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生活に音楽のサブスクは本当に必要…か?

約4年間使っていたiPhone8の動きがそろそろ怪しくなり、ここ韓国で新しい携帯を探すのは面倒だから、この前の一時帰国で、google Pixel6aを買っておいた。先日重い腰を上げて、色々とデータ移行やアプリの再ダウンロードをしていたのだが、Amazon Prime Musicが韓国で入手できないことに気がついた。

Amazon自体が韓国には無いから、Prime Musicのアプリがダウンロードできないのも納得ではあるけれど、ちょっと悲しかった。そもそもPrime Musicをメインの音楽アプリで利用しているのはかなりの少数派のようで、友人たちからも「えっPrime Music使ってるの?!」と驚かれるから、Spotifyに乗り換え時かなぁと思った。

でも、電車の中や外出中に音楽を聴きたいのなら、iPhone 8を持ち運んでPrime Musicを使えばいいし(日本でダウンロードした分は韓国でも利用できる)、むやみにサブスクを増やすのも嫌だったから、Spotifyメンバーになるのはちょっと待ってみた。それから約1か月ほど経過し、もしかして私には音楽サブスクは必要ないんじゃないか、そもそも音楽を聴くって何だっけ、という問いが出てきた。


私は音楽命!というわけではないが、聴かない日はないし、音楽はいつも生活にある。ただ、私がふと気づいたのは「私は音楽を消費していただけで、鑑賞ではなかったんじゃないか」ということだった。Prime Musicを開き「UK Hit100」といったプレイリストを流して「へーこういう曲があるんだ、素敵だな」と度々思いはするが、私にとって音楽は大方の場合、その時の自分の気分に合わせてランダムに再生する一時的な道具になっていた。

だから、良いと思った曲でもタイトルやアーティスト名を覚えられなかったし、好きなアーティストはと聞かれても「うーん、ランダムに聴くから特定の人はいないかな」という何とも歯切れの悪い答えしかできなかった。

思い返せば、まだCDやMDしかなかった小学生の頃は、同じアーティストの曲やアルバムを飽きるほど聴いて(聴かせられて)いた。ゴスペラーズ、宇多田ヒカル、葉加瀬太郎…。
それらの曲を聴くだけで、今でも当時住んでいた家の湿っぽさや空気、音楽に合わせてリズムを刻む父親の膝に乗せられていた感覚、タバコの匂いが染み込んでいたプリメーラの車内、等々、色々な記憶が断片的に蘇ってくる。

ウォークマンを持っていた時期まではかろうじて、そういう特定の曲とそれを聴いていた時期の光景や記憶がリンクしている。中学生の頃にウォークマンを手に入れて音楽を持ち運べるようになったけれど、それでもCDをツタヤでレンタルしてパソコンを経由して…という手間が必要だったから、結局同じ曲を繰り返し聴いていた。


私はいつから、誰かのアルバムを飽きるほど聴くことをしなくなったんだろう。やっぱり、スマホとそれに伴って音楽サブスクを入手してからだと思う。その後の私と音楽の関係性は、冒頭の通りになった。

新しい音楽をどんどん試して聴くスタイルもありだし、私も外出先で音楽を聴くことは今もゼロではないけれど、私にとって(もっと大げさに言えば私たちにとって)音楽ってそんな物だったかしら、とも思う。

元々音楽は、電車の中であるいは買い物中にも絶えず流し続けるのではなく、もっと腰を据えて繰り返し味わうものではなかったか。開始数秒で「好き/嫌い」を判断し、とっかえひっかえ再生するのではなく、もう少し聴いてみようと待つものではなかったか。

私はかろうじてCDが主流だった時代を知っているけれど、そうでないもっと若い世代にとって音楽体験はどういうものになっていくんだろう。

これは私の勝手な憶測だが、作り手であるアーティストたちの音楽への向き合い方は、聴き手ほどは変化していないと思う。これまでそうであったように、これからも、自分の人生をかけて音楽に誠実に向き合っていくんじゃないだろうか。
聴き手として、本当に音楽を愛して大切にしたいのなら、音楽を「商品」として「消費」するのではなく、「作品」として「鑑賞」したいと思った。



そういえば、たまにログイン画面でパスワードを忘れた際の代替手段として「あなたが最初に購入したCDのアーティストは?」という質問項目があったけれど、最近見ない…時代遅れの質問になってしまったのだろうか…


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