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書きたくない

まれに、書きたくない、と思える日が来る。

そんな日は、わたしは、いろいろから解放されて自由になれる。

書きたくない時は、書かなくていい。

そう、文学の神様がささやく気がする。

書きたいときに、書きたいものだけを書けばいい、って。

そういうわけで、今日は書かないことに決めたのだが、

結局、書かないことに決めた、という文章を書いてしまった。

どうしたものだろうか……。

本末転倒なのではなかろうか。

結局、文学の神様は、わたしをこき使って、

文字を、この世界に、紡ぎ出し続けたいのではないだろうか。

横暴ではないか。

強引ではないか。

と、そこまで愚痴を云って、そうではないことも、同時に理解している。

結局、好きなのだ、と痛感するのである。

書かない、と決めても、書いてしまう。

文字というものは、物語というものは、

そんな、わたしの性である。


 ――という文章を書いて、作者のわたしは思ったのだが、好きというものは、確かに何にも変えられないが、好きであろうがなんであろうが、やりたくない時は、やりたくなくなるのである。

 人はそういうふうに出来上がっている。

 どこかで、休みを取らなければ、死んでしまう。

 好きだから、ずっと、文章を書いてしまう、というのも、なかなか、カッコつけた言葉だとわたしは、自嘲する。

 これは本心だ。

 好きだから、と云って、永遠に貫き通すことは、なかなかにむずかしい。

 今日、物語を書くことをサボった結果、出力されたのが、このむずがゆく、周りくどい文章である。

 のっぴきならない姑息さである。

 結局の実意は、

(物語を)書きたくなかったので、(物語を)書かなかった。

 という現実に尽きるのである。

 エッセイ、なんて、いえば、うまくまとまりそうだな。

 作家の、書けないリアル。を描いたエッセイとしてなら、なんとか文章として、コンテンツとしてどうにかなりそうだな、という、浅はかで、卑小な考え方なのである。

 まあ、人間であるからして、こんな卑怯なことでさえも、楽しめるのかもしれない、味わえるのかもしれない、と、ちょっとスケール大きめに、考えてみれば、そこはかとなく、楽しい人生になるのではなかろうか。

 と思った、わたしでした。

 しまい。

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