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10.28 速記記念日

朝一番で来たのに、上には上がいるもので、すでに百人近くの人が三列に並んでいるのを見て呆然とした。
五年に一度の自動車運転免許の更新は、仕事をしている僕は日曜日しか来られない。
更に、人一人分以上の仕事を求められるいわゆるブラック企業の側面を持つ僕の会社では、土日も出張なんてことも多い。
働いただけのお給料は貰えるのでブラックとは言い切れないのかもしれないが、僕も今時を気取って「お金よりも休みが欲しい」とか言いたいタイプなので、賃金で支払われるのは正直微妙だ。
大学の同級生の結婚式なんかもかぶってしまい、きょうを逃すと免許が取り消されてしまうと慌てて免許センターにやってきたのだが、聞いていた話の通りだった。

「あそこは戦場だ。いいか、大事な休日を有意義に過ごせるか無為に待ち時間で潰すかは、いかに早く手続きを済ませるかにかかっている。健闘を祈る」
初めての免許更新だと言うと、隣に住んでいる従兄弟がやけに真面目な顔をして前のめりで熱弁してくれた。
改めてハガキを見ると、日曜日の受付は九時半から十時十五分までと書いてある。
「じゃあ、まぁ九時過ぎに行けばさすがに大丈夫だろう」
行動の基本は五分前だ。
三十分もあればもしかしたら最初の一人かもしれないが、有意義な休日のために三十分を使うのは惜しくないなんて考えていた。

正直、甘かったのである。
日曜日の自動車免許の更新にこれほどまでに人が集まるとは。一体最初の一人は何時から並んでいるんだろう。
呆然と入り口に立っている僕の横を早足でハガキを手にした人々が抜けていくので、僕も我に返って列の後ろに並んだ。
デジタルの腕時計を見ると、まだ受付開始の二十分前だ。
三列のどのレーンが当たりかは分からなかったので、なんとなく短そうな一番奥の列に並ぶ。
受付が始まってしまえば、人捌きのうまい人の列が早く進むだろう。どうか当たりでありますようにと緊張しながら待った。
受付時間が来る頃には、自動ドアの向こう側まで長い列が伸びていた。
早く来て本当に良かった。僕は並ぶ列の進みの遅さに気を揉みながら、それでも早く来たからマシな方だと自分に言い聞かせた。
「次の方、どうぞ」
僕の番が来た。もったりした体型の人の良さそうなおばさんが受付をしていて、この人では遅くても仕方ないなと思った。ハズレの列だが、受付時間に来た人たちよりは二十分のハンデがある。
「では、十番以降の窓口に進んで書類を受け取ってください」
僕が受付をしている間に、他のレーンの人が何人か僕を抜かしていった。
「まだ、並ぶんですか?」
僕がうっかり質問をしてしまったので、もったりしたおばさんにこれからの流れを事細かに説明されてしまった。後ろの人の顔は怖くて見られず、僕はそそくさと次の列に向かった。

「三日以上、酒が抜けない状態でいたことがあるか…?」
質問票にはなんだか恐ろしい問いが書いてあって驚いた。急いでいたのでそんな内容ではなかったかもしれないが、とりあえずいいえにレ点をつける。
僕は急いでいた。ここだけは、自分の裁量で時間を短縮することが出来る。目覚めよ、僕の速記能力よ。
氏名、性別、生年月日を勢いをつけて記入していく。ぐんぐんとスピードがあがっていくのが分かる。
「よしっ、ここで巻き返す」
隣のおじさんは、細かい文字が読めないようで老眼鏡を取り出しているし、向かいのおばあさんは職員の人に書き方を教わっている。
このフロアのなかで一番に書き終えるという目標に燃えていた僕は、手が覚えている住所を無意識のうちに書き上げた。
「あっ!」
鼻息荒くしていた僕の血の気が引いていくのが分かった。
僕は、手が覚えていた実家の住所を書いてしまっていたのだ。まさかの記入し直しである。ひどいタイムロスだ。
僕は一度目の講習に間に合わず、しばし展望台で紙カップの桃サイダーを飲みながら無為な時間を過ごすことになったのだった。
速記には、冷静さと集中力が必要である。
抜け殻のような僕の目に、秋の紅葉に燃えた山々の連なりが眩しく見えた。

10.28 速記記念日
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