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落花

 落下。それは途方もなく救いがなくて、
 でも、どうにもならない現実がその時だけは見えなくなって、
 ただ、自分のことしか考えられなくなって、
 安堵する。そんな一瞬だ。

(この作品は三月の下旬に書かれました!)


 一周まわって帰ってきた春が、ようやく手の届くところまでやってくる。

 それは、古い記憶のように柔らかく不透明で、

 まだ乾き切らない洗濯物みたいな、

 ぼんやりとした感触だった。

 桜の幹に手を押し当てる。

 バラ科の植物は、基本的に寄り添われることを嫌う、孤高の存在だ。

 とげとげした樹皮が、わたしを拒絶した。

 枝の先にちいさなつぼみがついている。

 それは、まだ石のようにかたい。


「まって、まだ行かないで」

 枝と花が切実な別れを体験したのは、たった1年前のことだ。

 しかし、性懲りも無く今年もその感動的なシーンを再現しようとしている。

 人々が陰鬱な冬の装いを脱ぎ、活気を取り戻し、宴会など木の下で行う頃になれば、毎日のように別れの演出が、おこなわれつづけるだろう。

 落ちる花は、何を考えているだろうか。

 落花流水という言葉があるが、

 落ちた花は、水に受け止められ、ともに流れていく、という意味合いだ。

 花と水は相思相愛であり、通じ慕い合っている。

 ならば、枝はさしずめ親の立場とでもいうことか。

 ならば落ちる花は、何を考えているだろう。

 親離れをするほの悲しさと、独り立ちの悦しさ。

 その相反する両方を抱えた心の中は、むず痒くもあり、またカタルシスをも感じている。

 花にとってはそれでおしまい。

 しかし枝は、葉をつけ葉を落とし、身一つになり厳冬を越え、また別れを迎えるサイクルを、ずっと繰り返す。

 強かである。

 これでは花が浮ついてみえる。

 事実、ふわりふわりと浮くように散っていくのだ。

 その光景は人々を魅了してやまないが、花火と同じで、

 一瞬燦然と輝くものの、その後の記憶も同じようにふわりふわりと定かでない。

 そういう、はかないものなのだ。

 たが、枝は違う。

 誰にも注目されることなく、しかしそれゆえに、己の身一つで厳然とその場に存在し、強かに生きている。

 それが、格好いいのだ。


 自分もそうあれたらと思う。

 浮ついた花にならず、どっしりと現実に即した生き方を、とうとうと続ける。

 でも、投げ出したくなる日がやはりくる。

 身をも投げ出し、

 重力に身を任せ、

 ただ、己の“たが”を外したいときが。

 そんなふうにしか“たが”を外せないのは、

 欠点か、長所か。

 しかし、長いサイクルで見れば、

 そんなことは正直どうだっていいのだと思う。

 落花する。

Kise Iruka text 120;
Scattered.

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