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泣いた話。

★初めに


やあみんな。俺だ。

今日は唐突に感動して、
さっき(昨日)まで綴ろうと思ってた記事を全消しし、
(既に約一万字入力済だった乙)

唐突な動画紹介から別の話題に入っていきたいとおもう。

まずはこちらをお目に掛けたい。

⬇︎


そう、

ヒカルの碁である。

何を隠そう『ヒカルの碁』は、

私に人生の何たるかを教えてくれたような、
くれなかったような気のする傑作なのだ。

動画で喋ってるお姉さんとは違い、
私は単行本の第一巻しか持ってなかった。

というのも私は、

第一巻の冒頭で登場する主要キャラクター『藤原佐為』を、

綺麗なおねいさん

だと思って恋をした。

しかし本編(ジャソプ)巻末の作者後書きにて、

『藤原佐為は男である』との発言を目にし…

天地がひっくり返るほどの派手な失恋をしたからだ。

あの時の心臓が握り潰されるような感覚を今も忘れられない。

それがちょうど2巻目の単行本が
出るか出ないかくらいの時期だったので、

『最高のショット』が収められている一巻のみ三冊取り揃え、

『その姿だけ』を丁寧に愛で続けていたのであった。

あのー、

二次元に恋をするってあると思うんですよね。

ちなどうでもいいかもしれないけど、
なんで『藤原佐為』に惚れたかについても語り出す。

私の脳内には少なくとも2歳半ごろには、

『綺麗なおねいさん』が居たんよ。

何だろう、アニマみたいなものなのかな?

アニマっていうのはよくわからんけど、
男性の潜在意識下に鎮座する理想の女性像だ
とか何だとかってフロイトが言ってた。

あ、ユングやった。

俺女やけどな。

いいんですよ。自由恋愛の時代ですから。

自由に二次元だろうが三次元だろうが100次元だろうが、
好きな相手を愛でればいいんですよ。

で、『藤原佐為』は、

その脳内おねいさんにそっくりだったんだよね。

だから思わず惚れてもうた。

言葉にできない感情やった。

愛しかなかった。

でもトングによれば、アニマは決して対面できないからこそアニマたり得るみたいな話をしていたようなきがするようなしないような気がします。

なおボングによれば、
アニマは女性の場合アニムスとされるそうですが、
これは『男性像』に限るそうなので、

男にそれほど興味のない私には当てはまらないと思いました。

いや男子に人として興味を持つことは勿論あるけどね。

で、話を戻すけど、

一応雑誌では本編を読み続けてて、
最後まで逃すことなく読んでたんですよね。

で、ところどころ忘れてたけど、
思い出しながら『なんてふけえ物語だ』って、

上に紹介したおねいさんの動画でさらに思い返して、

感動したよ。

ん?今デジャブったぞ?

そういやデジャブって、

ざっくりいうと無間地獄に入ってる証拠だとか何だとかって
おじいやんが言ってた。

無間地獄については長くなるので、
何かの機会にでも話したいと思う。

なかなか面白い話ですよ。

おじいやんというのは私のイマジナリーフレンドの一人です。

そう、私はこの歳になっても(何歳かは言わない)
イマジナリーフレンドと遊ぶような人間なんですよね。

余談が多いよね。

ここから一応私の記事における本編に入って行こうか。



AC拗らせ者が語るヒカ碁の凄さ


まず第一に、この漫画の原作者の経歴が挙げられると思う。

記憶があやふやだったんで調べ直してみたけど、

----------------------------------------------------------------------
【お名前】ほったゆみ(御夫婦連名)
【誕生日】1957年10月15日
【略れき】元々御夫婦で漫画家をされていたところ、
     奥方が絵を描くのがしんどいという理由で
     ヒカ碁ではネームのみ担当なさった。
     なお作画は小畑健氏が担当。
----------------------------------------------------------------------


