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11.30 シルバーラブの日

音を立てて煎餅を食べる、太った豚のような妻の後ろ姿を見るたびに、私は毎度がっかりする。
ひどい猫背のためにウエストのあたりが三段になり、白髪混じりの髪をひっつめて見るともなしにテレビに向かう後ろ姿。御年六十八歳。
出会った頃はこんなではなかった。
近所で有名な美人の女子で、沢山の男達が猛アタックしたものだ。
今や発情期の豚でも寄ってこないかもしれない。
口周りの産毛は処理しないのに、眉毛だけはシャープに整えられているのがアンバランスで残念な気持ちを増させる。
「出かけてくるよ」
私は出来るだけ妻の耳に入らぬように、加減して小声で言った。
私のなかでは、確かに伝えたという事実だけが重要なのだ。
案の定テレビに思考の全てを持っていかれているらしい妻は、煎餅の音を響かせただけでこちらを見向きもしなかった。
靴箱から革靴を出し、少し布で磨いてから履いた。
定年退職してから久しくスニーカーしか選ばなかったので、身の引き締まる思いがする。
玄関の姿見で前髪を直してから家を出る。
私はこの時点でもう相当に浮かれていたのだと思う。

「お待たせしました」
私が待ち合わせのホテルのラウンジに着いてから二十五分後に彼女は現れた。
というのも、知り合いに見られぬよう電車で三駅先のホテルを指定したので、迷わずたどり着けるかが心配で四十五分も早く来てしまったからだ。
決して彼女が遅いわけではなく、むしろ予想以上に早かったのでぼんやりしていた私は口など開いていなかっただろうかと変に慌ててしまった。
「いいい、いえ。いえいえ。私も今さっき到着したばかりで」
立ち上がるなり会釈をし、顔をあげるとそこには子供の頃の面影を残す白髪の女性が立っていた。
急に顔中に熱が集まってきて、思わず頭を掻いた。
女性に笑みを向けられること自体が久しぶりで緊張する。
「こちらに座ってもよろしいかしら」
彼女は私の隣の席を指差した。私は急いでどうぞどうぞと腰を低くする。
彼女が座ったのを見届けてから私も元の席に収まった。
「珈琲でいいですか」
彼女は肩にかけていた若草色のストールを背もたれにかけながら「そうねぇ」と言った。
「私はレモンティーをいただくわ」
私の珈琲と彼女のレモンティーが来るまでのあいだに沈黙が流れ、額に浮かぶ脂汗が止まらなかった。
その間彼女は私のことをじっと見つめるばかりで、ミステリアスな笑みを浮かべて黙っている。
運ばれて来たレモンティーを一口飲むと、彼女はそれまでの時間は無かったかのように口を開いた。
「久しぶりね。何十年ぶりかしら」
彼女の名は、常盤カヨ子という。小学校時代まで隣の家に住んでいた幼なじみだ。
その頃は子供すぎて男も女も一緒くたに考えていたので、先月再会した時はこんなに素敵な女性だったのかと心底驚いた。
今のカヨ子さんは色が白く、刻まれた皺は笑い皺のようでいつでも優しく見える。
うちの妻と違い細身で、骨っぽいところもあるがまだテニスをやっているとかで健康そうな筋肉を持っている。
ふと目を細める仕草には何か意図があるのではないかと勝手に脳が誤解してしまうような、静かな色気があった。
「そうだね、六十年ぶりくらいだろうね。まさかあんなところで遭遇するとは」
「嫌ねぇ、遭遇なんて。宇宙人みたい。でも、あなたも俳句をやっているとは」
カヨ子さんが急に手で口元を覆い思い出し笑いを始めたので、私は恥ずかしくなった。
「驚いたでしょう。小さい頃は野球やら陸上やらばかりで、国語の授業さえまともに聞いていなかったのに」
「そうね。だからこそ、あぁ私たち歳をとったのねぇって実感というか、変に納得しちゃったのよ」
地区のカルチャーセンター対抗の俳句大会で隣町の代表として出ていたカヨ子さんに会ったのはつい先月のことだ。
その時は落ち着いて話すことが出来ず、連絡先だけ交換して別れた。
「でも、きょう誘ってもらって嬉しかったわ。今は私、暇してるから」
目を伏せてティーカップに口をつける姿が寂しげに見える。
いや、私には何でも物憂げに見たがる節があるので注意が必要だ。
俳句の師にも物憂げがすぎると言われている。
「ご主人は?」
直球すぎただろうかと思ったが、一度口から出した台詞は消すことができない。
気まずい沈黙が少し流れた後で、彼女は何でもないことのようにこう言った。
「死別したわ。もう結構前。あなたは?」
聞き返されて口ごもる。あれを妻だと認めたくない気持ちと、今となってはもう懐かしいが、女の人にモテたいという浅はかな心からだ。
「うーん。ここの珈琲はうまいな。一句読んじゃおうかな」
下手な誤魔化しに彼女はキョトンとした顔をしていた。
それから、これまでの仕事のことやら趣味のこと、俳句のことやよく行くスーパーの話などをしているうちにあっという間に二時間ほどが経過していた。
「あら、いけない。もうこんな時間。帰ってお夕飯作らなくちゃ」
慌ただしく帰り支度をする彼女の手を、私は無意識のうちに掴んでいた。
「一人なんだろう。もしよければ、一杯飲んで行かないか」
彼女は数瞬迷ったような瞳のゆらぎを見せたが、笑い皺を深くしてそっと私の手に手を重ねて引き離した。
「あなたは、一人じゃないでしょう」
「えっ?」
カヨ子さんが私の衣服やカバンを交互に見てウインクした。
「誰かが丁寧にアイロンをかけてくれた跡。ハンカチにも綺麗に。今からでも覚えておくといいわ。女には嘘をつけないのよ」
そして、カヨ子さんは空いたティーカップの隣に千円札を挟むと「楽しかったわ」と手を振って踵を返した。
ぼんくらな私がはっと気づいた時には、彼女の姿は自動扉の先の夕闇に消えかけていた。
「さよならを言いそびれたな。それに奢るつもりだったのに…」
私は肩から袖口にかけて走るアイロンの跡を指先で丹念にほぐしながらため息をついた。
「…帰るか」
代金を払って外に出れば、東の空に大きな月が登り始めていた。

11.30 シルバーラブの日
#小説 #シルバーラブの日 #JAM365 #日めくりノベル

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