取り扱い説明書は、わたしが子どもの時に私に「教育」を施した無知な大人に代わって、私が、書いてやる。


鬱蒼として、場違いに植えられたようになっている針葉樹をひたすらに、憑りつかれるように手入れしながら、そんなことを感じ、想っている、36歳でようやく針葉樹林の手入れの方法を理解しかけている、自分である。

だからねぇ、自閉傾向、つまりものごとへの感受性が強く、それを言葉や音や色などなどに置き換えて世界を(比喩的に)作詞・作曲の譜面に落とし込めてしまうような脳傾向をもつ子どもには、「こうしなさい」を教えるのは自身の身体の安全保持に関わる最小限で、良いのだと思うのです。

そういう意味で、私は教育という制度体系に落とし込まれて、そこで鋳型・紋切型の知識を教わった表層的にさらった時間は、ちょっと回り道だったな、と感じています。だって、ペーパーテストのために短期記憶で暗記した用語は、何の意味もなさずろ過されてろうと紙の方に残り、記憶の沈殿に落ちることなく廃棄されているもの。



自閉スペクトラムを周りの子どもに認めたらしてほしい、三つのこと。

まずは、同胞である人間として子どもを守り育てる大人には、ものごとを感じ・表現することへのオーケーサイン、つまりあなたの全身全霊を傾けた肯定をしてほしい。

定型のマジョリティーと異なる感性は、その大勢用に作られたシステムにそぐわず、それに叱責や、叱責までゆかなくとも冷たい視線を浴びせられることがほとんどだ。そして、その鋭敏な感性は、子どもにとって規範であり愛情を求める対象である大人の見せるほんの小さなそうした素振りを、あなたが思っている以上に、キャッチし、それに順応しようとする。そのことを、肝に銘じて欲しい。

次に、受け止めた感性を表現する方法で、あなたが知っているものを、伝えて欲しい。

それは、音楽や絵などのアートでも、電子媒体を用いた動画作成方法でも、料理を通じた紙がかった愛情でも、量子力学や物理学や宇宙工学や社会科学やその他もろもろの学問を究めた先にある人間の本質の追及方法(philosophy of science)でもいい。

三つ目に、そうした「似た者」とつながって、本人の興味から人間関係をつくる機会を講じ、可能ならその術や手立てを講じてあげて欲しい。自閉傾向のある人の関心沼は、恐ろしく深遠でありふれ型(©ジョン・エルダー・ロビンソン『変わり者で行こう』,東京書籍)やその関心を共有していない人には途方もなく見当もつかないけれど、その底で手を取り合えた時の喜びといったら、至上であり、故ドナ・ウィリアムズが自身の著書の題名としたように『 Everyday Heaven 』(邦題:『毎日が天国』)と謳えるほどに、世界を美しくするから…。


ご質問等、あったらどうぞ、お寄せください。

そして、ヘッダーに乗せているのが私の手(💛)とくだんの針葉樹の葉の裏側なのですが、どなたかこいつの名前が分かる方がいらしたら、どうか教えてくださいませ!!

葉裏の葉脈が、これはX(サワラ)なのか、Y(ヒノキ)なのか、それすらもわたくしの素人目にはどちらともつかず、困っております。適切な手入れを、文献で知りたいので、ご存知の方がいらしたら、ぜひお願いします♪

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