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ぼんごれ美あんこ

今回は『日本に暮らす外国人が増えるとどうなんのか?』
っちゅうことについて、私が思う事をあれこれ雑多にまとめます。

…ナガイゾ‼︎


けどその前に…

久々に自分の手描き絵をトップ画像にしてみた。

みかんやから完成したら全部載せるんで、よかったら見てってや。

で、

ぼちぼちゆるゆると本題に入っていくねんけど…

なんかわし日本に来る外国人に興味あってん。

なぜなら少し前、

日本は外国人が『短期間滞在』したり、
『国籍を変えずに移住』するのに都合のいい国だって話を聞いたから。

ちょっと分かりにくいよな。

その話によれば、

日本はどちらかというと、
『日本国籍がある人間』にとっては住みにくい国らしい。

もっと住みにくい国はわんさかあるけどな。

だけどお世辞にも安いとは言い難い税金を納めなあかんし、
医療保障は充実しとんのか知らんけど、
たっかい保険料も払わなあかん。

だけど、

外国人が短期滞在したり、
『国籍を変えずに日本に住む』場合…
それらを払う必要が一切無いと。

ほんまかいな。

だけど手続きを行えば、国籍を変えずとも、
『保険料・税金を払わぬまま』何十年も暮らせると。

ほんまかいな。

もしこれが本当なら、

仮に『国籍を変えずに日本に滞在している外国人』が
日本で就職していたとしても、

給料から『税金・保険料は差っ引く必要がない』ってハナシよな。

え?


って思った。

ああ〜こりゃあ日本に来た外国人、
『日本ええ国ええ国』って言うわ。

って思った。

でも所詮はまた聞きの話やしさ、

真偽の確証を持つに足るだけの実証を得る前に
勝手に文句言うたらあかんと思ったからな。

私にわかる範囲で調べてみたよ。


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⬇︎

実際のところ、一応は外国人も税金を払わなあかんらしい。

だが課税率が国民とは全く違う

日本に暮らす外国人の課税率は、

『永住者』と『非永住者・居住者(ざっくり言うと短期滞在者)』で異なり、

『永住者』の場合は国民と変わらぬ額を支払わねばならない。

しかし『非永住者・居住者』の場合は、
所得の如何を問わず所得税20%(復興特別所得税を加えて20.42%)
が課税されるに留まり、

日本人や永住者のように、
所得が上がることで課税率が上がることはない。

要は確定申告が必要ないっちゅうことよな。

しかし保険料・固定資産税は払わなあかんらしい。

ここで冒頭で紹介した”また聞き話”が偏ってたことがわかったけど、

…なんか気になるとこあれへん?


そこで以下のリンクを参考に貼り付けてみた。

そう、

『永住者』『非永住者・居住者』を分けるための条件は本人の意思の有無

やねん。

これが何を意味するかったら…

実際は30年以上住むつもりの人であっても、
『永住する意思はない』として、
その都度『非永住者・居住者』区分の申請を繰り返し行えば、
実質永住できる。

…っちゅうことなんよ。

は?


って話やんな。

だけどこれ、あくまでも『日本の制度』やから、

”それ”を利用したがる外国人を責めることは出来ん
ねん。

でもさあ。

そりゃあ外国人、『日本住みやすい』とか、

『いい国』って思うよな…って感じせえへん?


