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8.29 焼き肉の日

ジュワァッと爽快な音とともに、もうもうと煙があがり、すぐ向かいにいる相手の顔も見えなくなった。曇る眼鏡のレンズも今は気にならない。
向かいに座る男はどんな顔をしているだろうか。いや、大抵は想像がつく。目の前のご馳走に、いつもに増して溶けた綿あめみたいな顔でふわふわの黒髪を揺らしているに違いない。
漬けダレが焼け焦げていく時の、甘くしょっぱい匂いに腹が鳴る。視線は網の上で身をよじるミノから離さない。
ホルモン系は、目を離した隙にすぐ焦げる。しかし、焼かなすぎてもいけない。腹を壊してしまう。うまい焼き加減で引きあげるには、かなり高度な技を要するだろう。ミノの表面の窪みにじわじわと透明な脂が溜まり、見ているだけで喉が鳴る。
「おい、そろそろ来るぞ。トングの用意はいいか」
煙が大分落ち着いたところでちらりと向かいの大型犬を見ると、予想に反する面白い顔面に一時唖然とした。
ふわふわの綿あめどころか、ミノの旨味をわずかも逃すまいと見開いた目は血走ってるように見えるし、いつの間にか近所の工務店謹製のお中元タオルを頭に巻いていて、それでもこめかみには汗が滲んでいるしで、あまりに真剣な姿にお前誰だよ状態になっていた。
正宗は私の指令を受けてなお網上の獲物から目を離さずに、トングを構えて頷いた。
「草ちゃんこそ、目を離したらダメだ。おれにはそっち側のフィールドは見えてないんだから」
いつもポワポワの喋り方が、今は固くやけに心強い。そんな事ならいつまでもうちに居候なんてしてないで、早く職を見つけて出て行ってほしい。
大学院で教授の手伝いに明け暮れる、質素倹約を旨とせざるを得ない私の生活を荒らしていないで、今みたいにポワポワを封印すれば顔だけは悪くないのだからどこか女のところにでも行って住まわせてもらえるのではないだろうか。それを世間ではヒモと呼ぶのだろうが、私にはヒモだろうがゴムだろうが関係ない。
そもそも正宗と私は最初からそれほど深い関係も深い友情もない。何もないのになぜこの男は私の金で肉を食わんとしているのか。その神経が信じがたいが、今はそれどころではない。ミノが絶妙な焼き加減に仕上がろうとしているではないか。
私は小皿を手に、トング係の正宗に号令をかけた。
「オーケー。よし、321でいくぞ。3、2、1っよしあげろ!」
素早く、かつ慎重な動作で正宗はミノを私の持つ小皿に移した。最後に溢れそうになった一雫の脂は、私が皿をスライドさせて受け止めた。私たちが出会ってから、これほどまでに息が合うことがあっただろうか。いや、ない。思わず反語になるほどの素晴らしいチームワークだった。
「完璧だな」
「ねぇ、食べていい?もう食べていい?おれ我慢出来ないよ」
「よし、始まりの合図だ」
正宗が今にも涎を垂らしそうなので、私はビールのジョッキを持ち上げて乾杯を促す。正宗は右手に箸を、左手に白飯のどんぶりを掲げた。
「ありがとう、乾杯っ」
そして、私の泡の消えかけたビールジョッキにどんぶりを盛大にぶつけると、正宗は熱々のミノを口に放り込んでそれを白飯で追いかけた。
「うわー、最高!」
「お前、ごはん粒飛んでるぞ」
私の苦言も聞こえないようで、正宗は首を傾げてとろけたような顔をしている。思わず喉が鳴り、猫舌の私もたまらずミノにかぶりつく。甘辛い脂と歯ごたえの良い身が口の中に広がる。火傷寸前の熱も手伝って少し涙が出そうだった。いつまでも噛んでいたい。この味のガムが欲しい。惜しみつつ飲み込み、ビールをあおる。目を閉じて、至福の時を噛みしめた。
「草ちゃん、黙っちゃってどうしたの?苦手な味だった?」
「いや。最高だよ」
至福のため息をつくと、正宗はとても嬉しそうに笑った。
「だよね!焼肉やさんなんておれ本当に久しぶりだけど、すごい感動してる」
あまりに嬉しそうに笑うので、私もつい調子に乗ってしまう。いや、正宗の笑顔なんかより、久方ぶりすぎる焼肉屋にテンションが上がり続けてしまっているのだ。
「おい、折角だ。カルビとハラミも頼もう」
一片のミノで何度も白飯を口に運んでいた正宗は、驚いてまたごはん粒を噴き出した。
「いいの?そんな、お肉なんて頼んじゃって大丈夫?」
「いいさ。だって、きょうは特別な日なんだろう」
きょう、昼に起きてきた正宗はかにぱんというもそもそした蟹型のパンを食べながら何かを言い淀んでいる様子だった。牛乳とかにぱんを交互に口に運びながらちらちらちらちら私を見てくる。
はじめは反応したら負けだと思い無視をしていたのだが、いつまでもちらちらちらちら見てくる。空気が読めない正宗がなにかの空気を読もうとしているのか、一体何故下手くそすぎる気を遣っているのが気になって「なんだ」と訊いてしまった。すると、正宗は犬耳がついていたら垂れているであろう表情で「きょうは特別な日なんだ。焼肉が食べたいって言ったら怒るかなって」と漏らした。
そんな金などある訳がないし、食べたかったら日雇いでもなんでもいいから稼いでこいという話だし、ばかばかしいのではっきり断った。それはもう気持ちよいくらいすっぱりとだ。にも関わらず、今こうして七輪を囲んで絶妙な焼き加減のミノに舌鼓を打っているのは、結局は私も焼肉が食べたかったからに違いない。一度焼肉と聞いたら、いつしか忘れていたその魅惑の単語が頭から離れられなくなってしまった。まぁ、誕生日くらい好きなものでも食わせてやるかと大義名分を得て自分の欲望に折り合いをつけたのである。
「草ちゃんって、普段お母さんみたいなのに、急に男前出すよね」
「お母さんって何だよ」
私の話など欲望で詰まった耳には入らないようで、正宗は幼児のように耳の横で真っ直ぐに腕を伸ばして店員にアピールすると、カルビとハラミを大声で追加注文した。

