倫理的主張を評価する際の指標の整理

何か倫理的な議論をしようとか、倫理的な表明の評価をしようという時にその評価のモノサシを巡ってすれ違いが起きることがままあるな、と思ったので脳内の整理も兼ねてメモ。もしこの辺掘り下げてる書籍ご存じの方いたら教えて下さい……。

私が考える限り、倫理的主張にはまず2種類存在する。その2つをここでは「理念的倫理」「実践的倫理」としたい。以下で説明する。

まず、人類が目指す理想的な世界を考えたとしよう。素直に考えれば、それは「全人類が幸福な状態」とかだろうか。しかし、この「全人類が幸福な状態」を実現するのは、当たり前だが容易ではない。一朝一夕で達成できるものではないだろう。では、実現が難しい、ある意味で空想的なこの理念は考えるだけ無駄なのだろうか。そうは思わない。このような理念は人類が目指す指針、北極星としてやはり必要なのだ。このように、人類が最終的に目指すべき理想形として存在する倫理を「理念的倫理」と呼ぼう。この理念的倫理は人類の「あるべき姿」を想定し、そこを起点としてその実現方法を論理的に組み上げていくことを目標にする。

一方で、現実には法律や社会規範のような実際に機能している倫理道徳が存在し、またそれらは日々改定されている。改定されているということは、それらは"究極の"倫理ではないということだし(まぁ哲学者が机で考えた理論も日々改定されるんだけど)、また多くの人がその存在意義を認めている以上、少なくともある程度は"機能する"倫理であると言える。この「理想的ではないが機能はしている倫理」を「実践的倫理」と呼ぶことにする。「実践的倫理」で重要なのは、「それが実現可能である」という点である。机上の空論を並べるよりも「実現可能で、社会をより倫理的な理想に近づけることができる現実的な規範」を重視するものなのである。ここで両者の差が見えてくる。
「理念的倫理」は前提となる理念を打ち立て、そこを出発点とした論理体系を組み立てる。一方「実践的倫理」は社会でちゃんと機能して"できるだけ多くの倫理"が実現するような規範を打ち立てる(両者は必ずしも排反ではない)。

この2つを混ぜて議論すると、致命的なすれ違いが発生する。なぜなら「理念的倫理」はさしあたり実現可能性については勘案していないし、対して「実践的倫理」は論理的な整合性よりも社会的な実利の数字を優先するためである。たとえAを規制してBを規制しないことが論理的に矛盾していても、そうすることで多くの人が救われるならばそうすべき、というのが「実践的倫理」である。(この「実践的倫理」を取るのが論理的にも正しい、つまり「倫理体系の中の矛盾があっても、それが社会的に機能する最高の倫理だ」と考えることもできて、そうなると「実践的倫理」がメタ的に「理念的倫理」である、と言うこともできる。)

さて、この2つを区別した上で、さらにその「表明」という行為についても区別する必要がある。つまり、倫理的な主張には「観念的表明」と「手段的表明」が存在するのだ。

「観念的表明」は、自らの思考内容をそのまま言語化し、表示したものである。一般的な思想や意見の表明はこれである(と、考えられていることが多い)。一方で「手段的表明」は、主張者の考える理想の倫理的状態を実現するための手段として行う表明である。この場合、その表明によってどれくらいの人が行動や思考を(より倫理的な方向に)改めるか、が重要となる。その内容の論理的整合性は必ずしも必要ではなく、さらに言えばその内容が自分の思想と一致している必要すらない。その表明が手段として有効であるかのみが争点なのである。

そして、この2つを混同することも、またすれ違いが発生する原因となる。「観念的表明」として見ると論理的な矛盾を孕んでいても、社会をある倫理的状態に近づけるための「手段的表明」としては至極まっとうであるようなものは多数見受けられるのである。なので、「内容は矛盾しているが表明行為それ自体は社会のためになる」という評価が存在しうることは念頭に置くべきである。

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