日本には『異国の人を快く受け入れる』人が多いから、
もちろんそれだけが理由ではないとは思う。

ただどうも腑に落ちんのよな。

『日本は素晴らしい』とか言う外国人は、
おもてなしやら気遣いやら、
そういう『日本人の態度・文化』を誉めるばっかで、

『日本が外国人にとって住みやすい国である法的証拠』
については、ほっとんど触れん。

少なくとも私は、
それについて言及しとる日本住み・日本好き外国人を見たことがない。

なんかそれって、

人の上辺だけを見て中身を見いひんのと
おんなじような気がしてまうねんな。

『馬鹿は適当に持ち上げときゃ楯突く事はない』みたいな。

あくまでも私の感覚やけど、

日本の良さを認める事を国民への敬意と結びつけた上で、
ほんまに日本が素晴らしいと思っとんのやったら、

『日本が外国人にとって住みやすい理由』が、
単に日本人の気質や文化に基づいたもんだけではなく、
れっきとした法的証拠にも準拠している

っちゅうことに触れる外国人が、
もっと居てもええと思ったんよな。

それともそれについて話すんはよっぽど勇気のいることなんやろか。

外国に暮らす日本人が、
移住先の法律について触れとる情報はわりかし目にすんねんけどな。

それは『生活に必要』なことやし、
日本との違いで苦労したっていう話もセットになっとるから、

『移住先で苦労することがないなら触れる必要もない』
っちゅうことなんやろか。

なんかわしには、

『自分にとって都合の悪いところには触れずに、
自分が居やすい場所に居場所を作れればいい』

っていう、

こすからい心情が透けて見える気がすんねんな。

確かにそこを外国人が指摘したことが
法律の改変に繋がるきっかけの一つになりでもしたら、

『日本は自分にとって住みやすい外国』ではなくなる可能性もあるもんな。

ここで海外の事情について多少調べてみたけど、

その他の大抵の国では、
移住者にも国民と同等の負担を強いる国がほとんどらしいな。

加えて、国民への負担もバカにできず、
『住んではいられん』と思って外国への移住を決めることもあれば、

海外転勤せなあかんかったりするやんか。

その辺の動機は日本も外国もそれほど変わらんと思うのよ。

余裕のある人やったら、
別の理由でも海外移住を決めるかも分かれへんし、

配偶者が外国人で、相手の籍に入る場合もまた事情も変わるだろうけどな。

ただおしなべてみてみるとさ。

『日本のアニメや文化が好きだ』という理由で移住を決めたという事を
『決して表沙汰にはできない建前』として、

ほんまは自分の国で身を立てていくよりも、
税金が安なる日本の方が暮らしやすいっていう本音を隠してる可能性を
決して否定できんいうことよな。

私としては、

『自分の国が住みにくいから外国に住もうと思ったけど、
法的な面でも、住民の気質の面でも、日本は移住に適してる。』

と、はっきり言うてほしいねんな。

仮にそういう話をされたところで、

『正直者でええなあ』と思いこそすれ、
『せこい』とは思わへんねん。

ただそこを隠されると、
どうしても『せこい奴や』と思ってまう。

ただ先にも少し触れたけど、

大抵の外国では、

『国民と移住者が国に対して行う義務とされる事』にはほぼ差がない

…っちゅうケースがほとんどらしいから、

外国人が日本移住時の法的条件に触れた際、

まさか日本国民が『外国人が住みやすい国』を維持するために
ようけしんどい思いをしとるとは思っとらんかもしれん。

よもやそこに『差がある』という認識を
外国人がそもそも持ってへん可能性もあるっちゅうことよ。

あるいは、

『そもそも法律は”国民が選んだ議員”によって作られるから、
日本の法律も日本国民の同意の上で作られとる』

っていう考え方を持っとる人もいてるかもしれん。

『議員を国民が選んどる以上、
その議員が決めた法律の責任は国民にもある』

っちゅうこっちゃな。

それを踏まえた上で、話を続けていくことにする。



ほんならここで、今回このネタを選んだきっかけを話すわ。

日本に住んで10年を超えた外国人の発信を見かけたんよ。

その人は、その辺の日本人よりもよっぽど日本語が上手いねん。

しかも当人も落ち着いた雰囲気やし、初めの頃は安心して話を聞いとった。

だけど、

たまたま『日本人から言葉の間違いを指摘される際に思うこと』を
