見出し画像

茶人 千利休

安土桃山時代の茶人・千利休は現代に至る茶道を大成し、天下一の茶聖(ちゃせい)と呼ばれた。美意識と融合した自然観を茶室と樂茶碗(らくちゃわん)という具体的な形で表現しようとした利休は、時代を超えた日本美の革命家と言えるだろう。 文化 歴史 建築 美術・アート 2021.07.21

facebook sharing button Sharetwitter sharing button Tweetprint sharing button Printemail sharing button Emailsharethis sharing button Share
他の言語で読む English 日本語 简体字 繁體字 Français Español العربية Русский

喫茶の習慣は、中国から陸路と海路を通じて世界中に広がった。伝播した先では、それぞれの地域にあった茶器や茶菓子、飲み方が生み出されるなど独自の文化として定着している。しかし、喫茶のために独立した建築物を必要とするまで喫茶に執着したのは日本人だけではないだろうか。茶室と呼ばれる喫茶専用の空間を最小限の広さでデザインしたのが、千利休である。

宣教師があきれた日本人の茶へのこだわり
緑茶を粉末にして茶碗の中で攪拌(かくはん)して飲む喫茶法は、中国の宋(960〜1276)との交易によって12世紀末に日本に伝来したと伝えられる。その頃、日本社会は、貴族から武士が支配する時代へと変わっていった。新たな喫茶法は、武士を中心に受け入れられていく。

1522年、利休は堺でも有名な商家に生まれ、跡取りとしての教養や品位を身に付けるため17歳で茶の湯を学び始めたと伝えられる。当時は第2世代の武家政権・室町幕府(1336〜1573)の末期で、幕府が全国的な支配力を失い、戦後武将が群雄割拠する乱世であった。堺は中国の明(1368〜1644)との交易拠点として栄え、16世紀半ばからはスペインやポルトガルとの交易も行う国際貿易都市だった。

堺では商人同士の交流はもとより、武士と商人が対等な形で交渉を行う場として、抹茶を飲むことを目的とした会合、つまり茶会が盛んに行われていた。抹茶は茶の新芽を摘んで蒸した後、乾燥してできた葉茶を臼でひいて粉末にしたもの。熱湯を注ぎ撹拌して飲むので、器物に対する強いこだわりが生まれた。ヨーロッパに伝わった喫茶が中国製の器への愛好を生み出したように、日本でも中国製の器が珍重された。

ヨーロッパ人が中国磁器を模倣しようとしたのに対して、日本では朝鮮半島の焼き物にも着目し、茶碗として活用するようになった。また、中国では見向きもされなかった陶器も使用している。さらに茶碗だけでなく、茶を保存するための容器にも気を配り、大型のものを茶壺(ちゃつぼ)、小型のものを茶入(ちゃいれ)と呼んだ。釉薬(ゆうやく)がかかって独自の光沢を持つとはいえ、小鳥のための水入れにしか見えない形状のものを宝石のように扱い、売買する日本の風習を、来日した宣教師はあきれ顔で記録している。

ベネチアにも比せられた自治都市・堺は、京都に匹敵する文化の発信地として一目置かれていた。海外貿易で財をなした豪商は多かれ少なかれ茶人で、今井宗久(いまい・そうきゅう、1520〜1593)や津田宗及(つだ・そうぎゅう、?〜1591)はその代表格であった。商売の規模は彼らほど大きくないが、23歳で亭主をつとめた茶会で認められて以来、利休はその運営に関して独自の審美眼をもった茶人として周囲から評価される存在だった。

一商人である利休が脚光を浴びたのは、織田信長(1534〜1582)の後継者として中央政権を確立した豊臣秀吉(1537〜1598)との関係が大きい。信長と秀吉は、前代の権力者や政敵だった戦国武将の茶道具を現在は自分が所有していること示し、茶会で権力移行をアピールした。

1575年、多くの茶人の中で、利休は織田信長が主宰する茶会で信長に代わって茶を点(た)てる茶頭(さどう)に抜擢(ばってき)された。53歳の時である。信長が没した翌年の83年、利休は豊臣秀吉の茶会でも秀吉に代わって茶をたてる役目を任される。秀吉が茶器の愛好を公にしたことで、信長の後継者である秀吉の歓心を買おうと数多くの茶器が献上されることになる。そのような状況で、利休は戦国大名に茶器を秀吉に献上するように勧めている。そしてこうした動きがエスカレートして、利休が戦国武将に対して秀吉の軍門に下ることを誘うまでになった。その結果、秀吉が太政大臣に就任して豊臣政権を確立した86年には、弟の秀長と並んで政権を支えているとまで見なされるに至る。

継承された利休への鎮魂
秀吉の肉親が政権で重要な役割を果たしているうちは、こうした側近政治も許されていた。しかし秀吉が全国統一をするに従い官僚機構が整ってくると、そういうわけにもいかなくなってくる。秀長が病没して間もない1591年、69歳の利休に追放の命が下ってしまう。利休の追放とそれに続く処刑が、秀吉政権内の抗争に起因するものだと説明されても、利休の茶会に魅了された人々には、世俗的次元での利休の死を素直に受け止めるのは難しかった。

