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 ブランコとは幼年期のわたしにとってどんな存在だったろう。

 公園の中に、当たり前のように、そびえ立っている時もあれば、

 そもそも、それがない公園もあったはずだ。

 だけれども、

 わたしたちは、人生で一度はあの遊具に乗り、

 一般的な座り漕ぎ、はたまた、ちょっとアグレッシブな立ち漕ぎを嗜んだものである。

 さて、わたしは今、あまりメジャーではない、

 いわゆる『寝漕ぎ』をやっているわけだが。

 云わない?いわゆらない?

 そんな意見もあるかもしれないが、どちみち、わたしは寝漕ぎを愉しんでいる。

 足をきちんと、地面に接地させて。

 腰だけを乗り板に乗せて。

 完全に背中はのけぞっている。

 すなわち、仰向けの状態でブランコに乗っている

 辛い時とか、悲しい夜とか、はたまた、何もしたくない昼間でも、

 わたしはよくこのブランコの乗り方で愉しむ。

 特に意味はない。が、それゆえに、わたしはこれをいつから始めたのか、皆目、見当がつかない。

 大人になってからなのか、学生時代なのか、

 それよりもっと昔の、友達と遊んだ夕暮れとかそのぐらい昔からなのか。

 それが、全く思い出せないのである。

 幼年期のわたしは、こんなひねくれた乗り方できゃっきゃと声をあげ、遊んでいたのだろうか。

 果たして、そうでなければならないのかもしれない。

 と云うよりは、そうであって欲しい。願望だ。

 まさか、ある程度成熟した自分が。

 社会的にも肉体的にも大人、と呼ばれる様になった自分が。

 まさか、公園で、一人で、遊んでいて、

 まさか、こんな乗り方を編み出したなんて考えたくもない。

 おぞましい限りである。

 せめて、幼い頃からずっとやっていたから、とか、

 そんな言い訳を並べ立てる余裕が欲しい。

 まことしやかに、まるで真実の様に、

 自信をありありと持って、雄弁に、そう語りたいのである。

 現代のわたしにとってのブランコは、精神統一のためのもので、現実逃避のためのもので、

 あくまでも遊ぶためのものではないことを断っておきたい。

 そして、あくまでも、どうしたって、この乗り方は、昔からの癖であると云うことも、強調しておきたい

 (異形すぎて、癖、がありすぎる見た目をしているが)。

 わたしは今日も、深夜の公園で一人、ブランコを揺らしながら、

 精神の統一を図っているのである。

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