仏教的「萌え」考察


 「萌え」とは何か。いわゆるオタク文化の中から生じた、誠に複雑怪奇な概念である。しかし、特に何の疑問もなく用いている概念でもある。むしろ、最近はあまり声高に言及されることも少ないように思われ、「エモい」「尊い」というような新語に取って代わられた感すらある。

 さりながら「萌え」とは何か。このようなことを考えるきっかけをくださったのはうえぽんさん(@s_uepon)である。事の始まりは、うえぽんさんとnowさん(@nowhereman134)によるいつ終わるとも知れぬ果てしない対話を追う中で、「感情移入」の問題に遭遇したことである(註:現在nowさんとは相互ブロック状態のため、最早この議論の終わりを見届けることはできなくなったが、ある意味解放されたようで少し嬉しい)。

 ここから、両者の議論とは完全に別枠で、私の中に様々な疑問が生じた。とりわけ奇妙に感じたのは、自身の中に漠然とあった「感情移入」という概念が、現実のそれと齟齬をきたしているらしいことが分かったからである。

1、「認識」の問題~「共感」「自己投影」「感情移入」~

 一ヶ月ほど前になるが、その時の私のツイートは以下の通り。

 すなわち、「共感」「自己投影」「感情移入」の混同である。私はこれらのものを漠然と一体化して理解していたように思う。しかしながら、うえぽんさんからある記事を紹介していただいた。

 以下のようなものである。ご一読いただきたい。

99パーセントの人が知らない感情移入の本当の力

 仏教系大学の相愛大学で客員教授を勤めておられる名越康文氏の文章だけあって仏教に言及するところもあり、個人的に興味深い。しかし、もっとも驚いたのが下記の文である。

>人の話を、本当の意味で「聞く」ためには、私たちは自己投影をやめ、感情移入(異質なものへの共感)の段階に進むことが必要です。

 すなわち、「自己投影」と「感情移入」とは異なる概念ということである。この点は、うえぽんさんが作成された図があるので是非とも参考にしたい。

 これを見るに、「自己投影」とは「感情移入」に至るプロセスの初期ないし中途段階にある概念ということになる。名越氏の記事における説明とも一致している。換言すれば、「自己投影」の段階では自己と対象の関係性は未だ曖昧で不明瞭なものであるが、「感情移入」に至って一種の一体化を果たす、ということではないか。

 こんなことを考え出すと、森羅万象に通ずるGoogle先生の力を借りて、もっと色々知りたい、と思うようになった。そして「感情移入」「自己投影」「共感」などと検索してみると、真野てん氏による興味深いnoteにたどり着いた。以下がそれである。

【Web小説ラボ】共感と感情移入と自己投影の解説

 少し長いが、面白いので是非ともお目通しいただきたい。内容を要約すれば以下の通り。

共感…意思疎通可能な対象との間に生じる概念
感情移入…意思疎通の可不可を問わない対象との間に生じる概念
自己投影…共感や感情移入のトリガー

 面白いものである。これまで上記の三概念を漠然と同一視していた私にとって、まさに青天の霹靂であった。何よりも興味深いのが、これらの概念がすべて「心のはたらき」であるという点である。通常、ここからは心理学等の出番なのであろうが、「心のはたらき」を数千年の間研鑚し続けてきた巨大な学術体系がある。仏教である。

2、「情念」の問題~「萌え」と十二支縁起~

 そこで以下では、こうした「心のはたらき」の中でも、特に私自身の人生の中で重要な概念として扱われてきたであろう「萌え」というものについて、仏教的な考察を進めていく。なんで急に「萌え」なんだよ!ということであるが、これもまたうえぽんさんによる示唆があった。次のようなものである。

 これらの意見に触れた時、私の頭に何か迸るものがあった。要するに「ああ~っ、それ、わっかるぅ~!」というやつである。最早言うまでもないのだが私はいわゆる「オタク」である。こういう言葉でひとくくりにされることについては甚だ納得いかないが、説明するのに便利なのでとりあえず用いる。

 さて、「萌え」である。これが「心のはたらき」であることは論を俟たないのであるが、しからば詳細に説明せよと問われると答えに窮する。しかし、うえぽんさんが言われるごとく、「萌え」とは基本的に「好意」の表出であると考えて差しつかえはないように思われる。しかるに、この「好意」という概念を仏教的に表現するとどのようになるであろうか。それは恐らく「煩悩」であろう。「煩悩」と耳にした時、一般的な日本人はどのようなことに思いを致すであろうか。大晦日、除夜の鐘によって滅される108の煩悩か。あるいは、漠然とした性的な欲望であろうか。

