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いつかがいつかじゃなくなった日

2023年3月12日。幕張メッセで3年越しに開催されたクリープハイプのワンマンライブ。

新型コロナウイルスが蔓延し、緊急事態宣言が出された頃には多くのライブが中止になった。初めて行くはずだったあのフェスも、この幕張メッセで開催されるはずだったクリープハイプの公演も。

二十九、三十のイントロと共にスクリーンには無人の街が映し出された。3年前の春だった。都会の喧騒とはかけ離れたその不気味な静寂の中には、この3年間の中にあった多くの出会いと別れが映って見えた。あの日に貰った「好きだよ」も、あの春に行くはずだったフェスの約束ももう何処かに埋もれてしまって、今ではその手のひらのあたたかさも声の温度もはっきりと思い出すことができない。

あの時果たせなかったあの約束は、あの時届かなかったあの想いはどこに行ってしまうんだろうとふと考えることがある。だけどどれだけ離れたって何度突き放されたって、本当に縁があるのなら、私たちがもしも速度の違うふたつの環なのだとしたら、一度すれ違ってしまっても何周か回った先でまた出会えるんじゃないかって、そう思っていた先で3年越しに出逢えたのがクリープハイプと、クリープハイプを愛する人たちだった。皆がこの3年間の中でたくさんの出会いと別れを繰り返してこうしてまた逢えたこと、そのすべてが軌跡で奇跡なのだと思った。運命は奇跡の軌跡のことだし、その軌跡も手作りなのだと。

果たせなかった約束、届かなかった想い、あの日に放たれた愛の言葉。それらは行き場を失くした魂として咲き、散ってゆく。それは少しだけ桜の散る様子と似ている気がする。「今ならまだやり直せるよ」が風に舞って、こうして3年越しに出逢い直すことができたこと。信じることは祈りだと思う。ただただひらすら祈ることしかできなかった3年前。あの時の祈りがこうして形になったこと。あの日の透明がやっと色付いたその瞬間、視界が歪んで光で溢れた。とてもうつくしい光だった。

当たり前の毎日、当たり前の日常。それらは何ひとつ当たり前じゃないということ。安定した日々の退屈こそが光だったのだということを、この3年間が教えてくれた、それを思い出させてくれたのが、3年越しのクリープハイプのライブだった。透明を信じ続けていてよかった、信じることをやめずにいてよかった。「きっといつか報われる」のそのいつでもないいつかを、その“いつか”という祈りを捨てずにいてよかった、その祈りの先であなたとまた出逢えてよかった。

「誰かがきっと見てるから」と誰でもない誰かが言った。私にとっての“誰か”はずっとクリープハイプでした。変わっていく毎日の中で唯一変わらず私の傍にあったのはクリープハイプの音楽でした。明日も早いし生活は続く。「その生活の中に僕らの音楽があったらいいです」と、そう言うあなたの口の動きは柔らかかった。

#だからそれはクリープハイプ

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