シェアしてくれてんのを見かけてな。

そこから派生して、いろんな事を考えさせられてしもたんよ。

一応注釈しておくと、

その人の発信や行動を指摘したくなったわけやのうて、

その人の話を聞いた事を”きっかけ”に、
日本に暮らす外国人が増えるとどうなるのかについて
考えさせられたに過ぎない
んよ。

だからあくまでも個人の意見として聞いてくれると助かる。

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まずな、

日本語を学ぶ外国人たちの中には、
『ステレオタイプの正しい日本語』を、
『日本語を使いこなせてる人』から学ぶケースが少なくないねん。

そしてその知識を縁に、
実際に言語を使いながら日本語の習熟度を上げていく。

要は単純な”知識”だけを見れば、
日本語を母語とする人よりも日本語に詳しい場合もあんねんな。

でも彼らが触れる一般的な日本人の中には、

そもそも初めて日本語を覚えた時点で
間違った言葉や言い回しを覚えていることが少なくないばかりか、

学校の勉強をちゃんとせえへんかったりして、
文法やら漢字の読み方などを間違って覚えてる人も少なくないねん。

要は、

日本人でありながら『日本語に疎い』人が結構いる
っちゅうことよね。

でも”彼ら”が外国人に触れる場合、

『自分は日本語をちゃんと使えてる』っていう感覚で
相手と接したくなる人がおんねんな。

それはどこの国の人間であっても同じやと思う。

あれやな、
一種の『民族的アイデンティティの保持感覚』みたいなもんよな。

それは何もおかしいことではないと思う。

ただそんな中、

大抵の日本人が『日本語を習得した外国人』と接し、
相手の言葉に耳を傾ける場合、

『相手が外国人である』という先入観から、
『自分ではなく”相手の方が日本語を間違ってる”』と錯覚しやすい


っちゅう問題があんのよ。

おそらく例の外国人が指摘したかったんはそこよな。

それゆえ、

実は自分の方が相手よりもよっぽど正しい日本語を習得してんのに、
『あんたの言葉間違うてんで』と相手から指摘されて、

おそらくその外国人はカティーンと来たわけよな。

わざわざ『実際どちらの言い回しが正しいのか』をきちんと調べて、

かつてその人に『日本語の間違いを指摘した人々』に対し、
ガッツリ釘を刺してはったわ。

まあ元々が穏やかな人やから、
あくまでも柔らかく伝えようとしてはったけどな。

けど何せド正論やから『釘を刺されとる』ように感じた。

で、

このきっかけを以て最終的に気になったんは、

『日本が外国人にとって法的にも住みやすい国である』という状況下で、
日本文化や言語に対する日本人の理解が低いことのリスク

やねん。

先にも述べたように、

日本語を真面目に習得しようとする大抵の外国人たちは、
『正しい日本語で書かれた教科書』を元に勉強すんねん。

なんや知らん、ケンブリッジだのオックスフォードだの、
日本でいう早稲田やら慶應やら東大やらみたいな
ごっつい大学に日本語学科っちゅうのがあったりしてな。

そういうのんに入って、若者向けの砕けた表現やとか、
そういう出鱈目な日本語は覚えんよう仕向けられんねん。

ただ母語のイントネーションやら文法とは違うところが多いという点から、
実際に使う際には頭に入っとる知識がうまく引き出せんかったりする。

で、結局『実際に使われてる言葉を覚え直す』
っちゅうこともあんねやろうけどな。

英検2級あれば十分英語喋れるっちゅう話を聞いたこともあんねんけど、
英検2級以上の英語では表現や文法がかっちりし過ぎてて、
『一般人・民間人』には通じんこともあるらしいやないの。

要は英検2級以上の英語っていうのは、
『一般的に使われとる英語ではない』っちゅうことよな。

それと同じことが外国人が日本語を覚えた場合であっても起こってる。

それは単に相手が『実際に使われとる言語を把握してない』以上の問題を、
孕んどる可能性があるとわしは思うねんな。



これはかつて私が実際に体験したことやねんけど、

間違えやすい日本語の一つに『雰囲気(ふんいき)』ってあるやんか。
わしはこれを辞書の通り『ふんいき』という音で覚えとったんよ。

何故なら辞書を引いて初めて知った言葉やから。
(辞書でえろい言葉を調べるついでに見掛け、そして覚えた)

