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9.14 メンズバレンタインデー

大学の地下食堂で、私は美味くも不味くもないカレーを前にじっと観察を続けていた。熱すぎるルーと炊きたてのご飯は腹の減った若い体には嫌がらせでしかなく、私は二、三度息を吹きかけて冷ますのだが、必ず一口目で火傷を負う羽目になる。
若い、と言っても周りを囲む学生のほとんどが年下である。
大学院で哲学科教授の手伝いに明け暮れる私は、今年入学した者にとってはもうおじさんなのかもしれない。月日の流れは残酷で、もはや派手な学生達のグループの話など、宇宙人の会話かと思うほど理解が出来ない。単語すら分からぬのだから話にならない。
家に居ついてしまった大型犬のような男の言うことも、ある意味では彼らと別の星の次元で宇宙語なのだが、ここに居ると奴の星はそれでもまだ私の住む地球に多少なりとも近い気がする。
私が細かい傷のたくさん入ったプラカップで水を飲みながら口中を冷やしていると、お揃いのパスタランチをトレーに載せた三人の女子大生が近づいてきた。
彼女達は周りを見回すでもなく、私の前にある長テーブルに三角形に座った。
きょうのパスタランチは、葉っぱばかりのサラダと、レトルトをかけたミートソーススパゲティらしい。それにしても、三人もいて何故全員がパスタランチなのか。
私は、誰かが遊びで曲げたのであろう歪んだ銀色のスプーンで二口目のカレーをすくい、よくよく冷ましてから口に運んだ。やはり一口目であごの裏を火傷をしており、スパイスがしみて痛い。口の端についたルーをやたらてかりのある紙ナプキンで拭く。
私はここで、カレーが食べたくて食べている訳ではない。平日の毎昼をカレーと豚汁セットのテレコで頼んでいるのは、単にそれがこの食堂の最安値二大巨頭だからである。
目の前で朝の鳥のさえずりよろしくお喋りに花を咲かせている彼女達の方が、明らかに高い物を食べている現実に、放っておけ、所詮親の金だと捻くれたことを考えることで自分の食事情の虚しさを無いものとした。
三口目を食べるのをためらい、鳴る腹を押さえていると、聞こうとせずとも目の前の女子大生達の話が耳に入って来る。テレビに出ているアナウンサーほどの清楚な見た目を意図的に狙ってしているであろう一人が、光る石まみれの携帯電話を見ながら何かを騒ぎだした。
「ちょっと、ヤバイんだけどこれ気持ち悪くなーい?」
彼女は、ディスコに居そうな派手な友人と、メガネをかけてチェックのシャツの図書委員のような友人に向けて画面を見せた。仮に女子アナとディスコと図書委員としよう。
まず、ディスコが口から半分パスタ麺を垂らしながら身を乗り出した。少し間があった後で、噴き出した。
「何コレ、これ本当にやってたら気持ち悪いよね。ヤッバ」
図書委員は、口元をてかりの強いナプキンで拭いてから画面を覗いて、読みあげながら怪訝な顔をした。
「きょうは、めんずばれんたいんでー、です。いちゅうのじょせいに、すきなきもちと、うわっ!キモ!下着をおくりましょうだって!気持ちわる!」
図書委員は、眼鏡の奥で思い切り嫌な顔をした。
私は、ようやく冷めはじめたカレーをもそもそ腹に収めながら、図書委員の話を反芻し整理する。今のところ、気持ち悪いということまでしか理解が出来ていない。
その間にも、かしまし娘達はどんどん先に話を進めていく。
「やばくない?だって下着だよ?どうするよ、ゼミのオタ村とかからプレゼントとか言って下着貰ったら。死ねって感じじゃない?」
女子アナは、女子アナらしからぬ口の悪さである。それにディスコが追いかける。
「いやー、ゼミイチイケメンの村主君でも、これやられたら引くね。全力でオタ村レベルだね」
図書委員は、すでに興味を失ったようにサラダを食べながら応えた。
「これやって許されるのはお茶目な海外スターのおじ様だけね。あくまで冗談で。
ねぇ、思ったんだけど、紫の下着だったらほんとにヤバイよね。考えるだけで背筋凍ったわ」
図書委員、毒舌なり。
つまりは、きょうはメンズバレンタインデーという記念日かなにかで、バレンタインに女子が好きな男子にチョコを贈るみたいに、男子から好きな女子に下着を贈りましょうという日なのだろう。誰が考えたんだそんな行事。
バレンタインがお菓子メーカーの策略ならば、メンズバレンタインデーは下着メーカーの策略だろうか。
私は、目の前の三人娘が紫の下着を履いているところを想像しかけて頭を激しく振った。こんな、まだ十代かもしれぬ者でそんなことしたら犯罪者の気持ちになる。
「白でも気持ち悪いよね」
女子アナがわざとらしいカマトトぶりっ子の困った顔でそう言った。
かしまし娘達の話題はそのままゼミイチイケメンの村主くんに移っていったが、私はなんだか段々腹が立ってきていた。
ゼミで一番かっこいい村主くんがお前らに白だろうが紫だろうがピンクだろうが、下着を贈ることはないだろう。オタ村だって、お前らに恋をしているとは思えないし、何だったらベージュの下着でもありがたくもらってやれよ。何様のつもりだと火傷のあとを舌でなぞりながら悪態をついた。
冷えたカレーをぬるい水で流し込んだ私は、席を立って研究室に戻ることにした。美味しいコーヒーが飲みたい。カレーの後はコーヒーと相場が決まっている。喫茶店まで行って高いコーヒーを飲む空想をしながら、丁寧にインスタントのドリップを淹れよう。
隣を通るとき、女子大生らの顔を見てやろうと思ったが、目が合うと意味不明の照れた笑みを見せられたので怖くなってそそくさと逃げた。お前らの正体は知っているんだ。そんな笑みに騙されないぞ。息苦しいのは早歩きのせい。そう思ってトレーと器を返し、私の短い昼休みは幕を閉じた。

家に帰ると、きょうも日がな一日ごろごろしていたであろう正宗がにこにこと寄ってきた。私にプレゼントがあるという。
「福引きで当たったんだ。すごくない?ブランドものだから履き心地良いと思うよ。二枚あるから一枚ずつ分けよう。草太はどっちの色がいい?」
日が悪い。日が悪かったのだ。大男に見せられた二枚のパンツに、私は何とも言えぬ悲しみを覚えたのだった。

9.14メンズバレンタインデー
#小説 #メンズバレンタインデー #JAM365 #日めくりノベル #哲学と獣

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