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1.3 瞳の日・駆け落ちの日

僕たちは疲れていた。
もうどこにも行けない気がして、それでも二人ともそんなことは口に出せない雰囲気だったので、ただ口を噤んで向かいあっていた。
口に出したら、今度こそ二度とあの町を出られなくなると思った。

目の前で煮える鍋を、黙って見つめる。
居酒屋の個室で、せっかくだからと壁に貼られた墨字のメニューから名物だというせり鍋を頼んだ。
この先のことも分からないし、旅の資金にも不安はあったが、温かいものでも食べないと心許なさに蝕まれて気が狂いそうだったのだ。
それは、向かいで湯気に頬を染める彼女も同じだろう。彼女は虚ろな瞳で鍋の中からはみ出ているせりの根を見ている。
「根っこまで食べられるんだね」
僕が呟くと彼女は、向かい側に僕がいることに初めて気がついたようにちょっと驚いた。そして、驚きがおさまるとかすかに頷いた。
「最初運ばれてきた時、悪戯かと思ってびっくりしちゃった。私たちが田舎者だから、ばかにしてるのかなって」
最後の方で、彼女は鼻をすすった。泣いてるのかな、と思ったけれど彼女は泣いていなかった。体が温まってきたのだろう。
僕は一度反射的に良かったと思い、すぐに良くはないなと思い直した。
「そんなことないよ。僕らがどこから来たかなんて皆分からない。考えすぎだよ」
向日葵みたいに明るくてのんびり屋の彼女がナイーブになっているのは、疲れているせいだけではない。
彼女は、せりの根を菜箸で鍋に戻しながら言った。
「私たち、大丈夫だよね」
大丈夫、と答える以外の選択肢は無いように思えた。
でも、大丈夫と言ったところで彼女が心から安心することは無いことも知っていた。
「美雲、暖かいところへ行こう。僕らは寒さに慣れすぎた。暖かいところで、新しい生活を始めよう」
彼女はもう一度鼻をすすると、出来上がったせり鍋を小さな椀に分けてくれた。
瓶ビール一本を二人で分けて飲み、黙ったまま初めてのせり鍋を最後の一滴まで食べきると、僕らはそっと店を出た。
「あ、雪」
彼女が空に伸ばした白い手のひらに、雪の欠片が落ちた。
僕はその雪の欠片を見て、忌々しいと思った。僕らはまだ北の寒さから逃げられずにいた。
「行こう」
僕は彼女の手を取って、人波をかきわけるように急ぎ足で駅前のバスプールに向かった。
行き先は、南ならばどこでもいい。
深夜バスに乗り込み、薄暗い車内で二人で身を寄せ合った。
バスが高速に乗って間も無く、車窓に先程までいた街の明かりがきらめくのが見えた。
深夜バスの中はあまりに静かで、空から音もなく降る雪は泡のようで、それはまるで海の底を見ているようだった。
彼女は目を閉じて、僕の肩に寄りかかった。
僕はその美しくて哀しい街の明かりが見えなくなるまで眺めてから目を閉じたが、いつまでも瞳の中で雪の欠片が降り続いている気がしてなかなか眠ることが出来なかった。
深夜バスは、僕らを運んで南を目指している。

1.3 瞳の日、駆け落ちの日
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