で、学校で『〇〇の”ふんいき”が好き』みたいな事を友達に言うたら、
相手から『”ふんいき”じゃなくて”ふいんき”だよ』って指摘されて、

わしは辞書で調べた上でその言葉を覚えとったから、
『あんた間違うてんで』って言うたんやけどな。

相手は頑として譲らんから、大喧嘩になってん。

わしとしては、

辞書で調べてもないのに『間違ってる』とされることに納得できんから、
相手に詰め寄ったんやけどな。

相手は自分の間違いを指摘されたくなくて、
それに対して本気でぶち切れてきたと。

言語やら文化の認識の間違いやらを指摘し合う場合、
おそらくは『実際に間違ってるかどうか』だけが
論争に発展する原因となるわけやないねん。

案外、どちらかのプライドやら負けず嫌いやらが
その”最大の原因”となったりする。

で、

なんだかんだこういう『使い手の情緒・気質』みたいなもんが
言語の理解や使い方に繋がる
もんやから、

人によっては外国の言語を習得するんが難しいっちゅうことにも
つながんのかな?って思わんでもないんやけどね。

私が心配しとるんが、

むっちゃ頭のええ外国人が正しい日本語を習得し、
日本の文化を学び倒した時よ。

別にそれが悪いって言いたいんやない。

彼らが、事実とは異なるけれども、
『外国人にとって都合の良い日本文化の解釈』を
日本人に対して話術巧みに広めようとしたとする。

それを『無学な日本人』が鵜呑みにすることがもしあったとしたら…
それはごっついやばいんちゃうか?

って思ったんよ。

ここでは”仮定”の話をしたけど、実際既に要所要所で行われとるよな。

日韓関係・日中関係然り、日米関係然りや。

要は日本に住む外国人が日本の勝手に慣れ、
言語を習得していく傍らで、

『日本国内において日本人よりも優位に立つ可能性がある』
っちゅうことなんよ。

もう既に法的な部分では外国人の方が優位やんか。

そして”それを良し”として、日本に興味を持ち、
日本に住みたいと思う頭のええ外国人が増えると、

まずは日本国内において外国人同士のコミュニティを築けるよな。

一方の日本人は、『国内に増えた外国人対策』のため、
そういうコミュニティを斡旋し、外国人雇用を増やしたりする。

もう既にいくつかの一般企業においては、
『日本の企業において外国人が日本人の上役に就く』事が珍しくないねん。

でも彼らは日本人とは異なり、
『非永住者・居住者』区分での申請を続けてさえいれば、
収入が上がりかつ日本に長く住み続けていたとしても、
『所得税は20%のまんま』やねん。

