落花
落下。それは途方もなく救いがなくて、
でも、どうにもならない現実がその時だけは見えなくなって、
ただ、自分のことしか考えられなくなって、
安堵する。そんな一瞬だ。
*
(この作品は三月の下旬に書かれました!)
*
一周まわって帰ってきた春が、ようやく手の届くところまでやってくる。
それは、古い記憶のように柔らかく不透明で、
まだ乾き切らない洗濯物みたいな、
ぼんやりとした感触だった。
桜の幹に手を押し当てる。
バラ科の植物は、基本的に寄り添われることを嫌う、孤高の存在だ。
とげとげした樹皮が、わたしを拒絶した。
枝の先にちいさなつぼみがついている。
それは、まだ石のようにかたい。
「まって、まだ行かないで」
枝と花が切実な別れを体験したのは、たった1年前のことだ。
しかし、性懲りも無く今年もその感動的なシーンを再現しようとしている。
人々が陰鬱な冬の装いを脱ぎ、活気を取り戻し、宴会など木の下で行う頃になれば、毎日のように別れの演出が、おこなわれつづけるだろう。
落ちる花は、何を考えているだろうか。
落花流水という言葉があるが、
落ちた花は、水に受け止められ、ともに流れていく、という意味合いだ。
花と水は相思相愛であり、通じ慕い合っている。
ならば、枝はさしずめ親の立場とでもいうことか。
ならば落ちる花は、何を考えているだろう。
親離れをするほの悲しさと、独り立ちの悦しさ。
その相反する両方を抱えた心の中は、むず痒くもあり、またカタルシスをも感じている。
花にとってはそれでおしまい。
しかし枝は、葉をつけ葉を落とし、身一つになり厳冬を越え、また別れを迎えるサイクルを、ずっと繰り返す。
強かである。
これでは花が浮ついてみえる。
事実、ふわりふわりと浮くように散っていくのだ。
その光景は人々を魅了してやまないが、花火と同じで、
一瞬燦然と輝くものの、その後の記憶も同じようにふわりふわりと定かでない。
そういう、はかないものなのだ。
たが、枝は違う。
誰にも注目されることなく、しかしそれゆえに、己の身一つで厳然とその場に存在し、強かに生きている。
それが、格好いいのだ。
自分もそうあれたらと思う。
浮ついた花にならず、どっしりと現実に即した生き方を、とうとうと続ける。
でも、投げ出したくなる日がやはりくる。
身をも投げ出し、
重力に身を任せ、
ただ、己の“たが”を外したいときが。
そんなふうにしか“たが”を外せないのは、
欠点か、長所か。
しかし、長いサイクルで見れば、
そんなことは正直どうだっていいのだと思う。
落花する。
†
Kise Iruka text 120;
Scattered.
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