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5.8 化粧品の日

その家のことを僕は小さい頃からハナミズキの館と呼んでいた。
その家では白い玄関扉を囲むように、左右にハナミズキの木が植えられていて、五月になるとたくさんの花をつけた。
初めてその家の前を通った時、僕はまだ小学生だった。
親の転勤による転校初日、胃のあたりを押さえながら重い足取りで登校していた僕は、少し先のコンクリートの地面ばかりを見ていた。顔を上げて同じ制服の知らない子と目が合うのが嫌だった。
だけどその家の前で楽しそうな声が聞こえて、思わず顔をあげた。
花びらの縁がじんわりと薄紅色に染まったその花を背負って、その家に住む少女が記念写真を撮っていた。
今でも忘れない。
人生で初めてだった。僕は息をのんだ。
あまりに美しくて、僕はびっくりしたのだ。
ふわり、とこぼれるほどに咲くハナミズキの花。その花を少女漫画のように背負った少女が、はにかんだようにほほえんでいる。
真新しい制服に、切りたてのような揃えられた艶のある髪の毛。
少女は、母親にカメラを向けられながら、早く早くと急かしている。
「お母さん。恥ずかしいから早くして。友達に見られたらやだよ」
そう言って、僕の方に向けられた瞳は、美しくて透明だった。
僕は思わず足を止めて、ランドセルの肩紐を強く握りしめた。僕は足下から迫り来る感動に震えて立ち尽くしていた。
これだけの感動を僕は知らなかった。
女の人って、綺麗なんだと、守るべき生き物なのだと僕の中の本能が叫んでいた。
母親がこちらを見て会釈をしたので、僕は弾かれたようにその場を離れた。
心臓が爆発しそうで顔が真っ赤だったのを覚えている。

それでも、僕はそれ以降その少女には会えなかった。まるで、幻なのかと思うほどに。
生活時間が違うのか、毎朝気にして家の前を通っても、ついぞその姿を目にすることは出来ず、僕はただ何度も脳内に焼きついたハナミズキの館に住む少女を思い返してはため息をついた。

大学生になって地元を離れた僕だったが、この間姉の結婚式で帰る機会があった。
夕方、駅から家まで歩いて帰る最中にハナミズキの館の前を通った。
「そっか、五月か」
薄紅色のハナミズキが、今年も変わらずその花を盛大に咲かせていたので、僕は急に胸を焦がしていた時代にタイムスリップしたような気持ちになった。
あの少女は、今頃どうしているのだろう。
就職して、お化粧でもして、さらに綺麗になっているのだろうか。それとももう、結婚してどこかで幸せに暮らしているのだろうか。
僕は少し立ち止まり、ハナミズキが暖かくなった五月の風に揺れるのをしばし見ていた。
家の中からつけられた門灯が柔らかいオレンジ色に花々を染めた。
僕はゆっくりと帰路についた。
化粧をしているのもいいけど、やっぱり僕はあの透けてしまいそうなほど透明感にあふれた少女時代の彼女を、いつまでも宝物にして胸の中で大事にしておきたいと思った。
いつかすれ違っても、きっと分からないだろうけれど、その方が素敵なような気がした。

5.8 化粧品の日
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