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ワニ背渡りの白ウサギはその手に秘薬

風神雷神図の鬼の由来

風神雷神図の「雷神」様は、鬼か?
風神は風を司り、雷神は雷を司る神。 特に風神は古代インドでは生命あるものすべてに福徳を授ける神ということから子孫繁栄を与える神として解釈されてきた。 本作品で宗達は、金箔で表現した空間「無限の奥行」の上に、水墨の特殊技法を用い、見事なまでの「雲」を描いた。

6月15日以来のブランクを経て、「鬼」伝説に戻ります。やはり、今どきの日本史は、退屈極まりない、ということでPVも下降したので、海外ニュースなど散らしましたが、その本質はやっぱり歴史にあるし、それを理解することが、自分を知ることなんでしょう。

それで謎々、「因幡の白兎」伝説と鬼駆逐の「桃太郎」のどこかに接点がないものかと、資料を漁りました。

因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)神話

出雲大社にある因幡の素兎像

隠岐国から因幡国へ渡りたくて仕方のない兎がいました。
兎は思いつきます。

「そうだワニ(鮫)の背中を渡って行こう!」
そこでワニたちに「兎とワニでは、どっちが多いのかなぁ?」と聞きます。 それを聞いたワニたちは「そりゃぁ我々、ワニが多いだろう」と答えます。
「じゃぁ僕が数を数えるから、因幡国まで一列で並んでよ」と兎。 海に出来たワニの道を、ワニの数を数えながらピョンピョンと跳ねて行きます。

でも、因幡国に渡りきる際に「しめしめ、これは上手く騙せた」と言ったのが、ワニに聞こえてしまい、怒ったワニたちに皮を剥がされてしまうのです。
そこを通りかかった大国主の兄弟たち、その兎を見てこう言います。

「これはこれは可愛そうに、海水で体を洗い、風に当たっておれば治る」と。

もちろんこんな治療では、キズが治る訳もなくどんどん痛くなるばかりです。 その後、そこを通りかかったのが大国主神(オオクニヌシノカミ) です。
「真水で体を洗い、蒲の穂綿に包まれば治る」
と教えてやります。言われた通りにした兎は、キズも治りもとの兎の姿になりました。 ここまでが神話「因幡の素兎」です。

実はこの話は、オオクニヌシノカミの兄弟神たちが因幡の美しい姫神「八上比売命(ヤガミヒメノミコト)」に求婚するために因幡国を訪れた際のお話。 オオクニヌシノカミは兄弟神たちの荷物持ちとして同行させられていたのです。 オオクニヌシノカミに助けられた兎はこう告げます。
「ヤガミヒメノミコト様は、心優しい貴方様をお選びになるでしょう」

兎のお告げ通りにヤガミヒメノミコトとオオクニヌシノカミは恋に落ち結ばれます。 が、この後にオオクニヌシノカミには厳しい試練が、ヤガミヒメノミコトには悲しい現実が待ち受けているのです…
ところで… 「白兎」じゃなくて「素兎」なの?と思った人もいるはず!

この神話に登場するウサギは野うさぎであったため、「素兎」という字が当てられています。実は白うさぎではなく茶色のかわいいうさぎだったのです。一般的に絵本の挿絵などは白が殆どですよね?! どちらにしても、さめとは違ってかわいいうさぎだったことには違いない。

根の国神話(ねのくにしんわ)出雲神話 

葦原中国の平定
国譲り神話
日本列島の支配を正当化?

国譲り神話は、天の国である高天原が、地上の国すなわち日本列島の支配権をオオクニヌシから受け継ぐという神話です。『古事記』『日本書記』などにみられますが、特に記・紀の中でこの神話が果たす役割はとても大きく、天皇家の日本列島支配の正当性を伝えています。この神話がないと、天孫降臨神話につながらず、神武東征に始まる天皇支配の正当性は説得力に欠けるものになります。

高天原の使者が次々にやって来た!

