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ほぐす学び#3観る_ユクスキュルの”環世界”

今年は3月から他社との合同読書会に月1で参加したり、本への関わり方に変化があった年だったこともあり、9月に思い立って参加した『ほぐす学び』。

きっかけがないと自分が手にしないような類の本を通じて、参加されている皆さんと語り・味わい・深める体験をしています。初回がレヴィン、2回目が河合隼雄、3回目がユクスキュルと今西錦司でした。

毎回参加者が課題図書について発表しており、先日10月21日のSession3では私がユクスキュルの『生物から見た世界』の概要をまとめて12分で発表しました。きっかけがないとnoteを書かないなと思い、学んだこと・感じたことを書き残そうと思います。

ユクスキュルの「環世界」

ユクスキュル

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)は、エストニア出身のドイツの生物学者・哲学者で「新しい生物学の開拓者」と呼ばれたそうです。日本にはハイデガーを介して紹介されており、「環世界」という概念で有名です。

『生物から見た世界』のまとめ

◆すべての生物は、客観的な環境ではなく、 生物が知覚でき、作用できる(=働きかけられる)主観的な「環世界」に生きている。
◆生物はそれぞれ独自の空間、時間を生きていて、客観的な時空は存在しない。生物によって一瞬の長さは違う。
◆生物は過去の経験・歴史や、自身の置かれた状況によって、環世界の中で出会うものに意味を与え、生きている。

マダニの「環世界」

マダニは「光を知覚して木に登り汗の匂いを感知したらDIVEし、動物の上に落ちたら毛の少ない場所を発見して血を吸う」動きをしています。マダニの世界には色はありません。あくまでも知覚し作用できるものだけが世界を構成しています。また、18年間絶食したダニが発見されたこともあるそうで、ダニにとっては一種の睡眠に似た状態であり、いわば一瞬だったともいえるそうです。
ちなみに、ユクスキュルによると人間にとって一瞬の長さは18分の1秒だそうです。どっかに「9秒間で拳を100発繰り出す、ケンシロウの北斗百裂拳に人間が気づけないのは仕方ない」的な記事があって笑いました笑

環世界とは、それぞれの生物がそれぞれの感覚や身体を通して生きている世界

◆すべての生物は、客観的な環境ではなく、 生物が知覚でき、 作用できる(=働きかけられる)主観的な「環世界」に生きている。その生物にとって「固有の”生きる世界”=環世界」を生きている
◆生物は、意味のあるものだけで世界を作り上げている。=意味のないものは世界に存在しないのと同義
◆感覚器によって知覚される世界(知覚世界)と、身体を使って世界に働きかける世界(作用世界)が連携することで「環世界」をつくる

また、環世界と環境の違いも以下のようにまとめることができます。

「環世界(Umwelt)」
・主観的
・それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している世界のこと。
「環境(Umgerbung)」
・客観的
・ある主体のまわりに単に存在しているもの。

彼の主張は概ね「環世界」という概念に集約されます。細胞のあつまり・各器官のあつまりが生物なのではなく、その器官と環世界によって生物個体は構成されるというものです。(人間だけではなく、生物全般が環世界を有するという立場)
環世界、私は初めて聞いた言葉であり、最初はどういうこと?と思いましたが、時間が経つにつれて自分自身の経験としても色々と繋がるところがありました。

私にとっての環世界「xxが世界をどう見ているか」

まず思いついたのは、映画『プレデター』です。アーノルド・シュワルツネガー演じる主人公が宇宙から来た生命体であるプレデターと戦うSF映画ですが、プレデターは視覚で世界を知覚しておらず、熱を知覚して獲物を追っていきます。そのため、映画のあるシーンでシュワちゃんが泥をかぶって自分を冷やすことによってプレデターから身を隠すシーンがあります。まさに「プレデターが世界をどう見ているか」を逆手にとったといえます。

次に『トゥルーマンショー』です。自分以外の周囲が演じている世界を生きている主人公を追うという映画ですが、主人公に感情移入しつつ体験するという映画だなぁと思います。

また、先日ダイアログインザダークに久々に行ってきて、真っ暗闇体験をしてきたこともあり、視覚に頼れない90分を味わってきました。
「目の見えない人が世界をどう見ているのか」を感じる時間は、聴覚・視覚・触覚が研ぎ澄まされた感覚になったり、目に見えていないにも関わらず、「きっとこの先には壁がある」「ここは思ったより狭い」など脳内で勝手に配置イメージを描き始めたりと、いかに日常で光に照らされた世界・視界に頼った情報収集を行っているかを体感する時間でした

ユクスキュルの主張としては、同じ空間にいても生物によって個人によって「環世界」は違うとのことです。人はシャボン玉のような空間にいて、自分の世界を生きていると。さらには、同じ空間・同じ個人であっても「環世界」が異なることがあると。
例えば、「同じ場所を訪れても空腹時には飲食店しか目に入らない」などは同じ場所であっても見える世界が異なる体験の一つだと思います。

また、キャリアコンサルタントの学習時に出てきた、カール・ロジャースの傾聴の3原則「理解・共感・自己一致」というものがありまして。
研修やワークショップなどのファシリテーションを行ったりする際に「あの人には今の世界・今の環境・今の状況がどう見えているんだろう?」と客体としての他者の世界の見方について考えを巡らせてしまいがちなところを、「あの人が世界をどう見ているか?」に意識を向けていくことによって「その人が見ているものを見る」ことが大事なんだなと気づきを得たことを思い出しました。「その人を見るのではなく、その人が見ているものを見る」自分自身が難しいと自覚しながらも意識していることの解像度が上がった感覚がありました

