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9.13 世界法の日

秋の長雨がうっとうしい。朝家を出るときは久しぶりに薄い曇り空で、きょうは傘が無くても大丈夫だろうと判断した。天気予報の降水確率も四十パーセントだったのだから、傘を持たずに出社した人間は少なくないだろう。
出先の市役所を出ようとしたところで、雨が降ってきた。足止めをくらわせるような、嫌らしい降り出し方だった。
「最悪だな」
きょうは仕事もうまくいかずむしゃくしゃしていた。さらに、雨が降り出すと必ず頭が痛みだす。売店に戻って透明傘を買ってもいい。だが、早いことこの建物から出て家に帰ってしまいたかった。もたもたしていると、競合相手が嫌味な顔をして来るかもしれない。
その時、傘立てに刺さっている一本の紳士物の傘が目に入った。あたりはしんと静かで人の気配はない。
俺は、特になんの罪悪感もなくその一本を拝借して開くと、そのまま車へと急いだ。

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定時を待たずにアパートに帰る。会社に一本電話をして、庶務の女の子に接待が入ったから直帰すると伝えるだけで済む。唯一営業職で良かったと思えるところだ。
小さなガラステーブルの上に、食べ終わったカップ麺の空き容器と、コンビニで買ったサラミとチーズ、買い置きしておいた缶ビールの空き缶が乱雑に置かれている。飲み終えた缶の真ん中をへこませるのは、学生時代からの癖だ。
へこんだ缶が4本目をこえた頃、風呂に入ろうと立ち上がった。明日も仕事がある。仕事をして、家に帰って、カップ麺を食べてビールを飲む。風呂に入って寝て、ビールの飲み過ぎで途中で目が覚めて、便所に行き、苛々しながら浅い睡眠を繰り返す。そしてまた、仕事へ行く。
この人生のお楽しみポイントは一体どこにあるのだろう。もうこんな生活を四年は続けている。終わりは見えない。
立ち上がった足元がふらついて、少し頭痛がする。また雨が降ってきたのだろう。耳をすませばカーテンの向こうからさぁさぁと小豆をばら撒くような音が聞こえてきた。
引き出しから頭痛薬を出して、水道水で飲みくだす。台所の夜の磨りガラスに、顔色の悪い男の顔がぼんやりと映っている。
水道の水を止めると、突然不躾なチャイムの音が狭い部屋に響いた。
はっと息を飲む。思わず確認した壁かけ時計は、午後十一時すぎを指している。人を訪ねるには明らかにおかしい時間だ。
これは、酔っ払いだ、と感じた。下の階に住む若い男と女は、よく大声で喋りながら夜中に帰ってくることがある。その時は、ほとんど呂律が回っておらず、薄い壁を通して外から意味不明な言葉たちが部屋に雪崩れ込んできた。
ピンポーン、と焦れたように二度目のチャイムが鳴らされた。俺は、頭の痛みも増していたので、文句を言ってやろうと乱暴にドアをあけた。若い男でも若い女でも、馬鹿みたいに色の抜けた金髪に細い身体で、何かあっても勝てるだろうと痛む頭のどこかで計算した結果だ。
「うるせぇんだよ、お前の家はここじゃね」
言いかけて、慌ててドアを閉める。だが、閉めきる前に、雨で濡れたカバのような厚い革靴がそれを阻止した。
そこに立っていたのは、びしょ濡れの男だった。英国紳士のような、形の綺麗なコートに、光沢のあるスーツ。ボウタイを結んでシルクハットをかぶっている。ウェーブのかかった髪は長く肩までつきそうで、その先から雨水が滴り落ちていた。尋常な濡れ方ではない。今まさに池から這い出てきました、と言われても驚かぬほどに頭から爪先まですべてがびしゃびしゃに濡れているのだ。正直、ゾッとした。英国紳士が紫に冷えたくちびるを開く。
「返してもらえますかねぇ」
ねっとりと濃い、沼の底のような声だ。何のことか検討もつかない俺は、何度もドアノブを引いて扉を閉めようとしたが、英国紳士のカバ靴がそれを許さない。
「返してもらえないと、あなたを連れて行かなくてはいけなくてねぇ。それが私の国の法なんですよぅ」
びしょ濡れの黒革の手袋が、安アパートの扉の縁を軋ませながら力任せに押し入ろうとする。
「やめてくれよっ、警察、警察呼ぶぞ」
押し引きを繰り返すも、英国紳士の馬鹿力で少しずつ外への隙間が開いていく。そこから、男の半笑いの半顔が覗く。寒気がする間も無く、全力でドアノブを引っ張るうちに頭に血がのぼっていった。
「警察ですかぁ?法を犯してるのはあなたなのにぃ。このままあなたを裁きの場に連れていって、ドロドロに溶かしてしまってもいいのですよぅ」
怖い、怖い、怖い、怖い。何だか訳がわからないいちゃもんをつけられて、びしょ濡れの男に部屋に入られようとしている。頭の中は湯が湧きそうなほど熱く、しかし歯は噛み合わせがずれたまま震えで鳴っている。
「何なんだよ、何なんだよっ」
「ほら、あるじゃないですかぁ」
男はじわりと開き続ける隙間から部屋の中をじろじろ覗き込んで物色すると、靴箱の横に立てられた雨傘を見つけて凝視した。
そこで初めて、紳士物の雨傘のことに思い当たった。そうだ。昼間に市役所で、どこの誰のものとも分からぬ雨傘を持ち出した。
「傘、か、傘か。返すよ。返すから、一回扉から離れてくれ」
英国紳士はシルクハットが落ちそうなほどぐるりと首を傾げると、大人しく手を離した。
「うぉああぅあっ」
力の限りドアノブを引いて、思い切りドアを閉める。鍵を閉めても動悸が治まらず、頭を抱えながら狭いたたきに蹲る。
「帰ってくれよ。もう、何なんだよ」
ピンポーン、と催促のチャイムが鳴らされる。息を殺して無視をしても、何度も何度も繰り返しチャイムが鳴らされた。これほどまでに騒音を出しているのに、何故誰も他の部屋から出てこない。肩が壁に当たって、その振動で足元に傘が転がった。下ろしたてのような綺麗な傘が忌々しい。こんなことなら、雨に濡れたらよかった。売店まで戻ればよかった。
英国紳士は諦めず、段々とチャイムの連打が激しさを増していく。
「やめてくれ、やめてくれぇ」
極限まで速くチャイムを鳴らされたその後、扉の向こうで土砂降りの雨の音が響いた。それ以降、一切何の音も聞こえなくなったので、風呂にも入らず布団に潜り込んで震えていると、いつしか眠りについていた。

翌朝、恐る恐る扉を開けると、家の前の通路に巨大な水溜りができていた。気味の悪いことに、それはまるであの英国紳士一人分が水になったような量だった。
通勤途中で傘は駅のゴミ箱に捨てた。手放した事にせいせいして、しばらくは忘れていたのだが、悪夢はそこで終わらなかった。
もうあの雨傘は無いのに、雨が降るたびに誰かがアパートのチャイムを鳴らしに来るのだ。

9.13世界法の日

#小説 #世界法の日 #雨 #JAM365 #日めくりノベル

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