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青豆の月が二つかかる天空の島で。

まるで、1Q84の世界に来てしまったような。

具体的に書いたら書けるかれど、そうしてしまっては失われるもの多く、このところ散文詩ばかり投稿していて、今日も同じくそちら寄りを許しながら、なんとなく私の今立っている地点を読んでくださる方に分かち合えるように、書けたらと思う。

きっと、わたしは、自分の精神を小さなところで我慢させて、黙らせて、行ってしまえば息を押し殺すように――そう、殺して、生きていたのだ――ということに、気づいてしまった。かなり、はっきりと。明確に。そしてそれは残酷なほどに胸をえぐるような嗚咽とともに私にもたらされたのだけれど、それは天啓であり僥倖としか言いようがなくて。過去の自分を追悼するような念と、ここに運ばれてきたことへの感謝と畏敬の念のようなものが交錯した心境で、この二日を過ごしている。


昨日、私の身体を、ご自身も恐らく相当の業を覚悟してこの生を引き受けてきた東洋医学の先生に、今いるところに運んでいただいたとき、私は自分の目的をすっかり忘れて老いて呆けてしまった浦島太郎のような状態だった。自分という生命体の時間を最優先事項に割くことの判断もおぼつかないほどに、心が地につかず、身体も地から浮くようで、だから誰にでも寄りかかりたいような気さえしていた。――違うのだ、そうじゃない。私は私は私の力で立てる。今なら、そうはっきりと断言できる。

1Q84の中で、主人公の青豆がお役目をいただくに至るにあたり、直接的な社会の課題として暗示的に提示されるのが、女性性の癒しであり、解放である。青豆が訪れるシェルターを、私は夜の植物の呼吸が満ちる温室の空気に、嗅ぎ取った。喜びの宿る料理や、そこで暮らす人の大地の歩き方や、調和を目的に編み出された様々な人智を集めた書籍の配架にも、嗅ぎ取った。ここは、ひとを人間的に傷つけない場所であり、絶対に守られている、と感じた。

私は一体、守られていなかったのだろうか?確かに心地よいコミュニティをいくつか通過する中で、この旅の収穫としては上々だ、位に思っていた。でも違った。それは私の奥の奥のところに見えないように閉まっていたところに届き、共振してはくれなかった。だけれど、身体という媒体と精神をつなぐことのできる件の先生との出会いがもたらされたことによって、そこは掬い取られて心という水槽の中で沸き立つように胸を引っかき、えぐった。そこからはもちろん血の滴るように涙と嗚咽が止まらなかったが、それが過ぎると、私の杯は常に一杯であふれていて、その目的を引き受けられる、そんな気分になった。

おそらく、濃かれ薄かれ皆どこかで気づいているように、多かれ少なかれ、生き方の分岐点に立っている。誰しもが。そこを引き上げるように、手を重ねて導いてくれる人たちとご縁を結ばせていただいた、この旅はそんなものになっている。それはつまり、恩送りで生きて行ける場所であり、そういうあり方をした人たちの集合を巡礼しているような、そんな時間であり、答え合わせのような、奇跡的に編まれた数珠を眺めて恍惚とするような心境を連れてくる。

少しの、自己理解と、少しの「できた」・そこから育む自信と自己信頼と他者信頼。そういうものがぐるぐると回って、螺旋を描いて良い方向へ進みますように。

そのために、「他の人のために」なんて体面を保つような真似ばかりするのは、もう、止めてしまったらいい。他の何を置いても、自分自身の純度を高く、感性を鋭敏に保ち、それに従って両手を挙げて降参して、生きたらいい。

自分の声に素直に生きている人は、皆、健康で美しい。

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わたしもそんなふうになれますように。

月の二つかかっていそうなこの青い島で、通奏低音のように感じていることを、そのまま言葉にしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

おやすみなさい。


令和三年八月二十一日

知未


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