…まあこんな感じみたいなんでございますが、

こちらを調べるにあたって依存した
ウィキ先生には書かれてなかったんですけど、

私が読んだ単行本の後書で、
『自分は主婦だ』みたいなことをおっしゃってたんですよ。

で、ウィキで調べて初めて御夫婦連名で
『ほったゆみ』なんだということを知ってさ。

知らんことの方が圧倒的に多いので、
『連載当初の印象』を軸に話すことをお許し願いたい。

確か何巻目かの単行本の後書で、
『つい最近まで育児に追われている専業主婦だった』
みたいに書かれてたのを強烈に記憶してて、

それが正しいかどうかを調べ上げるほどの胆力は
今はないんだけどさ。

シンプルに
『つい最近まで専業主婦だった人が、あんな重厚な物語を作ったの?』

ってことに成人後急に驚嘆したことがあったんだよね。

子供の頃(10代まで)は、

藤原佐為への失恋の痛手がデカすぎて
そこまで深く物語を解釈してなかったんだけど、

ヒカ碁の凄さを語ってる人のブログみたいなのを目にして共感し、
改めて漫喫で読み返したんだよね。

そこで物語の構成能力の高さと、
作者さんの『つい最近までほぼ専業主婦だった』
っていう経歴とが結びつかなくて、ただただ驚いてた。

いや大前提として、
『結局詳しい経歴を知らない』っていうのがあるんだけどさ。

ヒカ碁の物語の奥行きが半端ない事には、
決して間違いはないんですよ。

それはご紹介した動画のおねいさんが旨いこと拾って下さっていて、
(同時に物語の重要な解説はほぼ全て動画のおねいさんがしてくれてる)