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「いやぁー、美味しかったねぇ。おれ今夜寝てるあいだにほっぺた落ちちゃうかも」
正宗は頬に手を当ててくるりと回った。アルコールは一滴も取っていないのに、まるで面倒な酔っ払いのようだ。
夜風に吹かれながら、ふたりでシャッターの閉まった商店街を歩く。正宗の影が私の足もとに伸びていたので、わざと踏んでやった。本体の方は気づきもせずに伸びなんかしている。やたら星の多い、静かな夜だ。
「予想より安くて助かった。ホルモンだけの予定だったけど、やっぱり肉は肉で違うな」
「なんか元気出るよね」
何気なく腕時計を見ると、23時40分を指していた。日付が変わる前には家に着けそうだ。ふと、思い立って服についた焼肉の匂いを嗅いでいる男の背中に、うっかり声をかけてしまった。
「誕生日おめでとう」
振り向いた正宗の驚いた顔を、オレンジ色の街灯が照らした。我にかえると急に恥ずかしくなったので、急いで目を逸らす。
「え?誕生日って、だれの?」
耳を疑う言葉に、私は光の速度で目線を戻した。正宗はふわふわの頭を傾げて不思議そうな顔をしている。
「何を言ってるんだ、お前のだろ」
「ん?おれ、誕生日きょうじゃないよ」
「だって、特別な日だって」
正宗は、あ!という口の形で固まった。
「そっか、あー、うん。誕生日だった。おれの生まれた国はね、誕生月だけじゃなく誕生日を大事にするんだ。だから、毎月29日は特別な日。だから毎月焼肉食べよう」
わざとらしく眉根を寄せ、口元を引き締めると、ぽかんとして立ち止まった私を置いてそそくさと大股で歩きだす。
「29日?は?もしかして、きょうの会計が安かったのって…」
全てに合点がいった私は、ついに小走りになった正宗を全速力で追いかけて、背中にドロップキックをかましてやった。この際自らの欲望の件は棚上げだ。
何でもない日に、とんだ散財をしてしまった。
我が家のエンゲル係数を正常に戻すためにもしばらくは肉抜きの生活を強いられるだろうが、悔やんでもミノも肉もビールも食べなかったことには出来ないし、一度払った金は返ってこない。
背中を押さえてうずくまる正宗を無視し、目頭を押さえて天を仰ぐと、どこからか聞こえる犬の遠吠えが長い商店街にこだました。

829・焼き肉の日

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