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10.7 ミステリー記念日

この世に解けない謎はない。解けないとすれば、それはまだ人類の発見した知の外枠にある法則で物事が動いているか、こうであるはずはないと人類が目を逸らして見ないようにしているかのどちらかである。
ただし、人間は生きている間に起きる膨大な法則のなかからひとつを選ぶことは出来ず(その都度選び続けている自覚は本人には無いのだから、これは出来ないという言い方でも齟齬はないだろう)そのため人は偶然という言葉で全てを片付けようとしたりする。
全ての謎を解くことは出来る。法則性を誤らなければ、全ての謎は一本の糸となる。

私は、哲学科研究室の古びてささくれのできた机の上で下ろしたてのツバメノートにここまで書くと、ボールペンを置いた。
暑い。暑すぎるのだ。もう十月だというのに、台風一過で気温はうなぎのぼりだ。
古い本だらけの狭い部屋は、埃のような、酸化したインクのような、独特な匂いが充満しているのだが、きょうは暑さのせいかそれが一段と濃く感じられる。
のろのろと立ち上がり、白いシャツの襟元を自力ではためかせながら窓を開ける。気温に比べて涼しい風が爽やかに吹きこんで、煮詰まった部屋の空気がきれいになった気がした。
三連休の中日のためか、研究室には私しかいない。のんびりとした午後である。四角く切り取られた五階の空は青く、綿のような雲は遥か高みを流れている。マグカップにいれたインスタントコーヒーを啜り、行儀悪く片腕を枕にして机に伏せた。
十月になってからというもの、私はすっかり腑抜けになってしまった。九月の終わりからやたらと苛々したり、肩が凝ったり頭痛がしたり、食欲が無くなったりしていたが、十月になるとぱったりと様々なやる気が失せてしまった。
研究課題のレポートもまとまらず、これでは思考の鬼の私の立場がない。
私は、大学を卒業してもなお大学院で教授の手伝いに明け暮れている。哲学を学ぼうと思った原因は近しい人の死であったが、いまでは過去未来を含む人間世界の不思議を追いかけることに夢中になっている時間が心地よい。そもそもが、私に就職は向いていないので、今尚モラトリアムと言われても仕方ないのだが、親には研究熱心な息子であるアピールをして学費だけはもらっている。
「そんなことはどうでもいいが…」
なぜ、こんなにも私のやる気は失われてしまったのだろうか。家に居候している大型犬のような男いわく、「焼肉食べたら治るんじゃない?」とのことだったが、「俺は単細胞生物か。お前が食いたいだけだろうが」とげんこつを喰らわせておいた。
外はびょうびょうと風が強まってきた。あまり風が強くなるとバスが遅れるかもしれない。
「また進まなかった…」
私は、筆記具をトートバッグに収めると、窓を閉めて研究室を出た。バス停に並ぶ私の背中は、冬眠前にもかかわらず餌を見つけられない熊のようにしょんぼりとうなだれていたことだろう。

「ただいま」
のっそりと玄関をくぐると、何やら鼻腔をくすぐるよい香りがした。
「正宗、何してる」
台所に向かうと、Tシャツにスウェットという真夏と変わらない格好の大男が包丁を握っていた。
「あっ、草ちゃんおかえり。早かったね。帰ってきた時に出来てるようにしようと思ったんだけど」
鍋には、黄金の出汁にひたるキャベツやもやしの姿が見えた。
正宗の手元を見ると、暴力的な量のニンニクがスライスされているところだ。
「いや、ニンニク多すぎだろ。なんだこの謎料理は…」
「モツ鍋だよ!」
ふわふわに伸びた黒髪に綿あめみたいな甘ったるい笑顔を浮かべた男は自信満々といった風にそう言い放った。
「モツ、鍋…?」
そして、くつくつと泡が浮いてきた鍋に、スライスしたニンニクを全てぶち込んだ。
「お前、それじゃニンニク鍋じゃないか」
止める手も間に合わず、鍋は一面ニンニクの海と化した。
「いいからいいから大丈夫だから着替えてゆっくりしてなって」
段々とまた頭が痛くなってきたので、私はそれ以上の追及を諦めて部屋へと戻った。

「…うまいな」
一眠りして起きた後に出てきた夕飯はモツ鍋と白飯だけだったが、この殺人的にニンニクたっぷりのモツ鍋が予想に反して美味だった。
「でしょ。俺本場で習ったことあるんだ」
正宗は嬉しそうに自分の器によそったモツ鍋を一口食べると、うんうんと頷いた。
「お前、福岡にいたことがあるのか?」
実際のところ、私は正宗のことは何も知らない。この大型犬は、急に小学校の同級生の馴染みとか言って転がり込んできて居座り続け今に至る。
だが、私は小学生時代の記憶が薄く、この大型犬のことを全く欠片もこれっぽっちも覚えていない。
これまでの生い立ちやここに至る経緯なんかを聞き出そうとするのだが、その度に明らかな嘘みたいなデタラメを言うので、もう訊くことすら面倒になった。
「おれ、前は屋台で博多ラーメン作ってたんだよ」
「はいはい、もういいわ。っていうか、小学校の同級生っていうのも嘘なんじゃないのか?」
正宗がきょとんとした顔で見てくるので気持ちが悪い。食卓に大男のきょとん顔は欲していない。
無視をして甘いキャベツをがしがし腹におさめていると、正宗は思いがけないことを言った。
「草太は覚えてないのかー、残念。草太はさ、十月になるといつもクラスメイトとケンカしたりしてたよね」
「え?」
「多分だけど、小さい頃から夏から秋への季節の変わり目が苦手だったんじゃないかなぁ。気圧の変化での偏頭痛は大人になってからみたいだけど」
そう言うと、湯気で少し曇った私の眼鏡越しの目をじっと見てきた。
「んん?」
首を捻らざるを得ない。逆再生で脳内の少ない小学生時代の記憶まで出来る限り速く戻ってみるが、何だかぼんやりとして判然としない。だが、確かに組の雰囲気が悪くなっていたのはいつも合唱祭やらの前、十月あたりだったような気もする。
「お前、まさか本当に俺の同級生なのか…?」
「草ちゃんは、とりあえず栄養をたくさん取って、考え事少しやめて自律神経とか整えるのがいいと思う」
正宗はそう言うと、俺の空になったお椀を奪ってモツ鍋のおかわりをよそった。私の質問は、完全に宙に消えて独り言となった。
「たくさん食べてお風呂入ってゆっくり寝れば、元気になるよ」
渡された椀の中にはこれでもかとニンニクのスライスが盛られている。見ているだけで胃が痛くなりそうだ。
「あっ、冷蔵庫にハーゲンダッツも買っておいたから寝る前に食べようね」
「いや、待て。それも全部俺の金だよな?誰がハーゲンダッツ買っていいなんて言ったよ莫迦」
正宗は聞こえないふりをして鍋からモツを拾っていたので、私のニンニクスライスのほとんどを移してやった。

風呂上がりに食べたハーゲンダッツは確かにすごく美味かった。そして、腹が満ちすぎて気づいたら眠っていて、次の日起きたら台風が遠くに行ったからかモツ鍋の効果か頭はすっきりしていた。
隣で腹を出していびきをかいている正宗という男は、一体何者なのだろうか。
この世に解けない謎はない、はずだが、私は生きているうちに真実にたどり着くことが出来るであろうか。
「おい、起きろ。研究室に行ってくる」
窓を開け縁側に出ると、朝の光のなかに秋の香りがした。

10.7 ミステリー記念日
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