動画は『霊媒師の視点から』っていう趣旨になっとるけど、

霊媒師の視点でなくても、感想には十分に共感出来ました。

ただ動画を見て『あ、霊媒師視点おもろいなー』と思ったのが、

『自分以外の何かに心身を委ねることで、
本因坊秀策(実在)は若くして亡くなった』

というところなんですよね。

で、これには思い当たる節があったんですよ。

何かに憑依されたことがある
っていうのとはちょっと違うんですけど、

私は、相手からはあんまり好かれてなかったみたいだけど、

マザコンが酷すぎて、
おかんを幸せにしたくて生きてきたようなもんなんだよね。

…ってなんかいいこと言ってるっぽいけど
そんなお綺麗な話ではなくて、

要は、

『母を喜ばせて満足することで
自分の人生を自分で切り開くことから逃げてきた』

という部分が少なからずあったのさ。

つまり母が満足してさえいれば、
私の人生は自ずと満たされると思ってるところがあったんだよね。

でもそんなの完全なる間違いだったんですよ。

私は絵描きだから、
絵に対して自分なりにかなりの集中力を注いできてはいたものの、

それで飯を食って行こうと思ったのは
就職する時が初めてだったし、

自分が道を選ぶ際には
母が喜ぶかどうかがいつも基準になっていて、

私がどれだけ『それ』を強く願っていても、
母が喜ばなければ自らの願いを簡単に否定して、
意識の奥底に押し込めるのが当たり前になっていたんだよね。

加えてその不健全さにも気づいていなかった。

私はやがて自分の存在に
『虚しさ』を覚えるようになるんだけど、

それは母から願った通りの愛情を
注がれていなかったからなんだと思っていた。

確かに母は私のことが
あんまり好きではなかったことを知っていたというか、

責任感の強い母が
私のことを必死に愛そうとしていたのは確かだけど、

人としての性格不一致から
私へのストレスを常に感じていたというのが実情でさ。

『親子でも性格不一致があるんだな』と
学ぶきっかけにもなったし、

『母親の苦悩』みたいなものを深く知ることにもなったんだよね。

何せ『別の人間』を育てるわけだから、
子供がたった一人しかいなくても、分業でも大変なわけよ。

だからうちは元々母子家庭で
母はほとんど働き詰めだったんだけど、

専業主婦になることをとにかく求めていた。

その後めでたく再婚できはしたものの、

だからと言って『子育て』が楽になるわけではないのを
ずっと傍で見ていたから、

世のおっかさん達が『何か創造的な営み』に
意識を集中することなんて、

とてもできるもんじゃないんだと思ってたんだよね。

できなくて当然だと。
できた方がいいとも言わん方がいいと。

そう思ってた。

だから私が『ほったゆみ氏が専業主婦だった』
というバイアスでヒカルの碁の完成度の高さを改めて感じた時に、

世間の広さというか、
世の中にはたくさんの人がいるんだなあ…
っていうのを強く感じた。

たしかほったさんにはお子さんが二人いたらしいんだよね。

『エッ…二人も子供がいるのに、
漫画の原作を担当するほどの豊かなイマジネーションを
保持し続けていたの…』

って、今思えば単なる先入観かもしれんけど、
当時はとにかく衝撃を受けたんだよね。

作り手の創造力が高くなければ
物語に感動することはありえないからね。

加えて私は、

親や家族から

『自分たちの親族以上の常識人はいないから、
自分達を信じていればいい』

といったことも言われていたんだけど、

『ヒカルの碁』とその作者さんに触れたことで、
『そんなことは絶対にない』と思うようにもなったんだよね。

だから三重に衝撃的な作品だったのさ。

人それぞれできることは異なるけどさ。

物語を作るなんてわしには絶対できないから
ただそれだけでも『すげえ…』ってなんのに、

いくら元々漫画家だからって、

育児に追われて余裕がないはずのおっかさんが
『感動的な物語を作り上げる』なんて…

当時の私の想像力の範疇を完全に超えてたよね。

まあそれ言うなら荒川弘さんとか、
漫画家おっかさんは結構たくさんいてんねやけどね。

私がハガレンを知ったのは
ヒカルの碁を読んだずっと後だったから、

『ファーストインパクト』の衝撃には及ばなかった。

なんにせよ初体験は強烈ですよ。



動画で紹介されている『霊媒師の視点』


ちなみに注釈しておくと、
別に今回はそんなにスピってる話をしたいわけではございやせん。

ただ個人的に精神論を突き詰めた先に
スピがあると感じる体験をたくさんしてるので、

たまたまその手の情報に触れる機会が多く、
先に紹介した動画に出会ったというだけなんですが…

この項ではシンプルに『人』として、

動画で紹介されているポイントについて
感じたことをまとめていきたいと思います。
(いや人としての話を突き詰めたらスピに行き着くんちゃうんけ)



