【note155枚目】 往復書簡 限界から始まる/上野千鶴子・鈴木涼美

 「理解出来るかもしれない」と「どうして?」が自分の中でも繰り返される1冊だった。
 鈴木涼美さんの著作は何冊か読んだ事があったけど、上野千鶴子さんには触れた事がなく、「ややミソジニーの思想が強そうなフェミニスト」というイメージだけが先行していた。読み終わった今、そのイメージが変わる事は特にないけれど、前より存在の輪郭が見えた気がする。

 書簡というややプライベート感が勝る、本来ならこうして公にされることがない態(てい)でのやりとりだからこそ書き表されたことがたくさんあるんじゃないかな。

 鈴木涼美さんの著作を何冊か拝読している時に感じた「見下し」の源泉が男性に性を売って生きていた経験とその時に見た男という生き物への諦めや絶望と、他の女性が大切にとっているような性を私は粗末にしてあまつさえ財へ変換できるという自尊心(というのは少し違うかもしれない)にあったことと、それが快楽に類していたことを改めて知った。そして母への抵抗もあったと。母親が出す「女性」に対する抵抗感と、彼女が忌み嫌うような存在に必死になり続けた鈴木さんの姿が、上野さんへのお手紙という形で告白…というより記憶と思考を整理して文字にして伝えているような感触だった。
 そんなに必死に抵抗して、それでも「どうにもならなくなったら実家に」と考えられるのが個人的には不思議で仕方なかった。お母様や家が嫌いだったわけではなかったのは幸福なことなんだろうなと。母が嫌がる道へ外れる事にも、夜のオネエサン、記者、物書き、いろんな存在に自分の身を置こうと出来るのも実家が太くて最終的に自分を無条件で置いてくれるだろうという安心感があったから出来た事なのかもしれない。『ギフテッド』も『トラディション』と、母親や家の存在とそれらに交わる自分の心情が強く絡みついてるように感じて、あれらは鈴木さんご自身の心の中にあったものだったのかもしれない。
 前に『ニッポンのおじさん』を読んだ時に併せて見た古舘伊知郎さんとのYouTubeでも触れられていた、「ひとりの人の中にいろんな顔や立ち場があるはずなのに、役割を決めようとするし、その境界を行ったり来たりする事を男性は嫌う」というのがこの本にもあった。それを嫌う、もう少し和らげると境界を跨いでいる様子に混乱するのはたぶん男性だけじゃないと思うけど、話題が男性に集められていたからこの本では触れられることは無さそうだった。
 小説を書くこと、結婚すること、この本ではややネガティブだし自分がその環境に身を置くことが想像し難いと話す場面が多かったけど、小説を発表してご結婚もされた今、この頃からなんらかの心境の変化があったのか否かとても気になる。今の鈴木さんと今の上野さんでの往復書簡を読みたい。

 上野千鶴子さんについては本当に申し訳ないけれど、「ミソジニーのフェミニスト」というイメージがあったし、別にこれを機に変わることもなかった。何かの時に読んだ「学生運動をしている男子学生は、共に戦う女子学生ではなく庇護したいか弱い存在である女ばかりをちやほやして連れ添う」そうした女を侮蔑を込めて「公衆便所」と称されていたと思っていたけれど実際は、上野さんご自身が学生運動時に奔放的に性をやり取りしていた自分を含めて「公衆便所」と称されていたことに怒っていたのをこの本で知った。便所側だったんだな…。
 上野さんも鈴木さんと同じく、母という存在が自分の歩みに大きく影響されているように思えた。でも、上野さんの場合は「見下し」の目線がお母様に向けられているように私は感じられた。家に入り、父の庇護を受けて子供である私を教育する、しか、出来ないような存在であって、迷惑とすら感じられる。そんなことあるんだ。
 女性学という学問の先頭に立って、向かい風を受けながら、世の中の罵詈雑言にも歯を食いしばって耐えながら推し進めてこられたのは本当にすごい事。でもやっぱり実家の太さがあってこそなのかもしれないな、とお二人のやりとりと添えられる背景を見ていて沁みるように感じた。
 あと「自由」の段でつい感じて呟いたこと

 女性を差別する、差別を助長するような表現は自由じゃなくて許されない事で、表現の自由範疇にもあたらないと言われていたけれど、それと同じタイミングで語られていたのが『表現の不自由展』についての事だったのが個人的にどうしても納得がいかなかった。表現物に対して暴力を持って脅かそうとすることはあってはならないのは理解出来るけど、その表現物が他人の侮辱に類するようなことはシンプルに暴力なんじゃないのか?しっかり学を積まれている方でもそれを暴力とは感じないんだと衝撃だった。

 受けた痛みに対して「痛いです」「こんなことはおかしい」と声をあげる、伝える事はとても大切なこと。でも、伝え方について考える時間も必要かもしれない。というのも、自分が診断が下りている発達障害者の一員として、他の当事者がどんな発信をしているのか、どういった現状があるのかを知ろうと探した時によく目に入るメディアが漫画。「エンタメ化した発達障害」を取り上げて笑い者にしている人たちは残念だけどけっこういてると感じる。そうしたエンタメ化、おもちゃにされている発達障害の記を見た別の人達が、エンタメ化されないでいる(こっちの方が大多数だと思う)発達障害の人へのイメージをどんどん下げていって当事者たちがさらに肩身の狭い思いをする、かもしれない。伝え方や思想の表明方法の工夫は、発信者だけじゃなくて時にそのフィールド全体へ及ぶということは、表で先陣で「フェミニスト」を語る人たちが考慮する事も大切なんじゃないかと考えた。フェミニズムと発達障害を並べて考えるのもちょっと違うかもしれないけど、自分に身近なところから…。

 ひとまず読み終わってすぐの気持ちを書き留めておく。