「頭が悪い」と「頭が弱い」の違い、議論での炙り出し

私個人の意見ではあるが、「頭が悪い」と「頭が弱い」というのは根本的に違い、区別すべきことだと思う。たしかに、文章をパッと見た感じ大した違いを感じないかもしれない。しかし私が考えるに、頭が悪い人というのは救いようがあるが、頭の弱い人は最早手の施しようがない。

その違いというのは、頭の中、思考回路の根っこの部分にある。
「頭が悪い」というのは、教育機会がなかったり、何らかの事情で発展的知識を得られなかった人のことを指すと思う。であるので、勉強したり色々経験していくうちに会話について行くことができるようになるし、それに元々会話が成立しないといった状況には陥らない。
対照的に「頭が弱い」となると、話が変わってくる。というのも、頭の弱さは学力などに比例しないのだ。仮に東大を出ていようが、小学校から通っていなかろうが、考え方や頭の中の1番根幹の部分に対話性がない為、会話をしようとこちらから働きかけようが向こうはそれを無意識的に妨げ、結果的にコチラが腹を立てて終わる、といった展開になる。

頭が悪いと会話にならないのではなく、「頭が弱い」から会話が成立しないのだ。
SNSを見ていると毎度見るはずだ。意味も終わりもないレスバトルを。私はあれを議論とは思っていない。あれは頭の弱い人間が快楽を得るための手段だと思っている。
「はい論破」という言葉が物語っているように、向こうは端から対話をしようなどとは考えていない。なぜならそうすると今度は自身が「論破」され、レスバトルに「負ける」からだ。議論というものに勝ち負けはないと思っているが、それを求めるあまりレスバトルという「勝負」に発展してしまっている。少なくとも話が読めて会話ができる人であれば、相手の主張などをいちいち汲み取り思考しようとする。だがそれはレスバトルでは命取りになる。いかに相手をイラつかせ、取り乱させるかが肝となっている。頭の弱い方々というのは、それを無自覚無意識的に瞬間的に発揮できるからこそ、「無敗」なのである。

彼らは今日もどこかで空虚な勝利を誇らしげに生きているだろう。昨今問題視されている小児世代の対話性の無さというのは、決して「頭が悪い」ことから来るのではなく、絶望的に「頭が弱い」ことから来ているのだと私は思う。一度誰かとなにかしらについて議論をしてみるといい。その人が頭が弱いかどうかがわかるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?