青海三丁目 地先の肖像「分身を送り出す」
2020.08.20 | 森藤
夏に打ち合わせを終えた後、カフェで飲み物を頼むと、ビニールで包まれたお手拭きがついてきた。
封を開けたそれをしばし弄る。
箸の紙袋や紙ナプキン、そういったものを店で食事中についつい折ったり、ねじったり、小さく切り裂いたりしてしまう。私の癖の一つだ。
その日は細長いビニールを中程で縛って、先を切り裂いて、人型が出来上がっていた。
この子はこれからゴミ箱に入った後、私たちがまだ踏み入れられていない中央防波堤外側に旅に出るのか、と思った。
現代の東京の生活は目の前の"もの"のきた道、行先を可視できる範囲が狭い。
例えば自分で鶏肉を捌いて食べている人は少ないだろうし、パックに入ったものしか手に取ったことがない人がほとんどだろう。入れ物のパックもゴミ箱に入れ、収集車に任せた後は意識の外に出て行ってしまう。
生産過程、屠殺、廃棄、は徹底的に生活から隠され/切り離されている。
かくいう私もその分離に慣れきった人間である。
そんな東京に慣れてしまった私にとって、これは生活の裏返しとしての埋立地に意識をつなげる術(すべ)になり得るかもしれない。
その人型に顔を手持ちのペンで書き入れながら直感で感じていたことは、文字にするとそういうことだったのだと思う。
彼はその夜、私によって送り出された。
ヒトの行き着けない東京湾の地下深くへの旅へ、私の代わりの分身として。
それ以来、埋立地に行くと、彼がどこに眠ったか、考えるようになった。
途切れていた行き先が少しだけ、意識の中で繋がった。
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それからオンラインのワークショップで、この「分身を作る」という行為を取り入れている。
それぞれの手元にある不要品で分身を作ってもらい、それをゴミ箱に送り出すことで、分身が旅する埋立地を延長上に想像し、意識の周縁を広げる。
やっている行為自体はたわいない。
作品性、強度、そう言った従来的なアートに求められていた枠組みから外れたところの営みだ。
文化イベントとして掲げられて氾濫する”アート”という言葉には思うところがあるが、このような問題ないし物事や存在を可視化する術、また他者と事象を共有するための言葉以外の言語として"使われた"時、それはアート足り得るのではないか。
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