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立川流日暮里寄席二日目(2024.06.04)

定時で逃げ出して日暮里へ。
披露目の興行ではないが、5月に晴れて真打となったらく兵がトリ。

「手紙無筆」立川公四楼 (開口一番)
「厩火事」立川談洲
「ぷるぷる」立川吉笑
「寿限無(下)」立川キウイ
「のめる」土橋亭里う馬
「紺屋高尾」立川らく兵

中入り無し。

読みが「コウシロウ」な談四楼門下は以前も居たが、今の人は「公」のコウ。
上手くはないが今はこれで良い。

その噺の肝はどこにあるのか、何に反応して人は笑うのか。
そのあたりを考え、分解し、再構築した「厩火事」。
鸚鵡返しを増やしたり、イリュージョンで幻惑したり。
女心の矛盾の面白さを描こうとすると、論理矛盾を感情論でねじ伏せる厭な部分も見えてしまうが、そこはその矛盾から出る色気で幻惑していた。 任に合った演出。

手塚治虫式スターシステムの援用。
長屋噺の器と登場人物を使用して展開するドタバタ喜劇。
音としての面白さと、言葉としての面白さが共存。
過去のようで現代のようでもあり、時代は希薄だが、落語長屋の住人たちは、それらしく、生き生きと訳の分からない事をやっている。
長屋スターシステムを使うと、ジャンルとして長屋噺になる。
あとに上がる演者が根多選びで困らない。
(深い上がりになったとき、自分が困る可能性はある)

出演者のエピソードを絡めつつ、楽屋噺を漫談風に。
その人物を知らなくてもエピソードとして面白く、知っていればより面白い。
技巧で聴かせるタイプではないし、一見無手勝流なのでスノッブな向きの中には嫌う人も居るが、目の前にいる人を楽しませる力はあるので、何と言うか、普通の人には普通にウケる。
これが実は難しい。
最後に「寿限無(下)」みたいな感じでダイジェスト版を演って、根多帳を付ける前座さんが困らないように。
「話の肝の部分の抽出」と言う点に於いて、談志的でもあり、端折って纏めて一と笑い取って下がるところは矢張り年の功。

「落語は自由で良いですね。」と前の演者の高座を評しつつ、枕もそこそこに「のめる」。
「ぷるぷる」と付くと言えば付くのだけれど、噺の傾向は違うので気にならない(書いていて今気付いたくらい)。
毒にも薬にもならない噺を淡々と、しかし丁寧に。
大笑いするような話ではなく、ところどころでクスリと笑わせる。
全員が熱演するホール落語みたいな会が苦手なので、トリ前の二人の「軽くだヨ」の精神で間に挟まる軽みに救われる。

紺屋高尾。
志らくのフィルターを通した談志の芸、そしてより色濃く志らくの噺との向き合い方、噺の解題としての落語。
荒唐無稽な話の中の登場人物の描写のリアリズム。
虚構の中にある真実。
聴いていて醒めてしまう部分は巧みに端折ってある。

新真打

談志死後に入門した孫弟子、間に合ってはいるが大師匠に付くことは殆どなかったであろう孫弟子、師匠談志と長く過ごした直弟子。
それぞれに落語との向き合い方も異なる。

改作とまでは行かないが、古典を自分なりにアレンジし、解体して再構築すると、取捨選択の際に省いた部分より採った部分が濃縮増幅されて多くなることがままある。
結果として盛り込む芸になり、重くもなる。
若い世代も巧いには巧いのだけれど、そこが少し気になった。

寄席は人生の浪費に行く場所である。
有意義な、時として無為な暇潰しをするところ。
演者のやる気の濃淡も含め。

休演代演交代出演、誰が出るのか、だれがなにをやるのか、その時にならないと分からない
一生懸命やるとは限らない
しかしごく稀に、予想も付かなかったものにブチ当たる事がある。
当世流行の「タイパ/コスパ」から遠いところにあるのが寄席。

近いのがホール落語
あらかじめネタ出しされていることが多いし、基本的に皆一生懸命やる。

どちらが贅沢か、私は前者だと思っている。
キウイから土橋亭の流れ。
ここは私の好きな「寄席」であった。

(2024.06.08 記)

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