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考える女子高生 カント編① 宇宙のはじまりって?

ときに人はどうしようもなく、頭にこびりついて離れない問いに遭遇することがある。このnoteは、そんな問いに取り憑かれた少女の気難しい青春の物語になるはずである。

「ねえ、ビッグバンの前には一体なにがあったと思う?」

真希は、それが自分に向けられた問であり、ビッグバンとは宇宙の始まりとされる大爆発のことであることに気付くのに些かの時間を要した。
「ビッグバンって授業でミヤモンが言ってたやつのこと?」
真希は美月の顔を覗き込むように訊ねた。
「そうそう、宇宙の始まりって宮本先生は言ってたけど。じゃあ、その前は一体何があったの?」
「だから、なにもなかったんじゃない?」
「じゃあ、どうしてビッグバンが起こるの? 何もなかったらビッグバンも起こらないじゃん」
「まーそうだけど、何だっていいんじゃない。美月は変に考えすぎなところあるからね」
確かに美月には考えすぎるという欠点があった。考えすぎる人間というのは、いつになっても行動できない。そうしているうちにチャンスは目の前を通り過ぎてしまうのだ。
「じゃあ、また明日」
と二人で言い合ったあと、美月は信号を渡った。春から夏にかけて、この通りは一番美しくなる。新緑の木々と木漏れ日。それを眺める人々の表情が美月を上機嫌にさせた。この道が永遠に続いてはくれないものだろうか、美月はそんなふうに思わずにはいられなかった。

カフェ&バー「アイロニー」のドアを開けるといつもどおりの音と珈琲豆の匂いが美月を迎えた。
「いらっしゃい」
店の奥からいつもどおりのくぐもった声が聞こえる
「なんだ、みっちゃんか」
「すいまんせね。金払いの良い美女じゃなくて」
「そういう意味じゃあないんだよ。といってもどういう意味でもないんだけどね」
陽平は被っていたニット帽をカウンターの上においた。陽平は美月の母の弟、すなわち叔父ということになる。美月は学生カバンを椅子において、カウンター席に座った。
「何になさいます? お嬢様?」
「りんごジュースちょうだい」
「はいよ」
陽平はりんごをまな板の上に載せ、フルーツナイフで半分にして、それを専用の器具で押しつぶた。その間、美月はスマートフォンでビッグバンについて調べていた。そのどれもが美月を納得させるものではなかった。
「ねえ、おじさん。ビッグバンの前に何があったか知ってる?」
美月はりんごを潰している陽平に訊ねた。
「なにもなかったんじゃないかい?」
「じゃあ、どうしてビッグバンが起こるの?」
「さあね。そういう気分だったんだよ、きっと」
「だって納得できる? 何もないところから何かが生まれるなんて」
「そう言われれば、そうだけど、じゃあ一体どこまで遡ればみっちゃんの疑問は解消されるのかな。ビッグバンの原因がわかったところで、じゃあそれはどうしておこったのってなるじゃないかい?」
「でも、納得できないの。どうして宇宙は生まれたのかしら?」
陽平はグラスに削った氷を入れ、マドラーで器用にぐるぐると氷を回している。
「しょうが無いから、教えてあげよう」
と陽平はりんごジュースを差し出した。
「宇宙はビッグバン以来、現在も膨張しているのは知っているよね。そして、いずれは膨張が止まり、今度は収縮し始めるんだ」
美月はストローに口をつけながら叔父の話を聞いている。
「そして、いずれはちっちゃくなってしまうんだ」
と陽平は手の親指と人差指をくっつけて見せた。
「これ以上もう小さくならいってところまでくるとビッグバンがまた起こるのさ。そうしてまた、宇宙は膨張を始めるんだ」
陽平は近くにあったけん玉を持ち出し、振り子のように左右に揺らし始めた。
「そのけん玉のように宇宙は行ったり来たりしいるってこと?」
叔父は笑顔で頷いた。
「宇宙に始まりなんてないんだ。永遠に膨張と収縮を繰り返すのさ。まるで振り子のようにね」

美月は振り子のことを考えていた。膨張と収縮を繰り返す不思議な振り子のことを。
たしかに無限にそのような振動が繰り返されているのかもしれない。
それでもなお美月には違和感があった。無限に続く振り子は一体どうやってできたんだろうか。無限の振り子にも始まりがあるのではないないか。しかしそれは自己矛盾だ。始まりがあるのならそれは有限だ。無限ではない。無限とはいったい...?
いつのまにか美月は睡魔に身を委ねていた。

美月は今日もアイロニーに来ていた。
「おう、また来たのかい。随分と暇なんだね」
「暇じゃないわ。人生の時間は有限なの。暇なんて潰してられないのよ」
美月は機嫌の悪そうな声を出しながらカウンターに座った。叔父は頭をかきながら苦笑いをしていた。どうやら、美月はどんどん姉さんに似てきているようだった。
「ねえ、この前宇宙は膨張と収縮を繰り返す振り子って言ってたじゃない?」
「そういえば、そう言ったような気がするね」
叔父はすでにりんごジュースを作り始めていた。
「私あれから随分と考えてみたの」
「へえ、考えるのはいいことだ。我、思考する故に我ありさ」
「なんか、おかしいと思ってたの。無限に続く振り子なんてね。」
「どうおかしいんだい」
「だって、どんな事象であれ無限回も繰り返すなんて、できないじゃない」
「どうして無限回繰り返すことはできないの?」
突然、後ろから声が聞こえて美月は思わず飲んでいたりんごジュースを吹き出した。
後ろのテーブル席に座っていたのは真希だった。
「どうしてここに?」
「あんた、学校サボったでしょ。学校のプリントを渡しに来たの」
真希は笑いながらプリントを渡した。
「で、どうして無限回繰り返すことができないの?」
「もし、宇宙が永遠に膨張と収縮を繰り返しているとしてね。そうすると、今この瞬間までに宇宙は無限回の膨張と収縮が起こっているはずよね?」
「うん、そういうことになるね」
真希はオレンジジュースを飲みながら、真剣な顔をしている。
「でも考えてみて、どんなものでも無限回の事象が起こる終えるなんて矛盾なの。だって、無限って決して終わらないって意味じゃない? でも、この瞬間までに宇宙が膨張と収縮を無限回やり終えているっていうのは、無限の定義に矛盾してるの」
真希は頭がこんがらがりそうだった。無限回なにかが起こり終えたということは、そもそも無限という言葉の定義に矛盾しているということらしい。
なにもないところから宇宙は生まれない。でも永遠に宇宙が存在していたわけでもない。じゃあ、この世界ってどうやって始まったのかしら...?

「君たちの小さな疑問は2世紀前にすでに解決している問題だよ」
二人は陽平の声に振り返った。
「どういうこと?」
美月の質問に答えずに陽平は後ろを向いた。そして、黒板のメニューを消して次のように書いた。

イマヌエル・カント『純粋理性批判』

2人の少女は「イマヌエル・カント」と呟き、目の前の中年を見上げるのだった。


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