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意識高い系はインテリか?

「インテリ」類語 コトバンク~インテリ又は、その原語であるインテリゲンチャ(露: интеллигенция、インテリゲンツィヤ、英: Intelligentsia, Intelligentzia)とは、知識階級を指す概念であり、そのような立場にある人を知識人、有識者ともいう。
「インテリ」に類似する言葉には、「知識人」「知識層」「教養人」「文化人」などがある。これらの言葉は、学問や文化に精通している人々を指す点では共通しているが、ニュアンスや使われる場面が異なることがある。知識、学問、教養のある人。知識人。

「intelligence」
「I work in intelligence.(私の仕事は諜報活動だ)」
「インテリジェンス」は、英語の「intelligence」に由来するカタカナ語で、「知性」や「知能」、「理解力」などの意味を持つ。 ただし、政治の世界においては「インテリジェンス」は「諜報活動」という意味で用いられることが多く、国家の安全保障や政治や経済活動における駆け引きに欠かせない情報活動である。コトバンク~ ウイキペディア~検索

オレ、インテリでね、あんたらとは違うのさ!

と、今でも云いそうなタイプが「見城徹」氏と強面からは想像されそうにない一面など垣間見えたら面白いのではないかと、資料を漁ってまとめてみた。

初っ端、「女性タレントと恋愛」とすっぱ抜かれてまるで現役スターのような扱いで、本人もまんざらでもないか、そんな印象も撒き散らしていた。

もともと文系畑編集者だったのが、カドカワで頭角をあらわし、「幻冬舎」を作ったのは周知の事実である。それ以上の説明はいらない。

随分前にnote刊「無名人インタビュー」に掲載したことがあったときは、その編集者栗林氏から、何タイプかの個人情報をさらけ出して、文にまとめたが、相手が著名人で、殆どの履歴が社会に出回っている人物を俎上に挙げるのは、なかなか骨の折れる作業のようなきがした。

では、どうして本人をスポットしたかといったら、知っているようで知らない、強面なのに文学かよ~、のギャッブが激しく、今どき(SNS時代の石器塑像)見たいな印象も受けたので、文にしてみた。

普通、一般的にはその逆でメディア(幻冬舎)からのオファーで、私が(金輪際ありえない)からインタビューを受ける、のが常道だが、どう転んでも、そんな棚ぼた僥倖など、殆どの人間は経験しない。

しかし、昨今ネットSNS<、YouTube配信を見て判るように、ガチプロ世界が、素人コンテンツ破竹の勢いに圧倒されている。ましてや出版界とて、その洗礼を免れることは在り得ないし、後、数年(2030年)もすれば天と地の杞憂が実写化される時代は、ついそこまで来ている。

そうした戯言を重ねながら「オレさ~インテリでね、あんたらとは違うのさ」と、公衆の面前で一言云ってみたかった。

幻冬舎社長・見城徹 女性タレントとの恋愛、週刊誌に撮られた 
派手な交友関係がマスコミの餌食に
2024/8/10 10:30 産経新聞    画像 文化放送 ゆるシェア

尾崎豊、ユーミン、坂本龍一、浜田省吾。そして、つかこうへい、野田秀樹…。みんな、コンサートや芝居で心を動かされた人たちだ。感動して楽屋を訪ね、そこから付き合いが始まった有名人は数知れない。
若いころは、週2回はコンサート、2回は芝居を見にいった。「無名な人を見つけて、無名な企画を立ち上げて、ヒットさせる。それで他のマスコミがわぁーっと集まってきたら、自分はそこを離れて、次の無名の仕掛けに入っている。そんな信条で生きてきた。編集者は、現場に出なくなっちゃうと、おしまい」 一部掲載 産経新聞



文化放送

見城 徹(1950年〈昭和25年〉12月29日 - )は、日本の編集者、実業家。株式会社幻冬舎代表取締役社長。株式会社タッチダウン代表取締役社長。株式会社キャブ代表取締役社長。エイベックス株式会社取締役(非常勤)。株式会社テレビ朝日の放送番組審議会の委員長。

文芸編集者時代

廣済堂出版入社後、見城が最初に手がけた本は「十万円独立商法」という本である。同書について、当時「東京スポーツ」で記者をしていた高橋三千綱(故人)が特集で大々的に取り上げてくれた。

そのお礼に、本の著者が3万円を出してくれ、見城はそのお金で高橋と飲みに行き親しくなった。その後、高橋は群像新人賞を受賞する。
そのお祝いで再び飲みに行った時、小説家の中上健次を紹介される。以降、見城はゴールデン街や新宿2丁目で文学論と喧嘩の日々を過ごす。
そこには、村上龍や立松和平、つかこうへいなど多くの若き作家が集まっていた。見城は彼らと過ごす間、彼らの中にある”狂気ともいえる情念、自分にはない治癒不能な何か”があると感じていたという。