 そもそも「煩悩」とはサンスクリット語「クレーシャ」の意訳であり、「惑」とも意訳する。身心を煩わせ、悩ませる精神作用の総称であり、別段性的欲望のみを指す概念ではない。衆生は煩悩によって様々な業を起こし、苦報を受けて迷界を流転する。そのため、煩悩を滅したさとりの境地にいたることこそが、仏教における究極的な実践目的とされるのである。

 この、「業」すなわち「行い」によって「苦」を受けるというプロセス。より詳細に説明すると、十二支縁起(十二因縁)という因果関係が説かれる。ネット情報で恐縮ながら分かりやすい図解を見つけたので以下に示しておく。

①無明→②行→③識→④名色→⑤六処→⑥触→⑦受→⑧愛→⑨取→⑩有→⑪生→⑫老死

という十二の連鎖により、我々は苦果を受ける。よって、①無明を断つことで、以降の苦に至るプロセスが順次断絶することになるため、これを断つのが仏道修行の最終目的となる。すなわち「苦」の根本原因が「無明」ということになる。「無明」とは因果の道理に暗いこと、いうなれば「ありのままに世を見通す目」を持たぬことを指す。これをもっとざっくりと言うならば以下のようになる。

【1】①~⑦…認識に関する考察
【2】⑧~⑫…情念に関する考察

 「萌え」とは正しくこの【2】、特に⑧愛に該当する概念ではないかと思われる。

3、「萌え」と人間の証明

 すなわち、我々が知覚・感受の対象に欲望(⑧)をもち(註:後述するが、仏教でいう「愛」とはキリスト教におけるそれとは異なり、「苦」を生じさせる原因というネガティブな意味合いで用いられる)、それを自分のものとして取り込み(⑨)、そのような行為や生活によって誤った生存をつづける(⑩)ために、あらゆる苦しみ(⑪・⑫)を受ける、という流れである。

 これを生じさせるのが「認識」であり、意識(③) が感覚器官(⑤)を介して事物(④)と接触(⑥)する。その接触によって感受あるいは知覚(⑦) が生じる。このような認識は必然的に過去の認識が残した印象や習慣性 (②)を前提にしており、さらに、その印象や習慣性はわれわれの基本的な無知(①)にもとづいている。

 こうまで仰々しく書いてしまうと何が何だか分からなくなるが、この際上記の内容は話半分に置いておくとして、要するに「認識」により「情念(萌え)」が生じる、というプロセスを提示したいというわけである。

 ここで強調したいのは、この論理で考える限り「萌え」=「苦の原因」となる点である。これは俄には首肯しがたい。我々が「萌え」を感じる時、そこには「好意」すなわちポジティブな感情がある、と認識しているはずだからである。しかし、果たしてそうか。なにかを愛するというのは誠に素晴らしいことである。しかし、かたちあるもの必ず無に帰するは世の習いであるからして、その「愛」の先には必然的「別れ」が待つ。仏教において「愛」とは「渇愛」を意味し、【2】の最初に位置している。身体的にも精神的にも、この「愛」によって我々は等しく「苦」を受ける。愛するものとの別れという苦しみ。愛するものを手に入れられないという苦しみ。そして我々がもっとも愛するもの、すなわち「自己」に対してもこれは同様である。等しく訪れる「死」という苦しみから、我々は逃れる術を持たない。

 「萌え」とは「愛」である。感受・知覚せしものに対する尽き果てることのない愛着・欲望のことである。それは必ず失われるものであるが、「萌え」という激しい情動の発露に遭遇した時、かくのごとき必然的帰結を意識することは容易ならざることである。そこからは無数の「業」が生じ、二次創作、批評、新たな一次創作物等、無数の「果」が生じ、それらがまた「因」となって世に縁が結ばれていく。

 結局のところ、「萌え」とはこうした巨視的な因果の道理に組み込まれてゆくものなのであろう。それ故に、仏教的思索において「萌え」を肯定的に理解することは困難である。しかし、それで良いのではないか。仏教とは成仏、すなわちさとりの境地に至り、「ありのまま」を見通す目を獲得せんとする出世間道である。さりながら、通常我々はそれを目指さない。世の理を解し、それを十全に納得せんとする営みを、我々は好まない。人間とは情動の生物である。二次元世界に展開された情報に対して「萌え」すなわち「愛」を感ずる。これほどに人間が人間であることの証左を示す現象もないのではないか。「萌え」とは人間の証明である。

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