『古事記』をもとにして国譲り神話をみていくと、まず高天原からアメノホヒが使者として派遣されます。しかし、アメノホヒはオオクニヌシに取り込まれて3年経っても復命しませんでした。

そこでアメノワカヒコが弓と矢を授けられて地上へ降りますが、やはり8年経っても復命しませんでした。そこで、様子を見るため、鳴女(ナナキメ)と呼ばれる雉を遣わしましたが、アメノワカヒコに射殺され、その矢は雉を抜いて高天原のアマテラス・タカミムスヒのところまで届きました。タカミムスヒがその矢を投げ返すとアメノカワヒコの胸に刺さり、死んでしまいました。

その後、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣されて、伊耶佐(いざさ)の小浜(稲佐浜)に降りました。タケミカヅチは十拳剣(とつかのつるぎ)を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫りました。オオクニヌシは「年老いた自分の一存では決められません」と、わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。

出雲大社はこうして造られた

コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子どもであるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で追い詰められてついに国譲りに同意しました。 二人の子どもが同意したのを知り、オオクニヌシもついに国譲りを受け入れ、「その代わりに、私の神殿を皇孫が天つ日継ぎを受け、統治する立派な宮殿と同じくらい立派なものにしてください」と望みます。願いはかなえられ、多芸志の小浜に大きな神殿が造られました。これが出雲大社の起源です。そしてオオクニヌシは、そこに鎮座してコトシロヌシにやはり自分の子である百八十神を統率させました。

  <第三章>国譲りを詳しく読む

島根観光ナビ~抜粋

宗像地方の確保 對馬 統一 

 朝鮮半島の先進技術を恒常的に確保するには、その経路を確実なものとしなければならない。壱岐→対馬→朝鮮半島の経路となるが、出雲国と壱岐国の間がかなり離れている。その途中に中継地が欠かせない。その中継地として考えられるのが宗像である。
 北部九州では後半期になると銅剣は使われなくなり、とくに中広形や広形の銅矛・銅戈は、武器形祭器となって、多くが埋納祭祀に使われる。埋納祭祀は、近年では村の中で完結し首長層が一般成員から離脱する際の祭祀にも用いられたことが判明しつつあるが、基本的には村を越えたまとまりを対象とする。
 すなわち、小地域や国あるいは国々の祭祀である。しかもこれらの武器形青銅祭器は、奴国の中心集落である福岡県春日市須玖遺跡を中心に集中的に生産され、製品は対馬を経て朝鮮半島南部にまで及んでいる。
 後期の青銅祭器の体系では、銅矛が最上位にあり、その次に銅戈が位置する。とくに対馬での銅矛単一多数埋納は、 奴国・伊都国を盟主とするツクシ政権の国々のマツリにこれらの銅矛が用いられたことを示す。注目されるのは、 弥生後半期の宗像地域ではそうした銅矛・銅戈の埋納例が皆無な点である。上八中羅尾の石棺墓から出た中細形銅剣や鐘崎の石棺墓出土中細形銅剣は樋が鋒部まで伸びず、中国・四国地域との関係性が強い銅剣であり、本来中広形・広形の銅矛・銅戈埋納は不在であった可能性が高い。

 この論を見てわかる通り、宗像地方は弥生時代中期末になると、今までの北九州一帯の出土状況から離れて、瀬戸内・山陰地方とのつながりが強くなるようである。この傾向は沖ノ島にも見られ、宗像→沖ノ島→対馬の経路もあったようである。

 この宗像は後に宗像三女神が降臨し、海上交易路の拠点として発達していく地である。この地が当時の北九州地域の考古学的状況と弥生時代中期末より異なってくるということは、弥生時代中期末より出雲・瀬戸内文化圏に取り込まれたことを意味している。おそらく素盞嗚尊がこの地を確保して海上交易路の中継拠点としたためであろうと思われる。北九州中心域の博多地方や糸島地方は有力豪族がひしめいており、なかなか入り込めなかったと推定される。
 しかし、大陸からの先進技術導入の足掛かりとなる地はどうしても必要だった。北九州中心域から離れており、かつ、対馬との往復ができる場所として、素盞嗚尊が選んだ地が宗像地方だったと考えている。当時の宗像地方は北九州中心域からは外れており、有力豪族もいない空地のような状況であった。素盞嗚尊一行は簡単に入り込めたのであろう。
 対馬との往復に北九州中心域を通過したのでは、中心域の有力豪族との衝突が起こる可能性がある。それを何としてでも避けたいと思った素盞嗚尊は宗像地方を拠点として宗像→大島→沖ノ島→対馬のルートを開発し、このルートを通って対馬往復をしたものと考えている。