環世界が先か、知覚が先か

カラーバス効果やカクテルパーティ効果のように、人は「見たいものを見る」といいます。

カラーバス効果とは、ある一つのことを意識することで、それに関する情報が無意識に自分の手元にたくさん集まるようになる現象。

「選択的注意」とは、多様な情報が渦巻くような環境条件下において、その個人にとって重要な情報のみを選択し、それに注意を向ける認知機能を指します。 選択的注意に関する現象や研究として、「カクテルパーティー効果」

これらは意味付けされた世界が先にあり、その世界を構成するシグナルを知覚しているというユクスキュルの見方に沿うなぁと思います。見えているものを見ているのではなく、見たいものを見ているという。
※虹はいくつの色がある?という問いに対して「世界共通で7色ではない」といいます。ここから派生して虹を観察した結果として7色と認識しているのではなく「虹は7色」という概念を先に獲得して虹を認知している、という概念シフトのイノベーションの話を思い出しました。

ユクスキュルに従えば、知覚と作用。知覚できるかどうかと作用できるかどうか。知覚はできても作用できないと世界の一部にならないともいえます。作用できるという対象への自己効力感がないと、学習性無気力感にもつながってしまいます。
知覚と作用、両方が環世界には大事なんだと思います。

社会構成主義における「世界は言葉で作られる」を持ち出せば、使う言葉が変わることで知覚する情報自体が変わるといえます。
例えば、心理的安全性という概念を獲得することで、会議の様子を見て参加者一人ひとりが発言できているかを観察するようになる、みたいな。
使う言葉によって見える世界が変わるなら、使う言葉/概念を獲得することで、生きる世界の中で知覚する情報が拡張していくんだと思います。そう考えると読書や対話はもちろん、新たな言葉の獲得を通じて新たな環世界との出会いを楽しみたいなと思ったりもします。

ただ、すでにある世界を見るのであればそれで良いのですが、新たな世界ができるわけではありません。自分に対して「環世界を広げたいのか」「新たな環世界を作りたいのか」という問いが浮かびます。レイチェル・カールソンの『センス・オブ・ワンダー」を雑に要約すれば、「知ることよりも感じることが大事」ともいえます。果たして常に言葉や概念、環世界が先なのかと。

知覚する・観察することによって新たなモノの見方、環世界を構成することができるともいえるため、世界の捉え方として「環世界アプローチ」「知覚アプローチ」の両方を大事にしたいなと思いました。

グループでの対話・議論

  • パラダイム(思考の枠組み)と何が違う?色眼鏡?ダイバーシティともつながり、70億人の見方があり、対話を通じて共存していく必要がある?

  • 色々な人の話を聴く仕事をしているが、家族でも語り/物語が違う。多様性って客体が多様なんではなく、主体・環世界が多様。

  • 多様性とはそれぞれの主体的・主観的な見方があるわけであり、混沌なのでは。

  • 「魚って泳いでるけど苦しくないのかなぁ」苦しい世界にいる魚。

  • 世界をどう見るか。社会をどう見るか。

  • ダニはダニだけでダニにならない。

  • 乙武さんの100mチャレンジ

まとめ:まだ知覚していない意味のある世界を広げ、作っていく

当たり前ではありますが、100人いれば100人の環世界があるわけで、100人の物語・100人の意味づけがあります。
環世界という概念を自分に引き寄せると、リアルな場での人とのかかわりを通じて、その人自身の環世界に触れること。さらには映画・アニメ・小説・ドラマ・ゲームなどのエンタメを通じて非日常の環世界に触れること。それぞれの環世界に触れたり味わったりすること自体が尊く刺激的で楽しい時間だなぁと思います。
これらをさらにメタ的に捉えると、なぜ自分にとって色々な環世界に触れることが楽しいかといえば、自分自身がまだ見ぬ世界を見ることそのものが世界の広さや深さを直面させられ、知的好奇心を刺激する楽しい体験だからだなと思いました。

「環世界を見るには能力が必要。人間主体の能力で切り取られた、自然界の本の小さな一コマにすぎない」ユクスキュル

「岩石は無世界的。動物は世界窮乏的。人間は世界形成的」ハイデガー

ハイデガーは人にしか物そのものを受け取る能力がないと断じたわけですが、ダニにはダニの世界があると論じたユクスキュルの見方の方が個人的にはフィットします。
その上で、ヒトはあらかじめプログラミングされた世界の見方を固定的に有しているのではなく、これから色々な世界を形成していくことができるという可能性に満ちた存在だといえます。世界と出会い直す余地が多分にあると。

ただし、國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』で「人間は環世界の移動自由度が極めて高い」と語ったように、他の動物よりも人間はより容易に異なる「環世界」を行き来してしまうため、かえって一つの世界に浸っていることができず退屈してしまうともいえます。

退屈を避けるように一つの世界に逃げ込むわけではなく、誰かの世界に共感しすぎることなく、日々の知覚情報から新たな世界を作っていく。
これが自らの「環世界」との付き合い方なのかもしれないと思っています。

未知に直面することは多少の恐ろしさを伴うものの、2022年に本を通じた自分をほぐす体験を12月まで続けられることがとても楽しみであり、もう少しの間、味わい続けたいと思います。

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