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8.15

緑陰の中で、売店で売られていたサイダーを飲んでいる。
瓶に貼られたラベルは藍色で、大きな帆を張った船の絵が白く抜かれている。その船に透明な雨が降る。イチの手の平の体温が冷たいサイダーの瓶にたくさん汗をかかせるのだ。
イチは、摘むように左手で瓶の口を持ち変えると、濡れた右手をボーダーのシャツの裾で拭った。バスはまだ来ない。青くて古いベンチに座り、サイダーを振るとたくさん泡が出て船はまるで嵐の中を難破しているように見えた。
「おい、振るなよ莫迦」
隣に座っていた弟のツギが、眉間に皺を寄せてイチの手からサイダーを奪った。ツギは不機嫌そうな顔のまま残りの炭酸水を全て飲み干す。
「全部飲む方が酷くないか」
「持て余して遊んでたんだろう。二人の物なのに炭酸抜くとか信じられないよ」
買ったのは俺だけど。イチは口には出さずに肩を竦めた。
同じ顔を持つ弟の暴君加減には慣れている。先に腹から出たからといって、双子では兄という認識もないだろう。兄さんと呼ばれたことも記憶の限りはない。
ツギは空き瓶を足元に置くと、そのまま伸びをしてついでのように大きな欠伸をした。
「バス全然来ないな。帰ろうぜ」
「まだ少ししか経ってないだろう」
ツギの寝坊のせいでバスを一本見送るはめになったにもかかわらず、悪びれる様子もない。
イチがバス停の時刻表を確かめると、腕時計の時間から五分前の表記がされている。その前は、七十五分前だ。普段バスになど乗らないので、こんなに本数が少ないとは思っていなかった。これだけ間隔が空くということは、多少の遅れは仕方のないことのような気がした。
「もうさ、来なきゃいいよ。どこかの崖に転落したとか、溝に前輪はまって身動きが取れないとか、乗客が急病でそのまま病院へ向かったとか、ミサイルにやられたとか。だとすると僕たちが待っててもバスは来ない。永遠に」
弟は口が悪いくせに自分のことを僕と言う。イチは、きっと双子の片割れである自分と差別化を図りたいのだろうなと捉え、弟が自然に俺呼びを譲ってくれたことに、そこだけは内心感謝していた。
「腹をくくれよツギ。もう行くと連絡してあるんだ。それに、たとえバスになにかあっても代替車が来るよ」
「代替車も崖に落ちるかもしれないだろ。ねぇ、サイダーもう一本買ってよ」
ツギは紺色の麻の開襟シャツの胸元をはためかせ、服の中に風を入れた。開いた襟元の白い首筋から汗がひとすじ流れていくのが見えた。
「飲んだら大人しく乗れよ」
小銭を渡すと、ツギは猫の妖怪のような顔をして、売店へと飛んでいった。
「俺だって、今更何だと思ってるよ」
ため息が出て、自然に頭が下がると緑陰に人の形の影が出来ているのが目に入った。
母親なんて身勝手な生き物だ。子供が男の子だからといって、男親に預けたまま別に家庭を作るなんて。
小さい頃の記憶でも、なんだか的はずれなことばかり言われて、それでも幼児ながらに男として母親に気を使っていたように思う。
母親がいなくて良かったと思うこともある。弟の生意気には頭を悩ませているが、母親の繰り返す「ママの何が不満なの、ママを困らせないでちょうだい!」よりはマシな気がする。
男三人の暮らしは気兼ねなく快適だ。それでもこうやって、気まぐれに呼ばれて会いに行ってしまうのは何故だろう。結局息子だからだろうか。
巡る思考に気分を沈ませていると、突然首筋が寒くなって変な声が出た。驚いて顔をあげると、隣に立つツギが心底楽しそうに笑っている。
「隙がありすぎだよ、オニイチャン」
「うるさい、貸せ」
イチは買ったばかりのサイダーをツギの手から奪いとり、勢いにまかせて半分ほどを一気に飲んだ。
取り返そうとムキになってかかってきたツギは左手で抑える。開けたての強い炭酸が胃へと流れていき、泡が弾けるたびに暑さと沈んだ気持ちが少しだけ引くような気がする。
「あっ、畜生。バス来やがった」
緩い坂道の上にバスの頭が見えた。イチはバスに気を取られた隙に、ツギにサイダーの瓶を取られてしまった。嬉しそうに小躍りする姿にはもう腹も立たない。
「ほら、行くぞ。早く行ってさっさと帰ってこよう。今夜は西瓜もあるってさ」
「え、本当?僕、西瓜大好きだ」
急に機嫌を良くしたツギは、ベンチの端に置き去りにしていた鞄を提げてから急いでサイダーを飲みきった。
波を失った白抜きの難破船は、今はたっぷりと帆に風を受けておだやかな日差しの中を進んでいる。
一方、イチとツギが待つ赤い路線バスは、全く止まってるくらいのスピードで、陽炎の中ゆっくりと坂道を下っているところだ。

815・親に会いにいこうの日
#小説 #親に会いにいこうの日 #親子 #双子 #イチとツギ

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