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考える女子高生 カント編② 感性の形式

「ビッグバンの前には一体何があったの?」という一言から始まったカント哲学を巡る女子高生とおじさんの物語である。

イマヌエル・カント 『純粋理性批判』

と書かれた黒板を見ながら、2人はあ然としていた。
「イマヌエル・カントって聞いたことないかな」
陽平は笑いながら2人の少女に聞いた。
「ないようなあるようなって感じかしらん」
「イマヌエル・カントは18世紀ドイツの哲学者だ。倫理とか現代社会で習わなかった?」
「どうかしらん?」
真希は首をかしげた。「かしらん」というのが真希の口癖だ。中学生くらいから突然言い始めたときは、美月は随分と驚いたものだったものだ。しかし、今となっては彼女のチャームポイントと認知している。
「ほら、汝の格率ガーって人じゃない? 違ったっけ?」
美月は授業の記憶を必死に呼び起こした。
「そうだね。汝の格率ガーの人だ。まあ、それは良いとして。カントは世界の始まりとはなにか? という疑問に解答を出した人だ」
「そんなのわかるかしら。 だって世界の始まりがわかったところで、その始まりは? ってなっちゃうんじゃないかしら。美月みたいに」
真希はオレンジジュースを飲み終わり、氷をなめなている。
「その問題がどのように解決されるかはお楽しみさ。もちろん、君たちが思っているような解決方法とは限らないけどね」
陽平は勝ち誇っている。雑学を客に披露するのが彼の1つの楽しみである。
「で、カントはなんて言ったの?」
美月は呆れた顔できいた。
「ええい、早まるでない。カントの主張を理解するには少しばかり、長い道のりなのだっ」
陽平は突然、なんとか奉行になったようだった。

「カントがまず、その著書『純粋理性批判』で語るのは感性についてなんだ」
「感性? 感性ってになかを感じる能力のことかしらん?」
「そうそう。例えば、この林檎を見て、林檎の丸くて赤い感じを心にイメージを思い浮かべるみたいにね。じゃあ、ここで問題だ。君たちがなにかモノを見たり感じたりするためには、必要不可欠なものがある。それは一体なんだと思う?
「どういうことかしらん?」
真希は困ったような顔をしている。
「簡単に言えば、私たちにその林檎が見える条件ってなにってことじゃない?」
「そんなの、林檎がそこにあることにきまっているじゃない。 そこに林檎がなきゃ見えないよ」
真希の言うことは確かにもっともだ。林檎はそこになければ見えない。
陽平は林檎をカウンターの中へと隠した。そしてニヤリと笑った。
「さて、君たちはカウンターの上にある林檎を想像できるかな?」
「当然できるよ。さっきまであったんだから」
「じゃあ、林檎があることを想像できないところってあるかな?」
「想像できるでしょ。だって想像だもん」
真希は早く答えを知りたくてしょうがないようだった。逆に美月はまだ答えを知りたくはない。美月はミステリー小説の解答編のページを開く前にトリックを自分で見破りたいタイプなのだ。ページを捲りたい衝動を抑え、最初のページへと戻ってみる。これこそが、ミステリー小説の醍醐味なのだ。
「これは宿題にしよう。そろそろ君たちも家に帰って明日の準備やら、肌のお手入れやらしないと行けないんじゃないかい?」
「まだそんな歳じゃありませーん」
真希は舌を出して答えた。
「でも、そろそろ夕飯を作らないと行けないから、私は帰るね」
と美月は言った。真希は美月が母子家庭であることを思い出した。

そこに林檎がなくても、林檎を思い浮かべることはできる。美月はベッドの中で、ありとあらゆる場所に林檎を想像することができた。カウンターの上にもベッドの上にも宇宙空間にもだ。林檎を想像できない場所っていったいどこ? 
美月の頭の中には林檎が出現しては消えていった。どんな場所を想像してもそこには林檎があった。そもそもその場所を想像できる時点で林檎も想像できてしまう。じゃあ、想像もできない場所って...?