作家の中にそうした“何か”を感じられる自分は、それを表現のかたちに生み出す触媒になれるのではないかと考え、見城は文芸編集者を強く意識するようになる。
そんなとき、毎日のように会っていた高橋三千綱が角川春樹へつながる道を拓く。当時、角川書店では「野性号」という企画を行っていた。

古代船「野性号」を建造し、「魏志倭人伝」に記された通りに朝鮮から北九州まで渡るという角川春樹の企画だった。この企画に魅力を感じた見城は廣済堂出版を退職し、野性号事務局でアルバイトとして働きはじめる。事務・雑用を懸命にこなし、どんな小さなこともおろそかにせず明け方まで懸命に仕事をしたところ、その仕事ぶりが認められ、当時角川書店で唯一の文芸誌である「野性時代」の編集部に正式採用された。

幻冬舎の上場廃止を目指すが謎のファンドが出現

2003年、幻冬舎はジャスダック市場に上場する。しかし、見城は、数年も経つと出版社として上場しているメリットよりもデメリットの方が大きくなっていると感じていたという。

つまり、社外の株主によって出版社経営方針が左右されてしまう怖れがある。最悪には会社資金が社外株主に吸い出されてしまうという事態がある。

そこで、2010年10月28日、見城は「TKホールディングス」という会社を通じて幻冬舎の株式を公開買付(TOB)し、MBO(マネジメント・バイ・アウト:経営者による自社買収)により上場廃止をしようとした。
しかし、ここで予想外の事態が発生する。「イザベル・リミテッド」という謎の投資ファンドが出現し、TOBの価格を上回る価格で幻冬舎の株式を4割近く買い集めたのだ。MBOが成立しなければ、幻冬舎は謎のファンドを株主に抱えながら上場を維持していかなければならない。
イザベル・リミテッドは高値での株式買い取りを要求してきたが、見城はこれを拒否し、ファンドと戦うため、銀行に自宅をはじめてすべての財産を担保にいれて資金を準備した。イザベル・リミテッドは幻冬舎の株式の3分の1以上を所持しているため、株主総会で提案された重要事項を否決できる。しかし、見城は、上場廃止するための臨時株主総会を開催することを決意する。

MBOを成立させるための条件だが、臨時株主総会に参加した株主のうち、3分の2以上の賛成を得て定款の書き換えを行わなければならない。
イザベル・リミテッド側の人物もしくはその信用買いを支えた証券会社の代理人が臨時株主総会に出席し、定款の書き換えに反対するとか、あるいは棄権をすれば、定款の書き換え議案は否決され、MBOは不成立になる。要するに、イザベル・リミテッド側が臨時株主総会に出席すれば、MBOは不成立という条件だった。
2011年2月15日、臨時株主総会当日。イザベル・リミテッド側は臨時株主総会に「欠席」した。こうして幻冬舎の上場廃止が決まった。

イザベル・リミテッドの得た利益

上記の流れを整理すると、2010年12月13日付けの日本経済新聞の記事では、イザベル・リミテッド側は、12月9日時点で議決権ベースで32%超に相当する8,996株を所有していた。
平均の取得単価は1株あたり23万円弱と推定されている。幻冬舎側は当初TOBの価格を22万円で設定していたが、その後24万8,300円に引き上げている。
上場廃止により、見城は幻冬舎の株式を100%取得したと述べており、イザベル・リミテッドの所有する株式をすべて買い取っている。
つまり、イザベル・リミット側は、TOBの価額と取得した幻冬舎株の差額分(248,300-230,000)円×8,996株≒1億6,500万円の利益を得ており、これが臨時株主総会に出席しなかった理由である。
2011年、株式会社ブランジスタの取締役会長に就任。2013年、秋元康、エイベックスの松浦勝人、サイバーエージェントの藤田晋らと女性向け雑誌「DRESS(ドレス)」を発売するために「株式会社gift」を設立(3億4200万円の赤字を出して2015年に売却)した。2015年、第28回日本メガネベストドレッサー賞・経済界部門を受賞。

交友関係
石原慎太郎

全共闘の際、石原慎太郎の作品集を持ってバリケードに入り、「自己統括しろ」と非難された時、「これだけ共同体に対して違和感を持ち、それを突破しようとしている個体の文学はないだろう」と主張しケンカに勝ったことがある。

見城は石原の作品を読むたびに慰撫され、自分の持っているある衝動が昇華されていくのを感じていた。初めて会うときに見城は40本のバラを持っていった。さらに『太陽の季節』と『処刑の部屋』を一言一句、最後の一行まで暗唱してみせた。

幻冬舎設立後すぐに、石原は幻冬舎の会社に行き、「未熟な社長だが、見城をよろしく頼む」と言った。そして自分に役に立てることがあるならなんでもやるといい、後日弟の石原裕次郎を描いた『弟』を執筆し、この本はベストセラーになった。

