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映画『暗くなるまでには』-並行世界へのトリップ、憑在論、失われた未来を求めて-

 解答ではなく、己にしか立てられない問いを提起すること。与えられた解答や目的に向かって生きるのではなく、みずからの生をひとつの「謎」として生きること。何者にもならない者になること。類型的なアイデンティティから逃れ、こうもありえたというもうひとつの人生を、わが複数の人生を生きること。現実には足を踏み入れなかったバラ園に、追悼の中の足音が木霊(こだま)するように。

木澤佐登志,『失われた未来を求めて』(2022), 大和書房, P314

 山の中を歩く男女。二人は手と身体を寄せ合っては離れてを繰り返す。言葉を交わすことはなく、二人の背中には何か重い物があるように感じられる。場面は変わり、倉庫の中でうつ伏せで並べられた青年たち。重苦しい空気が蔓延る中にカメラマンの男性が訪れ、撮影を始める。周りを巡回する兵士達は彼の存在を気に留めようともしない。ショッキングな事件の情景とフィクションの混合。その断片的なショットを繰り返しながら、タマサート大学にて発生した「血の水曜日事件」の生存者である女性に映画監督の女性がインタビューを始め、映画は幕を開ける。

 中盤、映画監督の女性は森の中を散策する。彼女は不思議な色をしたキノコが土から生えているのを見つけ、心を惹かれて口に含む。そして、並行世界へのトリップが始まる...…

 タイ出身の新進気鋭女性映画監督であるアノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督の代表作『暗くなるまでには』(英題:By the Time It Gets Dark)は「血の水曜日事件」のインタビューを軸に、マッシュルームトリップによる並行世界との邂逅が描かれる。様々な世界線と時系列が入り交じり、シームレスに淡々と進行して作り上げられる複雑な物語は唯一無二の世界観を作り上げているが、観客である私達には一切の説明も無いまま映画は終わりを迎える。

(Electronic Eel Filmsより引用)

 木澤佐登志は『失われた未来を求めて』の中でマーク・フィッシャーの述べた「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態」(マーク・フィッシャー, 2018, p10)を意味する資本主義リアリズムに対抗する手段として、「失われた未来」に位置づけられる並行世界上に自らを位置づけることを提案した。そして並行世界上に自らを位置づけるための手段として、ドラッグによるトリップを。

 『暗くなるまでには』にはマジックマッシュルーム及び平行世界のイメージが頻出する。複雑な構成故一見すれば乱雑なイメージの羅列の様にも見える映画の構成は、実は木澤佐登志が述べた「失われた未来」を求める為の手段を体現した映画であったのではないか?

1.「血の水曜日事件」、失われた未来

 1976年10月6日、タイのタマサート大学にて体制の民主化を要求した学生達に向かって軍隊と右派集団が大学内部に侵入、殺戮が繰り広げられた。それによりタイの民主化運動は決定的に崩壊。連続して発生した軍部クーデターにより厳格な強権体制が敷かれることとなる。
「血の水曜日事件」後、現場から逃げ出して生存することができた学生達は田舎や森の中に身を潜め、政府や軍隊に見つからないよう隠居生活を送ることとなった。そしてそれは『暗くなるまでには』の冒頭とラストに提示される、二人の男女が森の中を歩いている情景と重なって見えてくる。劇中では男女二人の背景や目的に関して一切語られないが、しかし終盤、インタビューを受けている生存者の女性と森の中を歩く女性の姿がジャンプカットによりフラッシュバックのように重なる。あの瞬間、紛れもなくその異なる二つの場面には繋がりが見い出せる。

(Electronic Eel Filmsより引用)

 失われた未来。学生達の民主化運動が成功した未来。学生達の要求が呑み込まれていた未来。圧倒的な暴力を前に、それらの夢は「失われた未来」としてノスタルジーの産物と化した。チリのアジェンデ大統領が目指した社会主義国がアメリカによる圧倒的な暴力により跡形もなく消え失せたように。
 だとすれば私達は何をすべきなのか?圧倒的な暴力により失われた〈未来〉に、私達ができる術はあるのか?

2.並行世界上の私達、学生達への追悼。

 映画監督の女性がマジックマッシュルームを口に含むと、車内視点で夜間の道路を走る映像が挟まり、映画俳優の男の話に辿り着く。彼はタイで活躍する有名な俳優らしく、ミュージシャンとしても活躍する、まさに一世を風靡する俳優である。
 映像は彼の人物説明に専念するかのように彼を中心に追い続ける。しかし彼がプールに入った途端、映像は彼から外れ、別室で掃除を行う掃除婦の姿を追い始める。
 その掃除婦の姿は冒頭に登場した男女の一人と容姿が重なって見える。彼女はある時は掃除婦、ある時は船内レストランのウェイター、ある時は仏道修行を行う僧侶として、様々な〈未来〉が提示される。日常に即した彼女の人生。それはまるで「失われた未来」としての彼女の人生のように、観察するようにカメラは彼女の姿を捉え続ける。
 彼女は船内から夜のバンコク市内を見つめる。カメラは彼女の視線と同期し、バンコク市内をトラッキングショットで映し出す。船内から見えるその光景は、分け隔たれた土地を映しているかのようでもある。その土地への憧れのような視線を、彼女は確かに向けていた。

 一般に「現実」と呼ばれるものは、個々の人間の現実をも含めて、決して固定したものではなく、むしろ多様である。その存在はただ1つに限定されるものではなく、その時々の自我意識と結びついた複数の現実が存在する。

