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10.23 霜降

日本列島が黄色や紅に染まり始めた。
ニュースのお天気カレンダーによると、もう関東の先まで紅葉前線は進んでいるようだ。
源次郎は、新聞を読むためにかけていた眼鏡を外して眉間を揉んだ。
寒くなるとどうにも肩こりやら頭痛やらがひどくなってくる。
「おい、お前。そろそろ炬燵でも出した方がいいんじゃないのか」
台所の方から顔を出した妻の幸恵は、前夜にテレビの料理番組で観たスペアリブの何とかという料理を作るために朝からばたついていて額に汗をかいていた。
「あなた、炬燵なんてまだ早いでしょう。会社辞めてから運動不足で代謝が悪くなっているんじゃない?散歩でも行ってきなさいな」
そう言うと、また台所に引っ込んだ。
源次郎はむうと唸り、小太りで秋の寒さのなかでも汗をかいている幸恵の方が散歩に行った方がいいのではないかと思ったが、思っただけで口には出さなかった。
外に出ると、冷たい風が源次郎の薄手のセーターの穴から入り込んでくるようだった。
一度家のなかに戻ってハンチング帽をかぶり、コートを羽織った。

「さて、どこに行くかな」
近所に気安い友人もいなければ、平日の昼間に行く当てもない。
二十代からがむしゃらに働き、一筋に歩んできたサラリーマン人生を終えてみれば、残ったものなど何もなかった。
会社の売り上げを上げることを第一の喜びとして何十年も生きてきたものの、会社を辞めれば会社は残りの人生には介入してこない。
何とも一方的なものだが、誰もが歩んできた道なのだろうと自分を納得させる。
風は冷たいが、日差しは暑いくらいで、地上と天上とで秋と夏が闘っているようだ。
「公園にでも行くか」
先ほど見たお天気カレンダーの紅葉情報を思い出し、源次郎は近所の公園へと足を向けた。

平日の公園には幼児を連れた母親たちの姿と、あとは行き場のないと思われる爺婆たちの姿しか無かった。
小さなグラウンドを囲む広葉樹は、黄色や紅、橙とさまざまに色を変え、日当たりのよいところのものは早くも散り始めていた。
ちょうど足元にだけ日が当たるベンチに腰掛けると、木の座面がしっとりと濡れていた。
背中が濡れないようにと、グラウンドを挟んだ向かいでくつろぐ爺婆と同じように見られたくないという小さな抵抗から源次郎は無駄に背筋を伸ばして座った。
グラウンドの向こうにいる相手は源次郎の視線に気づいて笑顔で会釈をしてきたが、源次郎は気づかぬふりをしてむっつりと前を向いていた。
「隣いいですか」
何の気配も感じなかったのに急に声をかけられたので驚いた。
横を見上げれば、金髪の髪をきのこのように揃えた黒ずくめの服の男が横に立っていた。
辺りのベンチを見れば、いつの間にか母子の集団で埋まっている。
「…どうぞ」
源次郎はしぶしぶ男の要求に応えた。
男はにこりとするでもなく、あろうことか座るなり突然煙草に火をつけた。唖然とした源次郎を見て、男は煙草を挟んだ手を少し上げた。
「いります?」
「いらん。もうやめた」
源次郎は、仕事の時間を煙草休憩で潰さないために社屋から喫煙所が廃止された時点で煙草をやめていた。
外で煙草を吸っているのを見られてさぼっていると思われたくなかったからだ。
「へぇ、すごいですね。意思が堅いんだ」
男は煙草の吸いすぎなのか風邪気味なのか、ハスキーな声でそう言った。
源次郎は、意思が堅かった訳ではなく、会社の目を気にしていただけだと思ったが言わなかった。初対面の変な金髪男に話すことでもない。
黙って前を見つめていたが、男は構わずに話しかけてくる。
「きょうって何の日か分かりますか」
源次郎は、先ほどのお天気カレンダーで仕入れた情報をそのまま告げた。
「霜降だ」
「ソウコウ?どういう字ですか?」
「霜が降りると書いて霜降と読む。どうしてそんなことを訊く?」
男は最後の一口を美味そうに吸い込むと、雲ひとつない空に向かって紫煙を吐き出した。
「今日の夜女の子達と会うんですけど、初対面なんで何かネタないかなーと思って」
源次郎がげんなりする横で、男は携帯灰皿に吸い殻を仕舞った。そして男は立ち上がって伸びをした。ようやく解放されるようだ。
「霜降か。もう冬が来るんですね。寒いのは苦手だから、今のうちに秋を楽しんでおかなくちゃ」
「君らみたいなもんは、冬は冬でクリスマスやら忘年会やらなんだかんだ楽しむだろうが」
嫌味のつもりだったが、男は少し驚いた後でにっこりと笑った。
「まぁ、そうですね。楽しい今の積み重ねが楽しい一生を作ると思うんで」
意外にも礼儀正しく頭を下げて、黒ずくめの金髪きのこは跳ねるように去っていった。
なんだかどっと疲れた気がする。源次郎は温かい缶コーヒーを買うためにベンチを立った。
これから寒い冬が来る。源次郎は、楽しい今の積み重ねという言葉が漬物石のように胸につかえているのに気付いて口をへの字に曲げた。
「これからってことも、あるだろうが」
雲ひとつなかった空に、今は一筋の飛行機雲がすぅっと一本の線を引いている。日陰を出ると、まだ暑い日差しに源次郎は重いコートを脱いだ。

10.23 霜降
#小説 #霜降 #JAM365 #日めくりノベル

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