見城は石原に「政治」を書いてもらいたかった。2016年1月に田中角栄を一人称視点で描いた『天才』を出すことになり、これもベストセラーになった。『天才』は見城がつけたタイトルだった。

見城は石原に「老い」を書いてもらいたいと思っている。『太陽の季節』で若さがほとばしる作品でデビューを飾った石原に、『老残』というタイトルで「老い」を描くように要望しているがこれは実現していない。代わりに『老いてこそ人生』というタイトルの本を出しミリオンセラーになった。

五木寛之

五木寛之はどうしても仕事をしたい作家の一人だった。これまで角川書店で仕事をしたことのない五木にいかに仕事をしてもらうかが見城の課題だった。そこで見城は五木の書いたすべての作品を読み、感想を手紙で5日以内に送った。書き下ろし長編・短編・対談・エッセイ全てに感想を書いた。感想はただ「よかった」「面白かった」というだけでなく、仕事をしている本人でも気づいていないことを気づかせたり、次の仕事の示唆となるような刺激を込めるようにした。17通目を送ったとき、五木から五木の妻が代筆した手紙が返ってきた。25通目を出した時に五木と会えることになった。見城は五木と仕事してもらえることになりこの作品は『燃える秋』というタイトルになりベストセラーになった。

尾崎豊

見城はあるとき、新宿のレコード店から流れてきた『シェリー』という曲に心が留まった。そして店に入り歌手の名前を聞いた。この若者が抱えているものは一体何だろうかと胸が詰まった。彼の事務所に連絡を取ると、すでに6社から出版のオファーがあったと知らされた。遅すぎたと諦めるのが普通かもしれないが、7社目だろうと「彼と仕事がしたい。」と思い、見城はそれ以降その若者の曲を聴き続けた。
その想いが通じてか、ついに彼と会食する機会が訪れる。見城は無口な若者に、相当突っ込んだ、彼を刺激する言葉を吐き続けた。次第に若者も饒舌になってくれた。店を出るときには雨が降っており、その若者は、「ちょっと待って見城さん。」といってタクシーを止めてくれた。そこから、若者との付き合いが始まった。

こうしてできた尾崎豊の初めての本『誰かのクラクション』は30万部を超えるベストセラーになった。ところが、この本が出てから2年以上尾崎とは音信不通になってしまう。彼がアメリカに渡ってしまったからだ。その間、見城も他の仕事に追われ、尾崎のことを思い出すことも少なくなっていたという。しかし、その後、劇的な再会を果たす。

見城が校了の徹夜明けにスポーツクラブに行ったとき、白髪交じりの小太りの男が鬼気迫る勢いでランニングマシンを走り込んでいた。その男が尾崎豊だった。しかし、一見して尾崎とはわからないほど外見は荒れ果てていたという。そこで、尾崎と見城は膝を膝を突き合わせて話をする。尾崎は、「すべてを失った。事務所もレコード会社もない、自分には何もない。だが、もう一度復活したい。」と見城に訴えたという。

見城は尾崎復活のために、人集めから事務所探し、金の手当まですべてをやった。「月刊カドカワ」に彼の総力特集を組むとともに尾崎の連載小説や詩を掲載し始めた。尾崎の定宿となっているヒルトンホテルと見城のマンションはすぐ近くで、2人の共同生活のような日々が続いた。

そのころの尾崎は異常なほどに精神状態が不安定な日々を送っていた。被害妄想が膨らみ自分に接する人すべてを疑った。スタジオで暴れたり、レコード会社と大喧嘩したり、自動販売機に殴りかかって拳を血だらけにしたりもした。1990年、しかし、そうした中で発売された復活アルバム『Birth-誕生-』は、オリコン1位を獲得する。そして尾崎が「月刊カドカワ」に発表した作品は見城の手によって次々と単行本化され、どれもがベストセラーになった。

やがて、尾崎の復活ツアーが始まった。そこで尾崎は見城に対し、あと一回で連載が終了する予定であった「黄昏ゆく街で」の最終回を人質に取り、すべてのツアーに来てくれという無茶な要求を突きつける。

ツアー終了後も、尾崎は猜疑心と独占欲のかたまりになってますます凶暴さを極めていった。彼を支えていたスタッフ達にも食ってかかって攻撃を加える。だれもが尾崎から逃げていく。そして攻撃の矛先は見城にも向かう。ついに見城は「おまえとは2度と付き合わない。」と言い、尾崎と決別する。その後まもなく、1992年4月25日に死去。

尾崎の死後、『黄昏ゆく街で』は未完成のまま発売されベストセラーになった。なお、尾崎豊の書いたすべての作品は、見城が編集したものである。

資料 ウイキペディア


産経新聞記事 

https://www.sankei.com/article/20240810-5NHCPIIVC5DIJEDOVV4MCOFICU/



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