 この中の沖ノ島は対馬大島間のほぼ中央に位置し、ルート上で極めて重要な中継地点となる。素盞嗚尊は必ず上陸し航海の安全を祈願せずにはいられなかったものと推定している。そのために、沖ノ島が祭祀の島として次第に認知されてきたものであろう。このルートは北九州中心域が倭国によって統一されてからは、壱岐→対馬のルートに変わったと考えている。

対馬統一

朝鮮半島往復のルート上にあるのが対馬である。出雲国王になった素盞嗚尊は,日本列島統一に絶対必要な最新技術を恒常的に手に入れるため、 対馬を出雲国の支配下に入れることを考えた。紀元前10年ごろのことであろう。

 対馬の考古学的状況

 対馬における弥生時代の遺跡は、南端のつつ地区から北端の豊地区に至るまで、各地の浦で知られているが、それらの浦々に共通した条件として、後背にいくらかの耕地をひかえ、前面に良好な入り江をもっていることで、全体に南部(下島)より北部(上島)に多く、西海岸の中央部に遺跡の密度がもっとも高い。弥生文化の発祥地(北部九州)に近い東南部(厳原町東海岸)に遺跡が少なく、韓国南部と向き合った西北部(上県町、峰町西海岸)に多い。これは南部に良い入り江が少ない地理的条件によるものと考えられる。

 対馬では弥生時代中期末(西暦紀元前後)になると、多量の副葬品を所有した墳墓が三根湾の一角に出現する。ガヤノキ、タカマツノダン、サカドウといった首長級の墳墓の出現である。副葬品としては前漢鏡、楽浪系銅釧、半島産小銅鏡などの青銅製品が多い。この周辺が対馬国の発祥の地であろう。

 中期後半になるとにわかに遺跡が増加し、これより後期にかけて、空前の活況を呈したことがあらわれている。それは舶載の青銅器や鉄器、玉類を輻輳した墳基が出現し、後期になると広型銅鉾が大量に移入されていることなどから考えて、このころ、重大な歴史的変動があったことは間違いなく、それは対馬国の誕生を示すものと推量されている。峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘が行われ、対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、卑弥呼の時代の対馬の国の中心地ではないかと推定されている。遺跡数の多さ、分布密度の濃さにおいて三根浦と仁位浦が島内で卓越しているが、時代区分は少しずれており三根浦の主要な遺跡は中期末に集中し、仁位浦は後期に集中している。

 対馬に伝わる伝承では対馬は素盞嗚尊が開祖で代々素盞嗚尊の子孫が対馬を統治しているとされている。対馬では中期末以前には王墓らしき墳墓は存在しないので、 伝承と照合すると、素盞嗚尊が対馬にやってきて国を作ったということになる。対馬は山が多い島であり、素盞嗚尊がやって来るまでは、まとまった国としての存在はなく、 素盞嗚尊はここに国を作ることにより出雲と朝鮮半島の交流拠点を確保したものと考えられる。その拠点を三根湾沿岸に作ったものであろう。 そして,対馬から朝鮮半島に渡り,先進技術の導入を謀ったのである。そのため、対馬には出雲系神社が多く出雲と同じ神在月伝承が残っていると推定する。

 博多と釜山は玄界灘を隔てて、約200Km。対馬は博多港から138Km,釜山から50Km,対馬海流は3ノット(5.6Km)/時で北東へ流れている。晴れた日には、対馬の北側から朝鮮半島の山々や建物を望むことができる。この海は壱岐、対馬を挟んで常に陸地を見ながら安全に航行出来る航路であった。対馬は、魏志の倭人伝、古事記、日本書紀にもその名を記されている。

 対馬の統一伝承 対馬・壱岐における素盞嗚尊・五十猛命関連伝承を持つ神社


『因幡の白兎』 物語のあらすじ

※大国主命という心優しい神様でした。ウサギを見つけると、適切な治療を教え、すっかり元通りに。ウサギはたいへん感謝し、八上姫に「大国主命と結婚するべきだ」と伝えます。そのおかげで、二人は無事に結婚することができました。部分

『因幡の白兎』を知らない方は、神様とウサギ、そしてワニザメという正体不明の動物も登場する、不思議な物語だと感じるかもしれませんね。実際はどんな物語なのでしょうか? さっそくあらすじを紹介します。