アルバート・ホッフマン, 『LSD-幻想世界への旅』(1984), 新曜社, p19-20

 映画監督の女性はマジックマッシュルームを口に含んだことにより、並行世界上に位置する「失われた未来」を垣間見た。複数存在する現実の一つから、自我から脱却し、もう一つの世界と一体化する。学生達の抗議が成功していた世界を。少女の失われた〈未来〉を生きていた世界を。

 また、劇中では序盤のインタビュー場面を反復するかのように、再度同じ建物内で同じ場面が再現される。しかしそれを演じる役者は映画監督の女性をはじめ全員が異なっており、構図も対称性を意識した構図となっている。

(予告動画より引用)

 本作における唯一の並行世界を現す場面である。異なる人が同じ行動を反復する場面を挿入することにより、この世界が並行世界に位置づけられている____そして並行世界を垣間見るトリップの主体が映画監督自身である___ことを体現する役割を果たした

『暗くなるまでには』は一貫して「失われた未来」を想像し続けることを描いた。圧倒的な暴力により失われた〈未来〉を想像すること。映像としてその〈未来〉を映し出すこと。それは強権体制が支配する世界での抵抗運動となり得ると同時に、抵抗運動により亡くなった学生達への追悼ともなる。
 しかし、映画は唐突で暴力的な形で終わりを迎える。クラブミュージックに合わせて踊る女性。彼女を映した映像には突如ノイズが走り、映像はバグを起こし、再生は止まる。ノイズによる破壊の先には空がピンク色と化した幻想的な色彩で冒頭の森の風景が提示され、徐々に夢から覚めるように、色彩は元に戻っていく。こうして私達は夢から、〈未来〉から目覚める。

3.映画に取り憑いた幽霊

 「実際には起こっていない出来事、実現するのに失敗し、亡霊的なままに留まっている未来によって取り憑かれているという、その潜在的なものの働き(エージェンシー)」(木澤,p71)という概念に対して、ジャック・デリダは「憑在論」と名付けた。
 前述したように、『暗くなるまでには』は「血の水曜日事件」の失敗を期に失われた〈未来〉を描いた映画であった。と同時に、亡くなった学生達を追悼する映画でもあった。
 実際の事件を題材にした映画には幽霊が憑いている。例えばその事件を再現することで...…もしくは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のように事件そのものを無効化することで、映画は幽霊を祓おうと試みる。が、事件を無効化した先に待っているのは、メランコリーとしての〈幽霊〉の増加。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』はシャロン・テートがマンソン・ファミリーに殺されなかった世界線を提示することにより、逆説的に「失われた未来」の不在性を強烈に実感させるのみに留まった。

 唐突だが、フロイトは人間が死に直面した際の二種類の反応として、「喪」と「メランコリー」を挙げた。「喪」は「愛された人物や、そうした人物の位置へと置き移された祖国、自由、理想などの抽象物を喪失したことに対する反応」(タカハシ,p67)であり、「メランコリー」は「深い苦痛に満ちた不機嫌と外的世界への関心の撤去とによって、愛情能力の喪失によって、および何事の実行を妨げる制止と自尊感情の引き下げ的によって、特徴付けられる」(フロイト, p274)とそれぞれ定義されている。
「喪」は一時的な悲しみであるのに対し、「メランコリー」は喪失感が「強迫的に反復」(タカハシ, p67)される性質を持っている。それならば「失われた未来」を求め続ける〈幽霊〉は「メランコリー」状態であるとも考えることができる。では、〈幽霊〉は何をするべきか?

『暗くなるまでには』はその問いに解答の一つを提示するかもしれない。死者を弔うこと。死者を記憶に残すこと。「失われた未来」を求め続けること。「喪」のように忘却する訳でもなく、「メランコリー」のように自暴自棄になる訳でもなく。平行世界に自分を位置づけ、死者を弔う。『暗くなるまでには』はその一連のプロセスを体現した映画であるように私は感じた。

私たちは資本主義リアリズムというバッドトリップを生きている。この悪夢は、いつか終わるし、終わらせなければならない。〈未来〉はそれでも長く続くのだから。

木澤佐登志『失われた未来を求めて』(2022),大和書房,p307

終わりに


 このように『暗くなるまでには』という映画について木澤佐登志が用いた「失われた未来」と絡めて批評を行った。難解で複雑な構成のため、私も何回か見返すことでなんとか全貌の一部分は見えてきたような感じがしたものの、まだ全貌は掴めていない。もし本作を鑑賞した人がこのnoteを読み、解釈のひとつとして自分の考えを深めるきっかけとなったのなら幸いである。

 また、私は「失われた未来」をキーワードに本作を語ってきたものの、それだけでは並行世界における男の役割と死、及び彼が登場する劇中劇とメタフィクションの多重構成の意図を一切取り逃してしまっている。そもそも「失われた未来」すら前提として不適切かもしれない。
 とは言え、私は一つのキーワードを用いて難解な本作を読み解こうと試みた。もし貴方が異なる考え、異なるキーワードを持っているのだったら、ぜひ文字に起こしてほしい。貴方の思考を、私は待ってます。

出典・参考文献

・木澤佐登志,『失われた未来を求めて』(2022),大和書房

・猪狩章,『タイ「血の水曜日事件」余波』(2010),日本記者クラブ
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22416

・アダム・タカハシ,『神の存在は証明できるのか?ー野生と野蛮の実在論ー』(現代思想 二〇二四年一月号収録),(2024),青土社

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