SNS時代の美的カテゴリー「エモい」「映える」「刺さる」を考える

SNS時代に美的判断を表す「エモい」「映える」「刺さる」について考察した今年初め頃のメモ書きを放流する。以下、前提としてこの3語の背景を軽く説明する。
「エモい」は音楽用語から始まりここ数年で使用が拡大した言葉で、心の強い動き全般に広く用いられる。その性質からよく「言語化の放棄」としてバッシングされているが、ここではその存在を擁護している。
次に「映える」。「映(は)える」という言葉自体は古くから使われていたが「インスタ映(ば)え」などの語の登場により「映(ば)える」という形で新たな広がりを見せた。主に視覚的に目を引く美しさを意味する。
そして「刺さる」。2010年頃の一般的な使われ方は「心に刺さる」「胸にグサグサ刺さる」など辛辣な言葉などに対してネガティブに使われることが多かったが、近年は「性癖に刺さる」「[作品名]がめっちゃ刺さる」のようにポジティブな使用が増加した。
以下、この3語について個別に分析していく。

▼エモい

「エモい」は、感情を言語で共有することに対する諦念の現れである。
まず、人間のあらゆる感情は、言葉にした時点である程度「嘘」となる。財布を落としたときの感情とペットの猫を喪ったときの感情は、どちらも「悲しみ」とラベリングできるが、もちろんこの2つの感情は等価ではない。感情は言語にした時点である程度「曖昧」になり、生(なま)の感情の解像度を保持して共有することはほとんど不可能なのだ。もちろん、言葉を尽くして感情に近似する表現を作ることは不可能ではない。ただ、その表現も感情の近似にすぎず、またその近似を伝える作業でさえすべての人間に可能な芸当とはとても言えない。言語による感情の共有には、常に困難さが伴う。

しかし、我々はどこかで、「人間は共通した感情を経験している」と信じている。言語で共有するまでもなく同じ感情の中を過ごしていると感じている。それを確かめる術は無いが、それでもペットを喪ったときの気持ちや、雨のなか憂鬱に打ちひしがれる日の気持ち、早起きして心地よい朝日を浴びるときの気持ち、初めて恋をしたときの気持ちなどは、「共有するまでもなく、同じものが相手の心の中に存在しているのではないか」とどこか期待している。そしてこれを確信したとき、もはや言語で感情を共有する必要はない。同じ景色を見て「エモい……」とだけ表現することで、感情の曖昧化を避け、ただ"この感情"の発生だけを共有することができる。「エモい」は互いの信用のうえで成り立つ、言語の役割を捨てた諦念の言語である。

▼映える

人には、自らの体験を他人に共有し、その体験を評価してもらいたい、という欲求が本能的に備わっているように思われる。そして、21世紀のSNSの発達は人々に様々な体験の共有を可能にした。食べたご飯の情報、観た映画の情報、行った場所の情報などである。しかしスマートフォンというデバイスの性質上、言語を除いた五感のうち共有可能なものは視覚と聴覚のみであった。そして、そのうちの視覚は、多くの情報を伝えられる点で聴覚より優れており、また言語のアウトプットよりも遥かに手軽であった。その結果として視覚情報による共有とその価値判断軸である「映え(ばえ)」が台頭したのは必然と言える。(最近YouTube上では聴覚に重きをおいた食事風景の共有(モッパン)も流行り始めているが。)

「映え」の登場によって、食べ物や観光スポットは視覚的な美しさだけでなく、なんらかの派手さ(取っ掛かり)が求められるようになった。多く「映える」と呼ばれるものは、ただ美しいだけでなく、何らかの視覚的な違和感(非日常性)を要求とする。TLに様々な情報がひしめき合うSNSという媒体で注目されるには、他人との差異を必要とするためである。この差異を求める特性は、競合との差別化により価値を生産する資本主義とも相性が良く、「映え」という価値観が拡がった要因であると考えられる。

▼刺さる

SNSは、リアルの会話よりも「危険なコミュニケーション」を取ることが可能である。この「危険なコミュニケーション」とは、すなわち自己開示である。自己開示はなぜ危険なのか。
まず、現実世界のコミュニケーションは共感される発言が必要とされ、共感されない発言を安易に連発すると「理解しがたい奴」と思われてしまう。例えば、初対面でマイナーなインディーズバンドの話を始めるのは「危険」である。相手に理解されない可能性が高い。また、初対面で突然「おいしいセミ」の話をするなどはもっと「危険」である。相手が昆虫食に理解があるならまだしも、その確率はかなり低いだろう。ドン引きされる可能性のほうが高い。それよりも、まずは天気の話題とか、共通の知人の話題とか、より広く共有されているか、より確実な話題を選ぶべきだろう。現実では得てして「安全なコミュニケーション」が取られがちなのである。

しかし、SNSを始めとしたインターネットはその限りではない。インターネットのコミュニケーションは常に「誰か 対 誰か」である。発信者はインターネットという情報の海に投稿を投げ込み、受信者はその海の中から興味のある投稿のみを受け取るのがインターネットの基本構造だ。すなわち、「好きな投稿をしてそれを好きな人が受け取る」というインターネットでは、リアルコミュニケーションで発生した自己開示のリスクは非常に低くなるのである。
工場夜景が好きな人が周りに一人もいなくても、インターネットを探せば同好の士は10000人以上いるかもしれない。一度も周りに話したことがない気持ちも、インターネットですでに誰かが言葉にしているかもしれない。この「遭遇」こそが「刺さる」という言葉の表す現象である。限りなくニッチな体験やごく個人的な心情を綴った言葉が鋭い針となって誰かの心を射止める。これが「刺さる」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?