「ねえ、美月。わかったー? 」
2人は仲の瀬橋を渡っていた。橋の上はいつもどおり風が強い。振り返った美月の顔に髪がなびいている。
「うーん。わかったような、わからないようなってところ」
「えっわかったの? 私は全然わからないよ。教えてってば」
真希は後ろから美月の脇腹をくすぐった。
「ちょっと!」と言いながら、美月は体をよじりながら仲の瀬橋を駆けていった。

「さて、それじゃあ、宿題の答えを聞こうか」
陽平はコーヒー豆を挽きながら2人に言った。
「じゃあ、答えるわね。それは場所でしょ?」
美月は勝ち誇ったように答えた。
「場所ってどうことかしら」
「説明するわ。つまり、私たちはどんな場所にでも林檎を想像することができるの。そうでしょう? でもその土台である場所、そのものがなかったら、私たちは林檎をイメージできないんじゃない?」
「うーん。どうかしらん。場所がなくても林檎を...」
真希はなにもないところにある林檎を想像してみた。でもそこにはなにもないという場所があるのだった。
「なかなか惜しいところ言ってるね、みっちゃん。じゃあ、カントがどう考えたか教えてあげよう」
と言って陽平は説明をはじめた。

カントは僕たちがなにかを見たり、感じたりするために必要不可欠なものとして2つ挙げているんだ。それは「空間」と「時間」だ。空間はみっちゃんの言う通りだ。僕たちは空間がないと何も認識することができない。ある空間があって、その中に林檎なり、コーヒー豆なりが存在して初めて僕たちは林檎やコーヒー豆を知覚することができるのさ。
逆に考えると、僕たちが今、この店で感じている総ての対象を消し去ってみよう。椅子とかテーブルとかをね。でも総てを消し去ってなお、残っているものがある。それが「空間」だ。「空間」がないと僕たちはモノを知覚することができない。そして、何かを知覚しようと思うとそこには必ず空間があるんだ。

今度は「時間」について考えてみよう。もしかしたら時間についてはあまり、ピンとこないかもしれない。では、ここで林檎の甘さについて考えてほしい。君たちは林檎を食べて甘いと感じるはずだ。ところで、この甘さというのは、時間なしに感じられるだろうか。そもそも時間の経過なしに、僕たちは何かを考えたり、感じたりすることができないんじゃないかな。
逆に言えば、何も感じず、考えもしないようにいくら努めても、僕たちは時間の流れの中にある。

話をまとめると、僕たちが何かを知覚するのに必要なのは「空間」と「時間」なんだ。そして、この2つをカントは「感性の形式」と呼んだんだ。

「形式? 形式ってどういう意味かしら?」
「確かにちょっと独特な言い回しだよね。なくてはならないもの、テレビの画面みたいなイメージかな。ほら、テレビって画面がないとなにも見えないだろ」
陽平は斜め上の方を見ながら答えた。美月は画面がなくても見えるテレビを想像してみたが、それはどちらかというと妖怪の類だった。
「でも、ちょっと気になるんだけど、空間がなくても甘さを思い出したりはできるんじゃない?」
と美月は手で顎を触っている。これは美月が考えているときの癖だ。
「いいところに気がついたね。実は空間が必要なのは僕たちの外にあるものを知覚するときだけなんだ。僕たちの内側の心の中のことは時間があればいいんだ。何かを考えたりするためには時間という形式が必要なんだ」
私たちが何かを感じるときには、必ず「空間」と「時間」が必要だとカントは言った。美月は頭の中で時間が止まっている状況を想像した。しかし、その想像の中で止まっているのは他人の時計であって、自分自身の時計ではないのだ。想像している自分自身の時計は常に動き続けているのだった。

「ねえ、その感性の形式と宇宙のはじまりって何が関係あるの?」
と真希は唐突に言った。確かにそのとおりだ。美月の最初の疑問はビッグバンの前に何があったかについてだった。
「まあ、そうすぐ解答が出る問題じゃないんだよ。でも世界の始まりを知るためにはまず、僕たちがこの世界をどのような方法で認識しているかを知ることが大事なんだ。世界の始まりを知るためには、世界そのものを知らないとね」
「さて、ここでまたしても問題だ」
陽平は意気揚々と言った。

君たちは真に世界を認識できているか?

つづく

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