どんどん金貯まるやんか。

金を持った人間が社会においてどうなっていくかったら、
『影響力を持ち始める』んよ。

加えて『日本において所得が高くなりやすい素地のある外国人』は、

やれけったいな学校で『正しい日本語』を頭に入れて、
あとは”それを使うことに慣れるだけ”やったりするから、

そもそも頭がいい。

日本において慶應やら早稲田やら東大やらに入るのってえぐいやんか。

海外においてその『えぐい関門』を乗り越えるからには、
来日時点でいかに拙い日本語を喋っとっても、地頭がええねん。

しゃあからやがて彼らがかつて大学で習得した
『正しい日本語』を使いこなし、

『情緒に振り回されて母語を使いこなせない』ような日本人よりも
話し上手になることは、それほど難しくなかったりする。

そうなれば、

日本語をハンパに習得しとる日本人では
ぐうの音も出えへんような巧みな話術でもって、
彼らが日本人を丸め込めるようにもなんのよな。

あと海外には『自分の権利に敏感な人』が日本よりも多いやんか。

その理由は明確で、

彼らが育ってきた社会が『一般市民の権利を長いこと軽視してきた』
というケースが少なくないからなんよ。

加えてただ声を上げる(疑義を呈する)だけでは、
いとも簡単に押し潰されてもいた。

しゃあから『自分たちをぶっ潰そうとする権威との向き合い方』
っちゅうもんが自然と習得できていたりすんねん。

そもそも『権威とは油断すると自分を押し潰しかねないもん』
っちゅう認識を、理屈やのうて潜在的に持っとる人が多いから、

生活の知恵としてそういう感覚を習得しとったりすんねんな。

またそこが日本人との違いやったりすんねん。

日本人は外国人からもよう言われるように、

『他人に対して真面目で誠実であれ』という精神性が、
そもそも民族的アイデンティティの素地の中に含まれとるんよな。

だから『誠実であるかどうか』を基軸に
他者を非難するバイアスも持っとるから、

側から見るとキツい人は日本人にもようけいる。

けど『相手から誠実であるかのように巧みに見せかけられた』場合、
それを見抜けんかったりすんねん。

相手の態度が『表向き誠実であれば信じてまう』っちゅう事よ。

要は『自分を疑え、他人は信じろ』っちゅう、
いわゆる『利他主義』を、日本人は重んじとんのよな。

で、一方の外国人はっちゅうと、

表には出さんかも分かれへんけど、

自分の権利を守る事を最優先にしながら生きることが
彼らのアイデンティティの素地に含まれとる場合が多いから、

日本人ほど他人を騙すことに抵抗がない。

自分を守るためなら他人を騙すこともそらあるよな…と、
自然に捉えとる人が多いから。

だから自分が嘘をついてバレた時にはえっぐい言い訳するけど、
他人にそれをされると許せへん人も多い。

ざっくり言えば、

『体面を整えていれば陰で何をやってもいい』ということを、
日本人のように『卑劣・不誠実』だとはそもそも思ってない人も珍しくない

…っちゅうことよな。

つまり、

民族の根本的な価値観が、
日本人と外国人では異なるケースが珍しくないので、
表向きの態度だけで相手の人となりを判断してはならない

ということと、

自分を守る事をより優先する必要があったという
歴史的背景を持つ国に暮らす人が世界には圧倒的に多いことから、

相手から疑われないよう表向きの態度を取り繕う事が
日本人よりも遥かに上手い場合がある

という点を押さえるんが重要やと思うねんな。

例えば感じのええ外国人がいたとする。

でもその『感じのよさ』は、
『得体の知れない外国人』から身を守る為に”演じてるだけ”
っちゅう可能性があんのよ。

『外国人に対し敵意がないアピールを積極的に行う必要がある』
という場面に直面しやすいからだろう。

海外の法律は基本的に『民衆から搾る』というやり方が一般的で、

『十分な禄を食める職が無い』人は暮らしにくいのが当たり前なので、

仮に先進国であったとしても、移民の類は定職にも就きにくく、
挙げ句の果てには物乞いや犯罪者になるケースが日本よりも遥かに多い。

だから『敵意のないアピール』をせなあかんタイミングがあんねんな。

それだけではなく、

