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ファッションへの愛とジレンマ

昨晩、Netflixで「Le monde de demain: 明日の世界へ」を観ていた。1980年代ごろのフランスヒップホップの草創期をドキュメンタリー風に描いたもので、音楽も楽しめるし当時のパリの様子も分かるし、最近のお気に入り。


観終わって、ファッションについて考えはじめた。私は、小学生の時に初めて自分でファッション誌を買って以来、ファッションについて考えるのが好きでたまらないのにも関わらず、いわゆるファッションバカのようになれない、冷めたところもある。「ファッションが大好きなんだけど、でも…」となってしまう。
この「でも…」の部分にきちんと向き合ってみようと思う。


ファッションは贅沢か?

時に「桁を間違えた?」と目を疑ってしまうほど高価な値段がつくこともある服の世界。それを見て、もちろんその値段で販売する背景には、質の高さやこだわりがあることは理解している。
けれども「これを買える人はごくごく一握りの人たちだろうな」と思うと同時に、なおそれらを素敵だと羨望する自分は「贅沢な世界に目がくらんでいるのか…?」とモヤモヤしてしまう。

コレクションで発表される、様々な煌びやかな洋服たちとそれに集まる称賛。一方で、世の中には着るものに困る人たちもいる。

もっと卑近な例を挙げると、一見すると何の変哲もない真っ白なTシャツだけれど、あるラグジュアリーブランドのもので2万円。それとほとんど変わらないデザインで質も十分なTシャツ3千円。仮に私が欲しいものが前者だとしても、「そんな贅沢はやめよう」と自分に言い聞かせるだろう。

ファッションで自己表現したいと思うのは見栄か?

私にとって、ファッションは最も手軽に自由に自己表現できる手段の一つだ。小学生のころから「人と一緒は嫌だ」という思いがやたらと強く、当時卒業式では女の子はAKBの制服のような恰好がお決まりだったが、私は自分でZARAのグレーのベロアワンピースを選び着て行った。こういう風に、流行を追わず、モテるかどうかを意識しないオリジナルの恰好をすることで、「自分らしさを大切にする自分」というポリシーを対外的に分かりやすく演出してきた。

ただ、成長するにつれて、ファッションで自己表現する必要があるのか、それは上っ面でしかないのではないか、と疑問を覚えるようになった。
これは、「人と違う恰好をする」ということは、結局は自分以外の人を常に意識している状態であると気がついたからでもあるし、日本でも欧米でもミニマリズムや、外見よりも内面にフォーカスした「自分らしさ」という価値観が大切にされるようになり、私がそれらに共感したからでもある。

ファッションで自己表現したいという欲望は、それ以外の手段を知らないということではないのか?外見の要素に依存しなくなった時に、相手から見える私の「自分らしさ」とは何か?何が残るのか?

ファッショナブルでいることとミニマリズムは両立するか?

私は基本的に、自分にとって本当に必要なモノを見極めてそれらを大切にしていきたいと思っている。有り体にいえば、ミニマリズム的な考えだ。

その一方で、やっぱりファッションが大好きで、持っている服の組み合わせを頭の中でぐるぐる考えたり、毎朝 Vogue や ELLE のウェブサイトを欠かさずチェックしたりしている私は、ファッションナブルになりたいという気持ちが強い。国内外のファッションスナップを見ては、「なにがお洒落にみせているんだろう、自分にはなにが足りないのだろう」と研究している。

服をたくさん持ち着飾ること=お洒落ではないことは分かっている。例えば、マーガレットハウエルは「シンプル&ベーシック」を大切にし、本人も「必要以上に持たない」と語っている。

その一方で、ファッショニスタたちのインタビューやスタイルを見ると、みな色々な服を試してトライアンドエラーを重ねることで、自分のスタイルを確立してきたんだと分かり、自分もそうしたいという思ってしまう。

トライアンドエラーが行きつく先がミニマリズムなのかもしれないが、それでもトライする勇気がない。

究極のサスティナブルは服を買わないことか?

トライする勇気がない理由の一つとして、サスティナブルの観点から服を買うことに罪悪感を覚えてしまうから、というのがある。

古着屋に行って、まだ着られる服が大量に並んでいる様子を見ると、これ以上環境に負荷をかけてまで服を作り続ける/買い続ける意義はあるのだろうか、と思ってしまう。

才能あるデザイナーたちが、新しい素材やスタイルに挑戦しファッションの世界がより豊かになっていくことは素晴らしいし、そこにクリエイティビティの面白さがある。けれども、服の生産が環境破壊・地球温暖化につながり、あらゆる生命を脅かすのなら、そこで生まれるクリエイティブの価値は一体何か?

もちろん、今はあらゆるアパレルメーカーやブランドがサステイナブルな服を作ろう、新しいファッションのあり方を定義しようとしている。
ただ、学生である私はしばしばファストファッションに頼るのも事実で、後ろめたさを覚えてしまう。

実際、究極のサステナブルは服を生産しない/買わないことなのかもしれないとも思う。
このHUFFPOSTの「世界でもっとも「責任ある企業」として知られるパタゴニア。地球の危機に対して、トップランナーはどんな景色を見ているのか?」で紹介されているように、パタゴニアは2011年「資源の利用を削減する『リデュース』の重要性を顧客に伝えるため、ニューヨークタイムス紙に「Don’t Buy This Jacket (このジャケットを買わないで)」という広告を出している。

(出典)パタゴニアジャパン


つまるところ、何のために装うか?

ここまで、だらだらと私のファッションに対するジレンマや疑問を綴ってきたが、それらを解消するだけの考えにはまだ至っていない。現時点では、おそらく「何のために私は装うか?装いたいのか?」という問いに着地するのかもしれないと考えている。

あともう一つ。ファッションはこういった自己表現の手段にも、単なる生活必需品にもなることができて、アート・ビジネス・倫理観といったあらゆる角度から見ることができるからこそ面白くて飽きないのだと思う。

いつか、ここに書いた

ファッションは贅沢か?
ファッションで自己表現したいと思うのは見栄か?
ファッショナブルでいることとミニマリズムは両立するか?
究極のサスティナブルは服を買わないことか?

という問いにちゃんと応答できるようになりたい。




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