①『自分以外の何かに心身を委ね続けると早逝する』について


これについては前項でも少し触れましたけど、
要は『他人の顔色ばかり伺ってる』状態だと思うんですよ。

少なくとも日本の社会では
むしろそれを積極的に求められているので、

『それをせずにいる』ことの方が難しいと思う。

だけど『それ』をやってると、
心身の消耗がえげつなくなるんですよね。

で、シンプルに病気にかかりやすくなんの。

心と体ってガチで連動してて、
心が弱るとまず免疫が下がるのね。

で免疫が下がると風邪にかかりやすくなるっていう印象が強いけど、

それに加えて体の見えないところでは、

『がん細胞の駆逐が追いつかなくなる』んですよ。

しかも他人の顔色を窺うには限界があるのに
正解もまた見えにくいから、

他のあらゆることよりも
ストレスが体調不良に直結しやすいし、

自分の行動の答えが見えないから、

延々同じ事を繰り返してストレスを蓄えてんのに気づかない。

さらに追い打ちをかけるのが、
『一般常識ではむしろ推奨されてる』という事なんですよ。

で、これらの一連の流れみたいなものを別の言い方で表すと、

『他人に自分を委ね続けることでエネルギーが奪われる』みたいな事になるんでしょうね。

で、それが『早逝する』事につながるんではないかと。

ここで実体験に基づいた見解を述べたいんですが、

私は母に対してそれをやる癖がついていたのに、
本質的には『他人の顔色を窺う』ことが
最も不得意だったんですよね。

だからこそ余計に
『母をはじめとする周りの人に喜んでもらうこと』
が難しかったんだけど、

それはめちゃくちゃシンプルに、

周りの人と私では喜びを感じるポイントが違っていて、
私がそれに気づいていなかったというだけのことなんですよ。

しかも『気づかなければならなかった』という話でもない。

だからきっと、

そもそも他人を満足させることなんて
不可能に近いと思うんですよね。

だからストレスが溜まりやすくて、
報われない無限ループにも陥りやすく、
気がつけばどんどんエネルギーが奪われるんでしょうね。

自賛をひけらかしてるように聞こえたらすまんけど、

『誰かを喜ばせたい』という思い自体は非常に素晴らしいんですよ。

だけどそれができなかったからと言って、
誰の価値も下がらない。

『喜ばなかった人』も、
『喜ばせられなかった人』も、
どっちも悪くないんですよね。

だけどそこには、

『喜ばせ”られなかった”ことに罪悪感を抱きやすい』という、
『意識の罠』のようなものが存在するんですよ。

それは多分、大抵の人々が、
『他人の顔色を伺いながら生きることが正しい』
と教えられて育つからでしょうね。

要は『自分以外の何かに心身を委ね続ける』と
お互いの価値観の違いに罪悪感を感じやすいから、

ストレスが莫大になるんでしょうね。

本来は他人と価値観が違うなんて当たり前のことなんで、
罪悪感を感じる必要なんざ微塵もないんですが、

『他人に何かを委ね続ける』ことで、
きっと罪悪感を抱く理由ができちまうんですよ。

ここでかつての私を例に出すんですが、

『母を喜ばせる』ことが20歳までの私の人生の目的でした。

でも親子とはいえ所詮は『他人』で価値観が違うから、
喜ばせるには限界があるんですよね。

だけど『相手を喜ばせる』ことが
自分の行動の目的になってしまっていると、

喜んでもらえなかったのは自分のせいだと感じてしまうんですよ。

多分ですけど、

『親の期待に応えようとした』場合も同じことが起こると思います。

親子関係であれば特に、

子供は親の期待に大なり小なり晒されることになるでしょうが、

それをやると『お互いが相手に依存する』関係になるので、
(お互いにその意図がなくとも結果としてそうなってしまう)