外国の大抵の権威者は『自分を守るため』に他者からの敬意を強要し、
それが得られねば、権威を利用して強硬な手段に出る事が珍しくなかった…
っちゅうのもあると思う。

要はかつて彼らの祖先は”それ”を恐れて、
そこからいかに逃れるかを常に意識しとったんよ。

ほんで『自分の身を守るためには見せかけの敬意も必要だよ』
とでも代々言い聞かせたんやろな。

それはそれである意味では仕方がないので、悪いとは言わんけど…

いずれにせよ、

多くの外国人にとって利己主義と利他主義の土台は同じやねん。

けど

日本人には利他主義と利己主義は真逆だと認識しとる人が多い

から、

『利己主義』そのものが毛嫌いされ、
相手のわがままに対してことさらに敏感になる。

身内にようけ厳しくなるんもその影響やと思う。

日本人の精神性には『利他主義』が土台として存在するから、
それを実践するためにようけ自分に厳しくなるんよ。

その影響で、自分の身近な人にも厳しくなる。

自分を基軸に近い範囲から外側に向かうにつれて、
利他主義を重んじようとする傾向がより強なんねんな。

だから日本人同士では絶対見せ合わないような気遣いを
外国人に対して見せる日本人もおんねん。

海外では自分の身近な範囲や、
より利益を得られる見込みのある相手には手厚いけど、

自分から遠い人々には厳しかったり、体面だけを取り繕ったりすんねん。

だけど日本人は逆に身近な範囲に属する人間を
無意識に自分の一部とみなすから、

身近な人ほど無遠慮に接し、敬意を見せることは少なくなる。

その代わり、

自分から遠く離れた位置に居る人に対して、
身内以上の心遣いを見せることがある。

『外国人に優しい日本人が多い』のも、
日本人が利他主義をベースとした精神性を持っとるからやと思う。

要は日本人も外国人も、どちらも裏表がある。
だけど精神性の土台が違うから見え方が違う。


日本人特有の精神的文化として
『本音と建前』を挙げる人は珍しくないけど、
それは日本人だけのもんやないねん。

ただ外国人の場合は『本音と建前を使いこなさねば生きていけない』
という切羽詰まった状況下で”それ”を習得したケースが珍しくないので、

自分が『本音と建前を使い分けている』という事を
そもそも自覚してないケースが珍しくない。

加えて無意識に自分を正当化する人の割合が日本人よりも多い。

『何よりも自分の身を守ること』が優先される歴史の中で
食い繋いできたから、それは仕方のないことやねんけどな。

だから自己正当化についての罪悪感も日本人ほど強くない。

海外ドラマとか観ててもめっちゃ言い訳するやんか。

作品が変わっても『登場人物の派手な言い訳』が
デフォになっとるいう事は、

それは『作り手にとって自然な行動』であり、

自分の分が悪くなった時に真っ先に思いつく行動
っちゅうことやねんな。

どれもこれも『自分の身を守る事を優先する』からよ。

だけど日本では『言い訳』や『自己正当化』は殊更に嫌われ、
『自分の身を守る』という行為も忌避される。

つまり日本人は『完全なる利他主義民族』とも言えんのよね。

自分を守るために利他主義を演じねばならんケースが多かった外国人達は、

『利他主義の居心地の良さ』を受け手として理解できるけど、

てめえの利益に繋がらん限り、
自ら率先して利他主義であろうというマインドには
なかなか結びつかんねん。

だから『ギブは歓迎。テイクは御免。』っちゅうのが
基本的なスタンスやったりすんねん。

『自分を守る事』が多くの外国人の中で何よりも優先されるから、
『自分を守ることに繋がる他人からの自己犠牲』を歓迎するんは道理よな。

日本人は母国の人間とちごて自発的に”それ”をやってくれるから、
そりゃあ歓迎されるし、ありがたがられもするってもんよな。



ここまでの話をまとめると、

海外のほとんどの国では、
権威主義がキツ過ぎて自分の身は自分で守らねばならず、
よってあらゆる価値観が利己主義ベースとなっている傾向がある。

だけど日本では、権威主義はすぐさま扱き下ろされるから、
自然と利他主義をベースとした価値観が育まれていった。
(権威主義者が主権を握ったことも何度もあるけど、決まって長続きしない)

