個室
観覧車の籠の中は、またたく間に、君の香水の香りで満ちた。
べつに、君が同乗しているわけじゃない。
わたしは、一人、観覧車に乗っている。
そして、君が残していった、香水を、
ただ、その個室の空間に振りかけただけである。
君が居なくなってから随分経つけれど、この香水の匂いだけは、忘れることができなかった。
嬉々としてわたしを呼ぶ声や、泣かせてしまった後の、あの顔とかは、
やけに簡単に忘れたのに、匂いだけは、どうしても、
わたしの脳裏から離れなかった。
そこに来て、この香水だ。
ちょっと前、部屋を掃除していたら、どこからか出てきた。
気がついたら、そこはかとなく、君の香りが漂っていたので、
あたりを見渡すと、そこに、この香水の瓶が、佇んでいたんだ。
ちょうど、今日は、君と、初めて出かけた記念日だ。
離れてしまってからも、こうして、覚えてしまっている。
数字を覚えるのは得意だからか、ただ、未練を断ち切れないのか。
だけれども、覚えてしまっているものは、それはそれで仕方がないので、
こうして、君と初めて来た、遊園地に一人で入って、
一人で、観覧車に揺られている。
ああ……なんだってこんなに歯切れが悪いんだろう。
やりたくてやったことなのに、罪悪感が、喉元まで、やってきた。
いや……罪悪感というよりも、虚無感、かな。
悲しいかな。
やめておけばよかったかな。
でも、やってしまったことは仕方がないな。
なんて、ひとりごちっていると、観覧車は、
とうとう頂点へ達する。
うん、綺麗だ。
懐かしい景色だ。
君と見た時も、こんな感じの、夜景がよく見えた。
そして、おんなじ香水の匂いが、この、
小さな個室の空間に、満ちていた。
虚しくなっても、いいか。
それなら、べつに、笑っていてもいいか。
果たして、観覧車は、地上へと接地してゆく。
なんだか、起伏の激しいひと時だった。
高低差もそうだけれど、なんだか、気持ちは晴れやかだ。
わたしと、君だけの空間だった、あの個室も、
次の乗客のための個室へと様変わりし、
また、別のストーリーがそこに生まれてゆく。
香水は、売るか捨てるか、わたしが使うか。
まあ、それは帰ってから考えればいいや。
じゃあね、観覧車。
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