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10.27 テディベアズデー

十年ぶりに会った彼女も、変わらずその細い腕にテディ・ベアを抱いていた。
彼女の表情は目深に被った麦わら帽子で見ることは出来ないが、フリルの多い白いシフォンの服にもたれかかるテディ・ベアは少しくたびれたマロンクリーム色(これは十年前に彼女が言っていた色だ。彼女がいなかったら、俺は一生マロンクリーム色というものを認識することはなかっただろう)

夢で何度も見た光景だが、今回ばかりは夢じゃない。
連絡先から彼女のアドレスはとうの昔に消していた。
けれども、突然届いた知らないアドレスからのメッセージだって、テディ・ベアとフラワーという甘ったるい単語の入ったメールアドレスを持つ知り合いなんて、彼女しかいないのですぐに分かった。
十年ぶりに来たメッセージには、あなたの花畑に遊びに行きます。その後に笑った顔文字、そして、今現在の日時が書いてあった。
俺がそのメッセージに気づいたのは、約束の時間の三時間前だった。朝まで飲んで、前後不覚のまま家にたどり着き正午を過ぎても眠っていたからだ。
彼女からのメッセージを読んで、頭を殴られたような衝撃に襲われた。
しかしそれは、ただの二日酔いによる頭痛だったかもしれない。
俺は足をもつれさせながら服を着替えた。いつも着ているセーターをかぶり、デニムを履いたところで十年ぶりに会うのにこの格好はないだろうと気づき、長くクローゼットに眠っていたよそ行きの服を出した。
目的地に車を飛ばす間も、何故勝手にいなくなったような、俺を捨てた女に会うのにこんなに気が急いているのだろうと苦しい気持ちになった。
「確かめたいだけだ。一言文句を言って、そして今度こそ俺の方から別れを告げてやる」
下唇を噛んだのは、自分の嘘に気づいた心が忌々しかったからだ。
ただ、会いたい。恋しい。
また夢になって消えてしまう前に、彼女に会いに行きたい。目が覚めても消えない彼女にもう一度会いたい。
彼女が俺に連絡してきた理由は分からなかった。
十年憎み続けた相手は、どんな顔をして俺に会うつもりなのだろうか。
そして、その時俺はどんな顔をするのだろうか。
アクセルを踏む足に知らず力が入るのに気づいて、このままでは事故を起こしそうだと意識的に速度を緩めた。

「ヒナ」
彼女は雛子という、ヒヨコのような、またはお雛さまのようなふわふわとした名前だった。
花畑の少し段になった上のところから名前を呼ぶと、彼女は迷ったような挙動不審な手ぶりのあとで、意を決したようにようやく顔をあげた。
きゅっと結ばれた口には、薄いピンクの口紅が塗られていて可愛らしい。記憶の中ではいつも眠たそうに垂れた瞳は、きょうは涙で潤んでこぼれおちそうだ。
「恭ちゃんっ」
胸のフリルの前で組まれた手に力がこもり、テディ・ベアが苦しそうに体を折り曲げた。
俺は、何かたまらない衝動に駆られて段差を駆け下り、彼女を力一杯抱きしめた。
ドラマなんかではよく変わらない懐かしい香りがするなんていうが、懐かしい香りなんかじゃなく彼女は柔軟剤のような知らないバニラの香りをさせていた。
「恭ちゃん、やっと会えた」
俺の肩口が温かく湿っていくのに気づいて、俺は彼女が泣いているのだと分かった。
「おかえり、でいいのか」
何かが急速に俺と彼女の時の溝を狭めていく。俺が背中をとんとんと叩くと、彼女はしゃくりあげるように呼吸を乱した。
「ただ、いまっ、だよっ」
本当は、十年だろうがなんだろうが、俺はただ彼女のことを信じていれば良かったのだとこの時気づいた。
こんなフリルまみれで甘い匂いをさせて、テディ・ベアを片時も離さないような女なんて元々まったく趣味じゃなかった。
複雑な家庭の事情を持ちながら、それでもめげずに真っ直ぐ俺にぶつかってくるそんな彼女に落ちたのだから、いなくなったくらいで疑ったりして憎んだり恨んだりする俺の方が弱かっただけなのだろう。
「よう、くま公。ヒナを護ってくれてありがとな」
俺と彼女の間に挟まれて押しつぶされているテディ・ベアに声をかけると、彼女は勢いよく俺から離れていった。
「やだ、私この子を潰しちゃってた!苦しくない?」
あまりにくま公を心配そうに点検するもので、焼きもちをやいた大人気ない俺は、テディ・ベアを奪い取って高く掲げると、そのまま彼女にキスをした。

10.27 テディベアズデー
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