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ADHD×こだわり×はたらきかた

 わたしは、事務処理にどうしてか途方もなく時間がかかります。

 洗濯物を干すとかたたむ、とか日常的な家事についても、おんなじです。

 どうしてなのか、どうしてなのか、二十代の頃は普通にはたらきたくって懸命に本を読んだり対策しようとがんばったけれども、だめだった。

 どうしてだめだったのか、それはわたしという生まれ持ったからだと脳の特性で凹んでいる、つまり苦手なところを強化しようとあがいていたからだったのだ、と肚落ちしたのが、昨年三十代もなかばにさしかかって、発達障害について大学で学びなおしてのことでした。時間、かかったなぁ~!

洗濯物ができないなぞ

 洗濯物のなぞが解けたのは、発達障害当事者の手記などを読み漁っていたときに、「うっかり女子」としてADHD女子の生き方指南をされている雨野千晴(あめのちはれ)さんの記事を読んでいたときでした。

 洗濯物を取り込んでたたむときに、一見効率の良い「すべてとりこんでから、すべてたたみ、それからタンス等の定位置にしまう」という【一般的な方法】はわたしにはあっていなくて、「一つの洗濯物をとりこみ、たたみ、そのまましまう」を繰り替えす【独自の方法】を編み出すころでクリアできた。※文の内容は私の回想

 というようなことが書いてあり、やってみたら、これが非常に自分に合うのです…!

 ――なぜか?わたしなりに考えたのはこうです。

非効率に見える洗濯法のもつ【達成感】

 【独自の方法】の方は、導線を何度も行き来することになり非効率なのではないか、とロジカルには確かに考えられます。しかしながら、【一般的な方法】はすべてを取り込む、すべてをたたむ、という処理段階において、大量の「未完了の仕事」を生むように私には感じられるのです。

 すべてを一度に取り込むと、たとえば、取り込んだシャツとくつしたとニットがそれぞれ、「たたまれる仕事」と「しまいこまれる仕事」を待っているような感覚になり、とてもうずうずして気持ち悪い状態(脱線注:これを仙台弁で「いづい」と形容します)に陥ります。これを洗濯機一杯分の洗濯物でやると、わたしの脳にはかなりのストレスとなっていたようなのです。

 その結果、「そもそもやらない」という選択を、「洗濯機をぎりぎりまで回さない」「洗濯機を回した後」「洗濯物を干したあと」または「取り込んだあと」のどこかの段階でしてきました(遠い目)。(洗濯機を回した洗濯ものを意識的に無意識に追いやり一週間くらい放置したこともありますてへぺろ)

 これを、一個一個を「取り込み」「たたみ」「しまう」を一連の動作として完了することで、【達成感の積み重ね】というADHDの衝動性を満たす行為の連続に変えることができているように思います。

「こだわり」と洗濯

 洗濯を家族分やるようになって苦しかったのは、量が増えワーママとして家事の時間が最低限にきりつめられるなか、「本来達成したい精度」で洗濯ができないことへのジレンマ、翻ってストレスがあったように思います。

 わたしには「やるからにはきっちり寸分のズレもなく」やりたいという、ある種のこだわりがあるようです。独身で時間のあるころは、週末に一週間分の洗濯をやっても余裕の量ですよね。そして、独身貴族の潤沢な時間的資源…(遠い目2回目)。

 その中で、洗濯物を色のグラデーション的に美しく、かつ左右対称または右肩上がりのリズムで並べ、とりこんでからも同様の美意識に沿うように角をぴっちりたたみ、並べる、というようなことをしておりました。ああ懐かしや…(遠い目3回目)。

 結婚して家族が増え、もはやそれらの余裕がないなか、雑にやらないと間に合わないような時間配分で暮らしていたので、そんな美意識とズレのある洗濯という仕事はわたしにとってやりたくないものの代表になってしまっていました。でもやらなきゃいけない、結果、雑になる→やりたくない→たまる…等々の悪循環でした。

 「一個一個の洗濯物」を完了する方法は、この美意識のジレンマを「小さな達成感」に置き換えてくれました。まだ、もうちょっと色とサイズのグラデーションに配慮して美しく並べたい欲求はあるのですが、保育園児がいて洗濯物が鬼のように帰って来るので(今は自宅にいるのでそこは減っている)そこはなだめてもうちょっと乗り切ろうと思います。

「こだわり」「処理速度」と事務処理

 冒頭に書いたとおり、わたしは事務処理でさんざん!躓いてきたにもかかわらず、そうと知らず最近事務仕事を伴うお仕事を引き受けてしまい、自分のこの点での「使えない人ぶり」に久しぶりに直面しています。(しかも喉元過ぎたら過去の失敗もさっぱりすっきり忘れている……美しき忘却力哉)

 メールでのまとまった情報量を処理し、応対する文を書く、というのがなぜだかとても、とても時間がかかります。これをやっていると時間がエアポケットに入ったかのようにいつの間にか膨大に経過していて、自分の出来なさぶりに本当に涙が出そうです。他のことには間違いなく目がいかなくなるので家事も育児もそっちのけ、なのに成果は上がらない。死にそう・・・(20代で陥ったループ・・・)

 これを、持てる限りの冷静さで分析すると、たぶん、わたしはメールに打ち込む一つひとつの言葉の持つ印象や、深いところの意味での適正を考えてしまうのです。それで、一つの文を打っては、前の文のもつ曖昧さが気になり、打ち直して…を繰り返してしまう。しかも、語彙はあるものの処理速度が遅いので、その検索に一つ一つ時間を要する…

 メール文なんて、表面的で実質的なやり取りをするツールなので自分もそういう使い方ができれば良いのは分かっているのだけれど、わたしの脳はそういうストレートな言葉を瞬時に検索し当ててアウトプットするようには、作られていないらしい。

 これも経験でどうにかなる!…と信じて努力を重ねた20代で、それはどうしようもない部分だということを身をもって痛感しているから、「割り切ってがんばって」なんて言葉は自分にかけてもしょうがない。それは酷でしかない。手のない人に手を振れって、言うか、っていう次元のものなんだよ。

 まだ、「ものは慣れ」もなくはないからその可能性を信じたい自分もいるけれども。ないものはないんだよね。

 2月に知能検査を受けたことで、客観的データで理解することができているから、20代の二の足を踏まず、自分にできることを考えることができているのは、かなり前進したなー、と思います。支援の手を模索し続けて、よかった!がんばったね、わたし

発達障害を自覚する人の働き方

 発達障害支援の考え方として、「短所を伸ばそうとしてもそこは脳の特性として凹んでいる部分なので、長所を伸ばしたらいい。そして伸ばした長所によって短所も補うことで、その人は真に社会に有用な存在として奉仕できる人材になる」というものがある。

 わたしの長所で、この仕事を、乗り切れないものかな。

 ちょっと、一休さん的に、考え直してみよう。

 今までのやり方がコペルニクス的にひっくりかえらざるを得ない、このときだからこそ。


Satomi Scarlett


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あなたの時間の感覚をひっくり返す本、

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