2つの意味で宝塚らしい作品〜宝塚歌劇団月組『ON THE TOWN』

2019年1月17日に宝塚月組『ON THE TOWN』を見た。
この感想を書くにあたって、ミュージカル好きの知人たちとのLINE会議が大いに役立った。

1944年初演の本作は、ミュージカル史において長らく、再演しづらい作品とされてきた。
戦闘の直接的描写や間接的言及がなくても、『ON THE TOWN』からは「戦時中」という時代性が漂ってくる。
ブロードウェイでの再演がうまくいかなかったのは、近過去との距離、すなわち『ON THE TOWN』をどのような態度で上演すれば/見ればよいのかを図りかねていたからではないかと推察される。
ところが2010年代に入って、『ON THE TOWN』の再演が積極的に行われはじめていると実感している。
2014年にはブロードウェイで再演され、今回の宝塚版、2019年夏には佐渡裕指揮版も日本で上演予定だ。『ON THE TOWN』を『ON THE TOWN』として上演できるほどに、1940年代が「過去」となり、『ON THE TOWN』が古典的演目になったということか。

<あらすじ>
 6月のある朝6時。24時間の休暇を得た水兵のゲイビー、チップ、オジーはニューヨーク観光に繰り出す。地下鉄に貼られた「6月のミス地下鉄」にゲイビーは一目惚れする。広告を無理やり剥がしたゲイビーたちは通報されるが、逃げる。3人は手分けしてミス地下鉄のアイヴィー・スミスを探す。途中でトラブルを巻き起こしながらも、チップはタクシー運転手ヒルディと、オジーは人類学者クレアと知り合う。3人を追う警察の数が増えていく。ゲイビーもアイヴィーと出会い、デートの約束を取り付ける。ところが仕事のシフトを守るよう脅されたアイヴィーは土壇場で去る。チップとオジー、ヒルディ、クレアはゲイビーを励まそうとナイトクラブへ連れ出すが、ゲイビーは気落ちしたままである。アイヴィーがコニー・アイランドにいることを知ったゲイビーは、急いで向かう。コニー・アイランドでダンサーとして働くアイヴィーを、ゲイビーは見つける。とうとう彼らは警察に捕まり、港へ戻される。朝6時。見送りにきたアイヴィー、ヒルディ、クレアに別れを告げて3人は船に戻る。新たな水兵たちが船から降りてきて、1日が始まる。

さて今回の『ON THE TOWN』、2つの意味での宝塚らしさを感じた。
2014年のブロードウェイ版を見た時とは異なる、独特な感触を味わった。
1つは、宝塚歌劇団が『ON THE TOWN』を上演することによって宝塚への自己言及性を帯びた作品として成立し得る、という意味での「宝塚らしさ」である。そしてもう1つは、今回の上演に際して施された変更から宝塚歌劇団の理念が窺える、という意味での「宝塚らしさ」である。

「交換可能」と「唯一無二」に引き裂かれるひと、「クロノス」と「カイロス」に引き裂かれる時間〜1つ目の宝塚らしさ

あらすじから分かる通り、この作品の肝は、ひとの有り様と時間秩序が二重性を帯びていることにある(ちなみに、以下のことについて、特に時間については論文に書いた。興味がある方は一読いただけると幸いです)

キャラクターたちは、「交換可能性」と「唯一無二」の両義性を備えている。
24時間ごとに代わる代わる休暇へと向かう水兵たち、一ヶ月で交代する「ミス地下鉄」、勤務態度不良で首を切られるヒルディ、そしてクレアと婚約者ピトキンは互いに相手を別のひとへと交換する。『ON THE TOWN』には人員の交換や交替のモチーフが頻出する。
しかし同時に、水兵3人と女性3人の恋を描くにあたって、互いが互いにとって唯一無二の存在であることは繰り返し主張される。彼らの主張する唯一無二性は、一緒に歌い、一緒に踊るというミュージカル的手続きも十分に踏まれている。
システマティックに交換される部品としての側面が常に顔を覗かせているからこそ、歌と踊りで表現されるワン・アンド・オンリーネスは輝きを放つという構図を本作は持っているのだ。