親は子供に満足できずに罪悪感をも抱きがちになるし、
子供は期待に応えられないことを自分のせいにしてしまうんですよね。

だから『親の期待に応えようとした人』は
余裕がなくなりがちなのかもしれません。

悪いことではないんですけどね。

相手の意向に従い続けることは、
相手に自己評価を委ねることにも繋がるんですよ。

自己評価は本来自分で下さねばならないことなんですが、
相手の意向に従うと、それを他人に委ねることになる。

『そういう仕組みになってる』ということなんだと思います。

『そういう仕組みになってる』から『そうなる』のは仕方がないけど、
だからと言っていい結果も生まないんでしょうね。

電池の+−を逆にすると電源が入らないのと同じだと思います。

別に電池を逆さに入れたって悪いわけやないじゃないですか。

だけど機構的にアウトだから、
どうしても電源を入れることができない。

そういう単純な話なんだと思います。




②『究極の何か』は同レベル以上の相手と切磋琢磨しなければ得られない


これねえ…難しい話ですよね。

でもすんげえ共感できました。

先に『母を喜ばせるために生きてきた』事について
くそ長く語ってきたんですが、

一応私には固有の特技があったんですよ。

いうておかんから受け継いだものなんですが…

それは『絵』を書く事です。

母は元々デザイナーを目指してたらしくて、
絵が超うまかったんですよね。

別に美大とかは通ってないけど、
ピカソみたいに幼い頃からデッサンが完成されてたんですよ。

だからもしプロになってたら、
今頃超有名だったかもしれません。

でも私ができて夢を諦めざるを得なくなって、
申し訳程度に私が受け継いだっていう事なんですけどね。

…多分。

で、母は元々自分が超絵が上手いので、
私の絵を見ても問題点ばかりが見えてくるわけですよ。

だから本当に小さい頃から、
ダメ出ししかされたことがありませんでした。

物心ついた頃には、

『自分にとって絵を描くことは自然な行動だけど、
腕が足りないのでどんどん磨かなければ喜んでもらえない』

って思ったんですよね。

今思えばそれは『成長を促す親心』だったかもしれないんですよ。

実際特技を褒められ続けたら、
大抵はそこに胡座掻いちゃうんですよね。

そういう人を何人も見てきました。

でも私の人生の目的は『母を喜ばせる事』だったので、
ダメ出しされるたびに罪悪感が募るわけです。

原画が残ってなくてオカンがどんだけ凄かったんかを
お伝えできないのが残念でなりません。

なんつうか、

『このレベルの人から見たらほとんどレベル低なるて』
って感じの人だったんですよ。

だからいうて仕舞えば、

早いこと『成長を促されている』と思えれば
もう少しストレスも軽減できたんですけどね。

ずっと絵を描いてばかりいるのに
どこか絵に対して卑屈だった私は、

貴重な絵描き仲間を失ったりもしました。

そのうち母からこう告げられるんですよ。

『私に喜んでもらおうとしてる時点でお前はアウトだ』って。

私としては三行半をぶち投げられた感じですよね。

だからしばらくスランピーマンになりました。

それでもやっぱり絵を描きたくて、

『自分にとって絵はホンモノなんだな』と
感じられたのはいいんですが…

スランプから抜け出すのって結構大変なんですよ。

聞けば私は1歳頃からお絵描きばっかしてたんですって。

そんな餓鬼にとっては人生のほとんどが絵なわけですよ。

だから自分に価値はないみたいな思いが
割と底まで行っちゃってて、

筆を握るだけで目眩して吐きそうになるんですよね。

で、そんな私を再びぶち上がらせてくれたのが、

『すんげえ絵の上手い他人』だったんですよ。

リアルに交流はないけど、
ネットとか画集を介して作品には触れられる。

そんな人々の絵を見て触発されたことで、
自分はスランプから抜け出せたんですよね。

かつての集中力は失われてしまいましたが…

これは自分と同レベルか、
それ以下の人の絵を見ても絶対に叶わないことでした。

『それ以下』っていう言い方をしてしまうと、
今の世の中あんまり印象良くないかもしれませんけどね。

腕を磨きたいなら、
レベルの違いを見なければならないこともあります。

ただ褒められてばっかだとただの天狗になっから。

なんだろう、難しい部分もあるんですけどね。

レベルの違いを意識した時に自分の立ち位置が見えないと、
競争意識に囚われて自滅する恐れがあるんですよ。

何がなんでも勝ちにこだわったり、
『2位では意味がない』みたいな感覚になってしまって、

それが腕を上げる妨げになるんですよね。

特に創作の世界では、『らしさ』を極めない限り
本当の勝利を手にすることはできませんから。

うまくいえないんですけど、

自他のレベルを冷静に把握することと、
他人と比べることは違うんですよね。

なんか『俺か俺以外か』っていう
有名人の言葉があるじゃないですか。

その感覚を掴むためには、

『他人とのレベルの違い』を
ある程度認識する必要があるんですよ。

中でも『自分より上の存在』を意識するのが特に大事なんですよね。

そうしないと向上心が得られない。

継続にも進化にも向上心が不可欠なので、
自分のレベルが誰かよりも劣っている場合、
それを腑に落とさなければ進化出来ないんですよね。

相手を見下さずに『この人より自分は上にいる』
と感じることも同時に大事なんですけど、

ただこれはまじで難しいので、
天狗にならないよう注意も必要です。

『自分より下の存在』を意識してしまうと、
思い上がって現状に甘んじやすくなるんですよね。

その根拠についてはわしにはよくわからないことも多いんですが、

今のところわかっている範囲で申せば、

『人間の意識の土台には劣等感がある』からだと思います。

なんでそうなるかったら、

ふっかい話をすれば魂の記憶とか