あらすじ
一匹のウサギが、オキの島に住んでいました。海を越えた先には、因幡の国。一度は因幡の国に行ってみたいと思っていたウサギは、いい案を思いつきます。ウサギは、海のワニザメに「僕と君、どちらの仲間が多いか比べてみよう」と提案します。ワニザメの仲間は海に集まって、一列に並びました。列は因幡の国まで届くほど。ウサギはワニザメの数を数えながら、その上を飛んでいきました。
あと少しで因幡の国に着こうとした時、ウサギは嬉しさのあまり、つい「本当は因幡の国に行きたくて、君たちを騙したのさ!」と言ってしまいます。怒ったワニザメは、ウサギに噛みつき、皮を全部剥いでしまいました。

ちょうどその頃、美しい八上姫に結婚を申し込もうと、たくさんの神様たちが因幡の国にやってきていました。神様たちは、皮を剥がれたウサギを見つけると、いじわるをしてやろうと声をかけます。「海水で体を洗って、山の上で風に当たりなさい」。言われた通りにしたウサギは、痛みがもっとひどくなり、しくしくと泣き出してしまいました。

そこへ遅れて、心優しい大国主命という神様が、先に行った神様たちの荷物を全部担いでやってきました。泣いているウサギを見つけると優しく声をかけ「すぐに川の水で体を洗って、蒲(かば)の穂を体につけなさい」と言います。ウサギが言われた通りにすると、あっという間に痛みが引き、体が元通りになりました。

ウサギは大国主命にとても感謝し、「八上姫は、他の神様たちではなく、あなたを結婚相手に選ぶでしょう!」と言って、八上姫の元へ走り出しました。ウサギは、他の神様たちよりも早く八上姫の元にたどり着き、何があったかすべて話しました。

八上姫はその話を聞くと、続々と到着した神様たちからの求婚の申し出をすべて断ります。そしてついに、一番最後にやってきた大国主命の求婚を受け、二人は無事に結ばれました。

出雲 稲葉白兎と大国主 

一番最後にやってきた神様は、大国主命という心優しい神様でした。ウサギを見つけると、適切な治療を教え、すっかり元通りに。ウサギはたいへん感謝し、八上姫に「大国主命と結婚するべきだ」と伝えます。そのおかげで、二人は無事に結婚することができました。

物語の題にもなっている、主人公のウサギ。因幡の国に憧れていました。ちなみに「しろうさぎ」は「白兎」だけでなく、「素兎」と表記することも。「素兎」とは、皮を剥がれて丸裸になってしまったウサギのことを意味しているのだそう。

鰐(ワニ 尋とも)なのか鮫なのか、はっきりしていません。しかし、怒ってウサギの皮を剥いでしまうという、恐ろしい存在であることは確かです。
ウサギが最初に出会ったいじわるな神様たち。実は大国主命のお兄さん。自分たちの荷物を全て弟の大国主命に持たせ、我先にと八上姫に会おうとします。

大国主命
兄の荷物をすべて押し付けられ、だいぶ遅れをとってウサギと出会います。心優しい、建国の神様です。
やがみひめとも。美しいお姫様で、たくさんの神様たちから求婚されますが、最後はウサギの助言のおかげで大国主命と結婚します。

『因幡の白兎』教科書にも掲載されている『因幡の白兎』は、現代の一般教養として知っておくべき物語。『古事記』や神話と聞くと難しい印象がありますが、絵本なら子どもにも親しみやすいはず。
『いなばの白うさぎ~オオナムヂとヤガミヒメ~:日本の神話 古事記えほん【四】(日本の神話古事記えほん)』(小学館)構成・文/伊藤舞(京都メディアライン)

■「因幡の白兎」伝説は、古墳時代に遡るという説からして日本史の古事記、日本書紀とも年代が重なる。
となれば、近年、徳之島で発掘された古代遺跡(ウンブキ)とも、それらの関連はないだろうか、という推定は否定されない。 以下自著記事(Google検索より)

1万1700年~7400年前 水没前の「縄文期」生活痕か
2020年7月23日 日本最大級の水中鍾乳洞 謎のウンブキ土器 発掘調査

1万1700年~7400年前 水没前の「縄文期」生活痕か
日本最大級の水中鍾乳洞 謎のウンブキ土器(徳之島) 

※昨日の「紋次郎」は正式には「木枯らし紋次郎」1971年(笹沢 左保著)で、テレビ昭和時代劇の大ヒット作だった。


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