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正直でいること

今日はこの言葉から…。

私が言明していることと私が感じていることとの間に、重大な乖離があってはならない。その人が私に向かって率直に存在してくれるためには、私自身その人に向かって率直に、存在しなければならない。

「ケアの本質」ミルトン・メイヤロフ著

街中に紫陽花が色づき始めた。季節の移り変わりの早さにびっくりする。
いや、季節は正確な時を刻み進んでいる。驚くのは、自分の歩みのノロさなのかもしれない。

今朝、街で見かけたのは白い紫陽花だった。
白い紫陽花は珍しい。純白に近い白の花は鮮やかな若緑色に映えて美しかった。

紫陽花は土壌の性質により色を変えると言う。土の酸性が強いと青みがかった花色になりアルカリ性が強いと赤色を強く発色する。これは、花が持つアントシアニンの作用によるからだと言う。

では、白は?

白い紫陽花はもともとアントシアニンを持たず、どんな土壌でも白い花になるそうだ。

なるほど…。

どんな場所でも「白い花」を咲かせることができるアジサイ、なんて素敵。

しかし一方、元々持っているはずのアントシアニンを持たない紫陽花は、紫陽花の持つ強烈な個性を一つ、持たずにいることでもある。

白い花を見て思い出したことがある。

「白い自分」でいたいと思ったことがある。

素直に真っ直ぐに何ものにも染まらない白い自分。何とも乙女チックな思考回路だが、随分長い間、本気で思っていた。直美の「直」からも、自分の在り方として常に心の中にある大切にしている部分であった。

「白い花」のイメージと重なり、白は正直で、素直で、真っ直ぐな自分を思い起こさせた。

でも、そんな自分の固定概念が自分の魂に呪いをかけていたように思う。

「誰からもいい人と思われたい」
「誰ともいさかいを起こしたくない」
「誰からも素直だねって思われたい」

この強い呪いで私は自分を演じていた。のだと思う。
「白くありたい」のではなくて、「白くみられたかった」のだと思う。

自分の中の「違う」という違和感を大切に扱わないでいた。

目の前の人に対して、私はずっと「あなたと同じ気持ちでいるよ」と言い続けていた。私といることに対して居心地の悪さを感じないように、自分の言葉では否定せず、全てをポジティブ変換して相手に同調する言葉で返すという超高難度の技を繰り返していた。

それじゃ、本気で人と向き合うことはできない。

友人からの一言で、「はっ」と気付いたことがあった。

「正直でいること」を一番大切に思っていた自分が正直な言葉で話せていないことに気が付いた時は衝撃的でびっくりした。

まったく気が付かずに繰り出していた技なので、それが本心だと本気で思っていた。友人から指摘されたときも、何を言っているかわからなかった。私は本当にそう思っていると心の底から思っていた。

「なおみちゃん、それ本心で言ってる?」と、言われたときに、はたと考えた。
どういうこと?

「もっと、正直に言っていいんだよ。「お腹いっぱいだから食べない」って言えばいいじゃん。なんで、「食べない」って言えないの?」

私は目の前のお皿をぺろりとたいあげていく友人に気を使い、「もういらない」という本心を言えないでいたのだ。

こんなこと?って思うかもしれないが、私にとっては大きな出来事であった。

この技は本当に巧みで、いろいろな場面で使っていたように思う。

自分の意見ではないかのように、迂回して、時には他人を使って、自分ではなく他の原因によってそれが起こっているように伝えていたのだ。

言葉でこの感情を解説するのは難しいのだが、とにかく私は自分の中にある「否定」する言葉を全て消し去っていたのだ。

気づいたからと言って直ぐに変わるわけではないが、何度も同じことを繰り返しながら本当の自分の気持ちを素直に言葉にする練習をしているところだ。

50を過ぎた今やっと、自分の心に素直に向き合うことができるようになってきた。
何色でも大丈夫。赤も、青も、黄色も、緑も、白も、どんな色の自分でもいいんだ。

今の私が何色に映っても大丈夫、それが今の自分だから。そんな風に思えるようになった。

そして私はやっぱり、自分の言葉で自分を語り「素直で、正直で、真っ直ぐな人」でいたい。心の声をそのまま、愛を持って伝えられるような人でありたい。

最後に、この言葉を自分へのリマインドとして。

「正直であることがケアに全人格的な統一を与える」

「ケアの本質」ミルトン・メイヤロフ著

今日の短歌


白色の紫陽花の花真直ぐにアントシアニン消えてなくなり


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