また同時に、『ON THE TOWN』は時間秩序も二重性を帯びている。
朝6時に至るカウントダウンで始まり、随所で時間の確認が行われる。合間に挟まれる警察らによるチェイス・シークエンスや、登場するたびに会話内容が絶妙に進展しているワーキング・ウーマンたちも、時間の進展を強調する。
それに対して、ミュージカル・ナンバーは24時間のカウントダウン(クロノス的時間)のくびきを取りはらうかのように、たっぷりとした豊穣な時間を差し込んでくる。チップとヒルディの執拗な押し問答、オジーとクレアの古代へのタイムスリップ、そしてゲイビーとアイヴィーの贅沢なまでに時間をとったダンス・シークエンス。これら歌やダンスは、24時間しか許されない休暇の終わりを引き延ばすような、繰り延べるような時間性を帯びている。

わたしが『ON THE TOWN』を愛しているのは、上に描いた近代的な「ひと」と「時間」の二重性を作品の核に据えて、ミュージカルの劇作術を利用してエンターテインメントへ仕上げたクレバーさに依る。
加えて今回の宝塚版で、「ひと」と「時間」の二重のありようが宝塚システムと極めて親和性が高いことを発見しできた。

劇団としてのサイクルのモデルが「学校」であるがゆえに、宝塚では人員は毎年交替する。時には組み替えによって交換も起こる。生徒やファンの多くは卒業というタイムリミットを念頭に置いて活動に励む。宝塚という大きなシステムのなかで、その一員である生徒たちは交換可能な部品としての側面は確かに持ち、そして時間は容赦なく進む。
しかし同時に、彼女たち一人ひとり唯一無二の存在であることは常にパフォーマティブに示され、卒業へと突き進む時間からは解き放たれた時間を上演のたびに仮構する。

このように、ドリームランド=ニューヨークでひと時の恋と冒険に飛びこみ、タイムリミットがきたら再び船に戻る水兵たちの姿は、いつの間にか宝塚歌劇団の生徒たちの姿と重なり合うのである。
宝塚歌劇団が『ON THE TOWN』を上演するからこそ生じる効果であったと感じた。

夢を留め置く唯一無二の人びと、という理念〜2つ目の宝塚らしさ

今回の宝塚版では、大幅な変更(たとえば楽曲の数が変わるとか)はなかったものの、細かい変更はいくつか気づいた。
そのことによって、「クロノス的時間」に生きる「交換可能な部品としての人員」という側面は若干影をひそめ、「カイロス的時間」に生きる「唯一無二のひと」という側面がだいぶ強調されていたように感じた。

まず、作品冒頭の6時までのカウントダウンが3回から2回に減らされていた。また、ワーキングウーマンたちの登場回数も4回から2回に減らされていた(ちなみに会話内容もあからさまな不倫色は消されていた)。これらの削減は、おそらく上演時間短縮が目的だろう。しかし、時間の容赦ない前進を示す指標が減らされたことは事実である。

重要な変更として、「ミス地下鉄」紹介場面を挙げたい。
脚本では、アイヴィーが紹介されたあとに「『ミス地下鉄』は一ヶ月で交替し、7月には別の『ミス地下鉄』が選ばれる」と付け加えられる。そして、もてはやされていたアイヴィーは一人取り残されて嘆き、場面が終了となる。
ところが宝塚版では、交替制が明言されてアイヴィーが嘆く下りが丸ごと消されていた。「ミス地下鉄」はひと月だけスポットライトが当たる存在にすぎないことをあからさまに示す描写が消されることで、「交換可能性」はかなり希薄になったと感じられた。

きわめつけの変更は、幕切れである。
脚本や過去の上演では、タイムリミットを迎えた水兵3人が船に戻るのと入れ替わりに新たな水兵3人が登場して勢いよく「ニューヨーク、ニューヨーク」を歌い出す。ワンコーラス歌われたあとに、曲はフィナーレへと位相を移し、俳優全員舞台上に登場して残りを歌うという幕切れになっていた。
対して宝塚版では、ゲイビーらは退場しないまま新たな3人組が舞台上に登場して歌い、ワンコーラス後にゲイビーらが加わるという演出になっていた。
この変更を見て、ゲイビーらが一瞬でも舞台上から立ち去ることの効果は大きかったことを実感した。というのも、去らずにそのままフィナーレへとなだれ込むことで、ドリームランドでのドリーミーな時間は終わらないということがパフォーマティブに示されるからである。宝塚が上演を通して主張し続けている理念に、『ON THE TOWN』の幕切れは沿う形へと変更になっていたのである。

以上の変更は、繰り返しになるが、大幅な変更とは言い難い細かなものである。しかし、そのような変更を加えたということに、宝塚が何を理念と据え、何を打ち出そうとしているかが如実に現れていた。
これが、もう1つの意味での「宝塚らしさ」である。

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