これらは海外と日本の文化の違いを見れば明らかで、

海外では文学や芸術に至るまで権威主体で発展しとるのに対し、
日本の場合は民衆主体となって発展しとんのよ。

海外では権威者が芸術やら文学作品の初版本を所有したがり、
それが一種のステータスにもなっとるやんか。

つまりは『それらの”作品”の存在が権威の証』でもあるっちゅう事よな。

これはそれらの作品が生まれた経緯に
そもそも権威が絡んでなければ有り得ない事なので、

人々は『自由な創作(在り方)』が、
かなり抑圧された状況下にあったんちゃうかな。

作品の出どころ自体は特定の身分に準拠していない。
だけど”認められる作品”には必ず権威の息がかかっている。

一方日本では、生活スタイルによって文化形態が異なんねん。

貴族には貴族の、武家には武家の、民衆には民衆の文化が存在し、
それらは交わる事がほぼないのに何故か共存しとんねん。

悪く言えば『文化的に統一されていない』とも取れんねんけど、

これは『日本においては多種多様な創作(在り方)が認められてきた』
という事でもあると思うねんな。

日本の著作物にはかの有名な『万葉集』っちゅうもんがあるけど、

これの最大の特徴は、
収録されている作品の作者の身分が限定されてない事やねん。

農民から皇族まで、千差万別な詠み手の歌が、
多少のジャンル分けはされていながらも、
基本的には雑多に収録されとる。

それなのに平安時代の頃には、
『万葉集を読みこなす』んが貴族・皇族の嗜みになっとったらしいから、

そもそも『身分に頓着が無い』ねん。

のちに劇画とかで『江戸時代の横暴な武家』の姿が
好んで描かれるようになり、

日本にも古くから権威主義ときつい身分制度があったかのように
教科書にまで記されるようになったけど…

もしそれが真実なら、
江戸時代に『町民文化』が花開くことなんかあり得へんよな。

当時の作家や絵師達は、
法の目を掻い潜ってでも『民衆へ向けた』作品を出し続け、
それが今や『歴史的価値の高いもん』として世界中で評価されとる。

だけど外国人は、
それが『当時の一般市民があくまでも民衆に向けて発信したものだ』と
どの程度把握しとるんかな。

知らんけど、

海外の有名な”作品(文化)”のほとんどは、
当時は見向きもされてなかったり、
権威者からの依頼によって作られたものやねん。

歴史的な遺跡も、よっぽど古いもんを除いては、
時の権威者の指示によって作られたものだったりする。

だから海外の人々は、『自分が権威者になる』か、
『権威者に認められる』ことに重きを置く傾向にある。

”大衆ウケ”なんぞ、『莫大な利益』に繋がらない限りは見向きもしない。

だけど日本人は、たとえ利益が得られずとも大衆ウケを重んじる。

長くなったけど、

このように文化においても海外と日本の価値観は真逆やねん。

というか、価値観が真逆やから文化形態が異なる。

だから、

日本人が日本人を見るようなバイアスで海外の人を評価してはならず、
また、海外の日本ウケを文字通り素直に受け取らん方がいい。

…とワシは思うねんな。



言うて何でもかんでも疑ってかかるんはつまらんよな。

だから『海外の人から受けた高評価に感謝を表す』ことも、
決して悪いことでは無いと思うねん。

ただそれに安心して、

『海外の人々が喜ぶように日本を変えていく』んは
いかがなもんかと思うよな。

日本人は『日本』にどんどん住みにくくなっとんで。

だけど外国人にとっての『住みやすい国』は日本人が作っとる。

だから『自分達に有益となる範囲』で日本人をヨイショして、
搾るところはしっかり搾るようになっていく可能性があんねん。

『自分にとって都合の良い交渉術』にかけては、残念ながら日本人は、
外国人(特に白人文化圏に暮らす頭のええ人)と比べてはるかに劣る。


何故なら『利他主義』を重んじとって、
『利己主義』に強い嫌悪感を抱いているから。

人として有能かどうかは問題では無いねん。

日本人と自分たちの価値観・気質の違いを、
自分にとって優位に働くよう自然と動く人が海外には多いから、
ある程度警戒した方がええっちゅう事やねん。

そこにきて外国人は、日本人の利他主義をようけ褒めるやん。

『日本人は優しい』『日本人は気遣いが凄い』とか、
『自己犠牲が素晴らしい』ってな。

そういう”外人からの高評価”が、

『自分にとって都合のいい事を止めさせたくないから
やってるわけではなく、素直な心情の発露だ』

なんて、どうして言い切れる?