カルマとかが影響してるのかもしれません。

だけどもっと浅いところで判断するならば、

今の日本の教育や社会の常識では
自分よりも他人を重んじる価値観が尊重されがちなので、

幼い頃から劣等感が育まれやすいんですよね。

だから今後は変わっていくかもしれませんけど、

今は逆に『比べるのは良くない』というところにばかり
視点が行ってる印象が強くて、

『向上していくために必要なこと』が
『人それぞれ意見が違う』という曖昧な地点に落ちがちなので、

『レベルを上げるために必要な意識の持ち方』
を習得するのが難しいかもしれません。

そうなんですよね。

『ガッツリ悔しい』思いをある程度体験しなければ、
能力値を底上げできないんですよ。

有体の言い方をすれば、
『苦しみを乗り越える』ってことですよね。

苦しみは無駄ではないけど、活かせなければ意味がない。

そのためにも、

『目標を定めて自分が至らないことを知り磨く』
ことも大事なんですよ。

私はそれを若い世代に知ってもらえたら嬉しいですね。

あれですもんねえ…
最近は『個人の輝き』に注目が集まる一方で、

『自分ばかりが輝けない』と知れば
すぐに取り組んでいたことから離れて、
自分の殻に閉じこもってしまう若者が増えてる中で、

親の世代には
『そもそも自分が輝きたいとは思ってない』
って人が多いじゃないですか。

だからそういう身の回りの若い人や我が子に対して、
『あなたはとても素晴らしい』としか言えないか、
『決定的な何かを提供できずに終わる』のかも知れませんね。

これもまたすんごい難しい話なんで、
私の言葉では上手くお伝えできんかもわからんのですが、

確かに『みんな素晴らしい』し、
『あなたは素晴らしい』んですよ。

でも他人からいくらそう言われたところで、

自分でもそう思えない限りは
決して実感できないもんなんですよね。

もうそういうもんなんですよ。

先に話した電池の話と一緒で
そういう機構になっとるというだけです。

ただ『他人からそう言われると居心地がいい』んですよ。

だからそこで『向上心』が働かないと、
『自分の現状に満足する(足るを知る)』のではなく、
『甘んじてしまう』んですよね。

私自身がその状態を何度も経験してるんで、
自信を持ってお伝えできます。

前項の話にも繋がってくるんですが、

『現状に甘んじる』と
『自分を満足させてくれる相手』を求めて、
運良く見つかれば、今度は依存するんですよ。

これも電池の話と一緒です。
そういうふうにできているに過ぎない。

だからそうなったからって誰が悪いわけでも無いんですが、

そうなると成長はストップするし、
価値観の違いを承認欲求と結びつけて、
自分を責めるようになるんですよね。

だから『それじゃダメ』なんですよ。

向上心を持たない人には厳しさは意味を為さないけど、
人が向上していくためには厳しさも必要なんですよ。

だから自分を認められないなら、
他人を認めることから始めてもいいんじゃないでしょうか。

私はそこから始めて今に至ります。




③『自分の役割』を知り『託す』ことについて


…動画のおねいさんの言い回しとはちょっとちゃいますが、
私はお話の最後の方をこのように解釈しました。

ただこのネタは相当難しい話ですよ。

なぜなら私はまだ己の役割を知らず、
託す相手もいないからです。

ただ『己の役割』を知れば、
託すことを意識することになるんでしょうね。

私は妄想力がふとましくて、

あらゆるケースを想定しながら
自分の世界線を空想するのが好きなんですが…

『子供ができたらどうなるか』っていう空想を
幼稚園児の頃からやってました。

でもまだ子供はいないから
物理的にはちょっとアレなんですけど、

ただの空想であっても、
『自分の子供』に対して何かを託したくなったんですよね。

ただそこで『自分の子供』に限定されているのか否かが
いまいちよくわかんなかったんで、

実際に子供と接する仕事もしてみました。

…ちょっとその時は別の事情がストレスとなって、
判断材料を収集する余裕を持てなかったんですが…

ただ現時点では、

『自分の役割を知る』ことと『託すこと』は繋がってるけど、
必ずしも結びつかないのかなと思います。

上手く言えんのですが、

『自分の役割を知って動く』ことによって、
自然と『誰かに託してしまう』ことがあるんですよね。

『それをやってる人』を何度かお見受けしたことがあって、
「あ、面白いなー」と思いまして。

「そういうこともあんねやな」となんとなく思ったんですがね。

なんだろう、

『意識が伝播する』みたいなことかも知れませんね。

例えば野球選手がいるじゃないですか。

我々は彼らの動きをごく限られた範囲でしか
知ることができませんので、

今回はあえてその範囲内で申しますけど、

『後進のためにホニャララする』っていう意図を
ゴリゴリに持って野球してる人よりも、

イチローとか大谷山みたいに、

『ただ野球が好きだからやってる』って人の方が
次世代のハートに響いてますよね。

多分この人らは『自分の役割を知ってる』んですよ。

で、それを伝えることをはじめは意識してなかったけど、
(イティローは後進育成に励んでるらしいけど)

自分の役割に専念することで図らずも託してしまっている。

これは面白いことなんではないでしょうか。



☆シメ


なんか思いつきでガーッと語ってしまったので、

まとめられてる自信はさっぱりございませんが、

好き勝手語れて満足はしております。

ちょっとこのところ
自分の枠を超えた部分に意識を向けがちで、

大変疲れてたんですが、

いい休息になりました。

お付き合いくださり、ありがとうございました。

さよなり。

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