1.19 空気清浄機の日、のど自慢の日
ほとんど音のしない最新の空気清浄機に、差し入れを持って楽屋代わりの体育準備室に来た教頭先生は感心している。
私はとりあえずの人の字を手のひらに千回は書いて飲んでいる最中だったので、出来れば早めに客席に戻って欲しいと思った。
「いやー、しかしね。まさか音無先生が校内のど自慢大会に参加するなんて。音無先生、音有りじゃないですか」
はっはっは、と笑う声に緊張感が表面張力ギリギリの私は殺意を覚えた。
ずれてもいないメガネの位置を直しながらサイボーグのような笑みを返した。
「そうですね。私も、何故こんな流れになったのか…」
遡ること二週間前。
担任するクラスの水天宮君にけしかけられたことを思い出す。
その日の放課後、私は生徒の帰った教室で小テストの採点をしていた。
夕暮れが綺麗で、私の手元のテスト用紙を赤く染めていた。
バツばかりのテストに苦笑しながら、早く終わらせて職員室に戻らなくてはと焦りもあった。
懸命すぎて、水天宮君が教室に入ってきたことには気づかなかった。
「先生」
「う、ひゃっ!」
突然教壇の目の前からモグラ叩きのように現れた水天宮君に驚きすぎて、私は心臓が口から飛び出すかと思った。
「何その声。おもしろ」
いつもはクールな水天宮君が笑っている。彼は、クラスの中でもあまり真面目ではないグループの一人だ。
私は舐められてはいけないと、メガネの位置を直して一つ咳払いをした。
「水天宮君、どうしたの。下校時刻よ、帰りなさい」
水天宮君は笑い終わると、すっと真顔に戻った。
「音無先生ってさ、本当にセンセーって感じだよね」
ため息さえ聞こえてきそうな、そんな言い方だった。
だめだ。生徒のペースに流されてはいけない。私は頭で三秒数えて怒りを抑えた。
「そうね。先生だからね」
「今も、イライラしないようにしたよね」
図星を指されてぐっと息がつまる。
真面目ではないけれど、人の心を見透かしているようなところがあるのが苦手だ。
生徒にも色んなタイプがいるが、水天宮君のようなタイプは珍しく、対処法が未だに分からないでいる。
水天宮君は、そのまま喋りながら自分の席の方へ歩いて行く。
「ねえ、先生。先生はさ、一生懸命頑張るのっていいことだと思う?」
「そうね。とてもいいことよ」
「でもさ、俺先生が一生懸命頑張ってるの見たことない」
水天宮君は机の中を探ると、ゲーム機を出して鞄に入れた。
「水天宮君、学校にゲーム機は駄目。出しなさい」
彼は振り向いて舌を出した。
「センセーが一生懸命頑張ってるの見たら、俺も頑張れそうな気がする。しかも、いい子になれそう」
「そんなわけ」
「無いっていうの?わー、出た。本性」
しまった、と思った時にはもう遅かった。口から出てしまった言葉は取り消せない。
「二週間後の校内のど自慢大会出て優勝してよ。俺、頑張る先生が見たいな」
そう言って彼は携帯電話をちらつかせた。録音していたということだろうか。
私が青ざめているうちに「エントリーは俺が代わりにしておくね」と言って後ろ手を振り教室を出ていった。
夕暮れはいつのまにか夜に近づき、ひとりぼっちの教室にチャイムの音が響いた。
「ま、頑張ってくださいね音無先生。楽しみにしておりますよ」
十分ほど無駄話をして、教頭先生は何故か空気清浄機の加湿機能をマックスにして出ていった。
私の出番は最後だ。
そして、楽屋には今私ひとりぼっちである。
もう、腹をくくるしかない。
「大人の一生懸命、見せてやろうじゃない。舐めんなよ小僧」
青筋を立てながら私は自分を奮い立たせた。
ステージの方で歓声が上がり、ついに出番が回ってくる。
その歓声に引き込まれるように、私はステージに向かって歩き出した。