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ロンドン

 車窓から覗きみる朝六時半のロンドンは、

 昨夜の喧騒とか猥雑な営みを淡くのこして、

 かすかな朝の太陽をぼやかしている。

 助手席で本を読む君は、わざとらしくしかめ面をしているが、わたしはあえてそれに触れないでいた。

 運転手は、わたしたちの異様な雰囲気に気圧されて、

「ご旅行ですか」

「ええそうです」

 というそっけない会話の後は、黙り込んでしまった。

 車内は静かに満ちている。

 皮張りの高級そうなシートが、やたら硬く感じられた。

 窓に映る君と目が合う。

 君はすぐに紙の文字に目を移し、うつむく。

「ばーか」

 歯切れ悪く云った君の声。

「馬鹿って云うほうが、ばかなんだよ」

「なんだ口答えか」

「そういう君は器が小さいね」

「あほ」

 おしなべてしょうもない罵詈雑言である。

 運転手は、突然始まった
 ――日本語による――
 悪口合戦に、理解できないながらに当惑の表情を浮かべている。

 にわかに活気付いた車内は、君の笑い出す声を合図に、幕を下ろすように落ち着く。

「あーあ」

 ぱたん。

 本を閉じる心ゆかしい響き。

 勢いよく背を預けたシートが、わたしの方に向かってバウンドする。

「君に謝らせようとしてたんだけどね」

 窓に映る君が、不敵に笑む。

「素直に謝るもんですか」

 わたしが云うと同時に、目的地に滑り込む。

 時計台が見下ろす、パーラメントスクエアの一面の緑は、ビッグベンの影にのみこまれてうすら暗い。

「6.2ポンドずつね」

 君が素早く小銭を支払って、降り立つ。

「割り勘で許したげる」

「安い口喧嘩だな……」

 昨夜の情事の後、わたしたちは旅にありがちな口喧嘩をして眠った。

 たっぷり二時間は続いた戦闘の賠償としては、6.2ポンドは随分安かった。

 朝日に横顔を照らされる君をみて口をついた、

「オトナになったね」

 をすんでで飲み下してから、乳白色の手を取って歩き出す。

 朝六時半のロンドンには、君とわたし。

 それだけ。

Kise Iruka text 101;
London.

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