わしにはとても出来ん。

わしがもし外国人からそんなような事を言われたら、

『それ日本において外国人の課税率が
日本人よりもはるかに低いことと関係ありますか?』

って聞いちゃう(笑)。

だけどこの程度の警戒心を持つことと、
相手と人として仲良くなれるかどうかは別やと思う。

日本人は『自分の身を自分で守る』事を覚えた方がええねん。

その上で、相手がどこの国の出身者であろうと、謙虚に、
相手を尊重するんがええと思うねんな。

ここで『謙虚さ』に対する誤解があると思うから触れるけど、

近年(過去数十年単位)の日本人は、
謙虚であることと『自分を相手よりも下に見る』事を同一視しがちやねん。

だけどわしは、

ほんまもんの謙虚さは
『自分の価値を十二分に認め、自分で評価した上で相手を尊重する』
っちゅうことやと思うねんな。

前に別の記事にも書いたけど、

心の底から自分を素晴らしいと思えた時に
初めて人を素晴らしいと思えるようになるから、

自分で自分を素晴らしいと思う事が謙虚さの前提にあんねん。

そうでは無い場合、どうしても体面を取り繕うだけになってまう。

『謙虚であるように見せかけるだけ』になってまう。

このことに日本人は気づいたほうがええ。

気づいてる人はええけどな。

外国人の『日本が好き』っていう言葉に惑わされて、
『相手にとって都合のええ奴』にならんようにな。

お互い気ぃ引き締めまひょ。



ここでようやく最後の〆に入んねんけど、

気質・価値観の違いに基づく外国人との差っちゅもんは、

お互いの歴史に深く準拠しとる。

しゃあから日本人は、
日本の歴史を教科書の枠を超えて知る必要があんねん。

加えて、海外の歴史との違いを見比べる必要もある。

その上で外国人と日本人の気質・価値観の違いを見なければ、

見えてこんこともあんねん。

日本の教科書は、敗戦時にアメリカの指示によって定められた基準を
いまだに守った上で作られとるからな。

敗戦時にアメリカの味方やった国がどんだけあるかも加味した上で、
今の世情を見ていかなあかん。

これがどれだけ不健全なことかは言うまでも無いけどな。

この事と日本人が自分を卑下しがちなことは無縁ではないと思うねん。

メディアと教育との板挟みで、
『日本人が自信を失っていく為の構造』の中に日本人は置かれとる。

その上で『日本人の利他主義』がそのまんま外国人から評価される側で、

『ほとんどの外国人が日本に住むことの法的優位性について触れてない』
ってことはかなり需要なポイントやけど、

それ以上に、

『外国人が日本人から受け入れられようと
自分たちの良さを宣伝する為にメディアに露出する機会が増えてきた』

ことも見逃せんねんな。

つまり『私日本人に対して敵意ないですよアピール』を、
外国人が日本のメディアでやり始めとるっちゅうこと。

正直言って『それになんの意味があんねん』ってわしは思う。

…けどそれはあくまでも”彼らにとっては”意味があんねん。

日本は外国人にとって住みやすい国やから。

だけどそこで”法的優位性に触れて”しまうと、
『自分たちにとって優位な法律が変わるきっかけとなる』可能性があるから、それについては誰も語らんねん。

ここで日本人は国を捨てて外国に住むか。
それとも日本を日本人にとっても住みやすい国にしていくか。

…これがめっちゃ問われとるとおもわへん?

わしは思う。

日本は外国をよう知らん傾向にあるけど、
メディアが宣伝する『イメージ』を優先して学ぼうとするから、

外国人の価値観をも日本人のバイアスで判断しがちなんよ。

メディアに露出する外国人が
日本と母国との民衆の気質の違いにつて触れる際、

それに伴う歴史的背景を正当化しとる事を忘れんようにな。

奴隷商売で発展した自分達の文化の断末魔を、
日本人がただ優しく受け止める必要は一切無いと私は思う。


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