9.7 クリーナーの日・CMソングの日

買い物袋を開いて、中を見るなり私は薄い眉を寄せた。何だこれは。一度袋の口を閉じて、深呼吸をしてからもう一度覗く。なんどか我が目を疑ったが、何度見ても中身は変わらなかった。
白いビニール袋の中には、二十分前に頼んだものがまったく一つも入っていない。
私は、おつかいから帰るなりすかさず六畳間の畳にダイブして寝転がり始めた大型犬を怒鳴りつけた。
「おい、正宗。貴様人の金で何余計なものを買ってきてる。何一つとして正解が入っていないこの買い物袋は、ただのお前の買い物か。っていうかこれ何に使うつもりなんだ」
無造作に伸びて潤いのないふわふわの黒髪を、二つ折りにした煎餅座布団に擦り付けながら眠りの体勢に入っていた正宗は、呆けた顔で頭をあげた。
「えっ、草ちゃん何言ってるの?大人なんだからおれだって買い物くらい出来るよ」
私は、そいつにしては珍しく不服ですと顔に書いてあるその前に正座をすると、脇に置いた袋から中身を一つずつ取り出しては、奴の顔の真ん前に並べてやった。それでもきょとんとしている正宗に、子供に質問するように丁寧に聞いてやる私は大人だ。
「まず、これ。これは何でしょう」
「洗剤ですね」
指を指した先をきちんと確認し、正宗が神妙な表情で答える。神妙な顔をするぐらいなら起き上がって欲しいものだが、胸に座布団を抱えてうつ伏せに寝転んでいるので腹が立つ。
「俺が頼んだのはパイプクリーナーだ。誰が洗濯用洗剤を買ってこいと言った」
「えー、そうだった?クリーナーっていうから洗剤かと思ったよ」
「そもそもお前のその無駄に長いもじゃもじゃ頭のせいで風呂のパイプが詰まったんだろうが」
「おれのせいかー。でも、抜けやすさなら草太の猫っ毛の方が怪しいと思うけどなぁ、あ」
とりあえず、私の白く輝く腕を震わせてげんこつを喰らわせておく。
「そして次だ。これは何だろうか」
「あーそれは、ねえ。バナナです隊長」
畳に転がる二つの梨は、ご丁寧に白い網々ネットに包まれている。一目で育ちの良さが分かる高級そうな梨だった。
「そう。俺はバナナを買ってこいと言ったんだ。どうしてそれが、こんな、お嬢様育ちみたいな品のいい果物になってるんだ。お前はバナナと梨の見分けがつかないのか?それともお前の出身地ではこれをバナナと言うのか」
正宗は分が悪くなってきたのを感じたようで、段々と眉毛がハの字に近づいた。
「そういう、バナナも、あってもいいと、おもう」
二度目のげんこつを喰らわせた。正宗は大人しく殴られた箇所をさすっている。
「こんなバナナがあってたまるか。どう見ても梨だろうが。しかも高級品。バナナ何本分だよ。
そして次のこれ、これはもう意味がわからない。鳥モモ肉だって散々言ったのにお前はなんで豚バラ肉を買ってきてるんだよ、うちのエンゲル計数爆発させるつもりか」
正宗は我が意を得たり、と突然表情を輝かせて上体を前に乗り出した。
「それね、今日特売で鳥モモ肉より安かったんだ。グラム計算もしたし間違いないよ」
目の前の大型犬の、偉いでしょと尻尾をぶんぶんとちぎれるほどに振っている幻覚が見えた。
「それは、まぁ、いい仕事をしたと言えなくもない」
私だって、安いなら鶏ではなく豚が食べたい。ビタミンDをたくさん摂りたい。正直もう鳥モモ肉には飽きているのが現状だ。私はその点に関しては大人しく引き下がることにした。
すると、正宗はきりりと眉を寄せて自分がいかに考えを尽くしてお使いに挑んだかを語り始めた。
「その高級な梨っぽいバナナだってね、草太は果物が食べたいのだろう。だけど自分では旬のものを買う勇気などないだろうというころを汲んで、怒られる覚悟でそっちを選んだんだ。カップ麺とかバナナとか、そんなものばっかり食ってたら、体が脂肪と糖で大変なことになっちゃうよ。そして、その隣の漏斗。それはね、すごく安かったんだ。飲みかけのお酒とか戻すのにいいのかなって思って、あと、それとね」
私は壊れたラジオのようにまくし立てる正宗の脳天をとりあえず手刀で強めに叩いて強制終了させた。
「まだ訊いてないことを答えるな。じゃあこれは何だ」
だんだんと自分の声に含まれる棘が多くなっていく。こめかみのあたりも痛い気がする。
「明太子〜明太子〜たっぷり、明太子〜しょゆバタッ、明太子〜明太子たっぷり明太子が」
嬉々として歌い出したオンボロラジオを再度強めの手刀で止める。意味がわからない。早めに流したしょゆバタッは、多分醤油バターのことだろうが、だからといってあまりに展開のわからなさに私がおかしいのかと思うくらいである。
「大丈夫か、お前」
薄い煎餅座布団に沈んだ正宗を完全に引いた目で見てしまう。声をかけると、死人が生き返ったように勢いよく起き上がったので、つい少しだけ後ずさってしまった。
「あのCMソングが、スーパーで爆音で流れてたんだ。しかもエンドレスでだよ?草太は耐えられるっていうの?明太子の着ぐるみ着たでかい人形が目をくるくるさせながら手招きまでしてるんだ。しばらく売り場の前から動けなくて、気づいたらカゴに入ってたんだ」
そこまで言うと、何への敗北感からなのか、ガックリと肩を落とした。そして、初めてごめんねと呟いた。
私は床に並んだ明太子パスタソースのパッケージに書いてある明太子人形と目が合ってしまい、思わずすぐに目を逸らした。
「とりあえずだな、漏斗と洗濯用洗剤は返してこい。多分、食品は無理な気がする」
「えー、嫌だよ外暑いよ。もうここに無事に帰ってこられないかもしれない」
またしても畳にべったりと横たわった正宗の頭をわざとうっかり踏みつける。踏むたびに蛙の潰れるような音がして楽しい。
何度か踏みつけてから、袋に漏斗と洗濯用洗剤を入れて正宗のやたら広い背中に落とす。
「ぐえ。草ちゃんひどい」
私は訴えを無視して、卓袱台に向かい本を読むことにした。しばらく黙っていると、のそりと正宗が立ち上がって袋を掴む音が聞こえた。
ちらりと横目で確認した正宗が部屋を出ていこうとする背中が、この世の終わりほどに悲しそうだったので、今度こそうっかり思わず声をかけてしまった。慌てて目線を本に戻す。
「お前、お釣りあるだろう」
悲しい背中が、ゆっくり間を置いてからこくりと縦に揺れる。
「じゃあ、スパゲティも買ってこい。ソースだけじゃ食えないだろ」
悲しげな背中が突然ピンと伸び、上体がこちらを振り返った気配がしたが、私は本から目を離さなかった。
「行ってくるね」
目が合わないことに気づくと、ふにゃりと甘い声を残して、尻尾を振った大型犬は再度お使いに出かけた。
私は、長いため息を吐きながら畳に倒れこんだ。甘い。奴に甘すぎる気がする。なんていい奴なんだ、私。
「次いらんもの買ってきたら、今度こそ追い出す」
疲労感にゆっくり目を閉じたが、結局謎の明太子のCMソングが頭を回って全く昼寝どころではなくなってしまった。
「しょゆバタッ…」

9.7クリーナーの日、CMソングの日

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