いずれにせよ、この世に思いを残して、志半ばに死んだ存在として利休は人々に記憶された。日本人の伝統的死生観に従えば、志半ばに死んだ魂は、厳粛に鎮魂されなければ現世に禍(わざわい)をもたらすと考えられた。菅原道真(845〜903)、平将門(?〜940)といった悲運の最期を遂げた人物を祭るための神社が存在するのはそのためである。

利休を祭る神社が建てられなかったのは、利休の茶を継承しようとする形で鎮魂が企てられたからだと説明してもいいだろう。利休の命日の供養は、千家の後継者たちだけでなく、多くの茶人たちによって営まれ、関連した茶会も行われてきた。さらに利休400年忌の1991年には、京都国立博物館で「千利休展」が開催された。利休は、自らの茶を完成させる前に非業の死を遂げることによって、茶に関心を持つことが利休の死の意味を考えさせるような構造を生み出したとも言えよう。

1595年に秀吉は、利休の係累として都に住めなくなった利休の2人の子供を赦免(しゃめん)すると同時に、利休の孫の宗旦(そうたん)に与えるという名目で利休旧蔵の茶道具を返却している。その宗旦の3人の息子がそれぞれ有力な大名家に取り立てられ、利休の子孫の家系は安定し、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家として今日まで茶道を伝えている。

カール・マルクスの未完の『資本論』を完成させる役割が後世に託されたように、未完の利休の茶を完成させる役割は三千家をはじめ後世の茶人に託された。マルキストは、自分たちが補完した理想のマルクス像を「マルクスの真意」と称する。室町時代中期の茶人・村田珠光(1423〜1502)、師である武野紹鴎(1502〜1555)から継承した茶の湯に、利休は禅という宗教・哲学的要素を取り込み、芸の域を越えた精神性を持たせようとした。利休が目指した茶を後世の茶人たちは「わび茶」と称するが、日本人にも理解しにくいその奥義をマルキストなら少しは理解してくれるのではないか。

一畳半の茶室と樂茶碗に凝縮された利休の美学
利休の茶のスタイルについて、同時代の史料で分かるのは、茶碗を筆頭とする茶道具に独自の解釈を試みたこと、茶室の広さを一畳半という極限の狭さにまで縮小したこと程度である。しかし、茶を点てる主(あるじ)の心の動揺がそのまま感じられるまでに互いが接近することを可能にした茶室空間には、茶会での所作の中心を精神的な交流とする利休の哲学が感じられる。茶室の内外を隔てる障子はもちろん、壁も極めて薄いもので、外界の自然の変化は室内にいても伝わってくる。人間を自然の一部と捉える日本人の、自己と他者を峻別(しゅんべつ)しない、曖昧な領域感覚に形を与えたのが利休の茶室なのである。

千利休の茶室を約420年ぶりに復元した茶室「朝雲庵(ちょううんあん)」(大阪府堺市=2006年撮影、時事)

利休自身が茶席で使いたい茶碗のデザインを信頼できる陶工・長次郎に作らせ、その子孫である樂吉左衞門家が代々作り続けて現代に伝わるのが、樂茶碗である。この茶碗が使われることによって、日本で作られた器が茶席でも使われるようになっていく。ロクロを使わずに粘土を手でこねて茶碗の形に広げていく「手捏(てづく)ね」という成形方法で作られた樂茶碗は、必然的に手の中にすっぽりと納まる。

茶人が鑑賞するのは、茶碗を外側から眺めた時の造形美だけではない。茶碗を持ち上げた時の重さ、手で触ったとき、茶を飲むときに口を触れた感覚も含まれている。視覚のみで利休の美意識を捉えることはできない。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』では、茶を飲み、敷石につまずくという身体感覚を媒介にして「失われた時の記憶」がよみがえった。中でもナプキンで口を拭った時の触覚が大きな意味を持っていたことを思い浮かべて、樂茶碗に接する必要がある。

2017年に国立近代美術館で開催された「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」展に展示された「長次郎の黒茶碗」(撮影:川本聖哉)

美を通して人々を結びつけるのが茶道の本質
1591年2月28日の利休の死が切腹であったかどうかかは、同時代の史料によっては確定できない。しかし、切腹を名誉の死として評価する江戸時代において、利休の死は切腹と受け止められたようだ。さらに時代が下り、1906年、岡倉覚三(天心、1863〜1913)は後に世界的名著となる『The Book of Tea』を英語で執筆し、利休の切腹の場面を脚色して結末に配している。その描写はキリストの最後の晩餐(ばんさん)やソクラテスの最期を思わせる。そして利休の切腹を通して、「Teaism(茶道)」が人生を賭けるに価するもの、美を至上命題とするものであることを示した。岡倉は、茶室の中で美を通して人々を結びつける心の働きを茶道の本質と考えた。その10年後、岡倉と親交のあったラビンドラナート・タゴール(1861〜1941)は、来日した際に「日本の伝統的な文化が美の中に真理を、真理の中に美を見抜く視覚を発展させてきた」と語った。

日本人の自然観と美意識の結合は、日本詩歌の伝統の中に息づいている──そう理解する者が世界中で増えつつあることは、国境を超えた俳句の爆発的な広がりからも明らかであろう。しかし、日本語の壁は厚い。美意識と融合した自然観を「茶室」と「樂茶碗」という具体的な形で表現しようとした利休は、時代を超えた日本美の革命家と言っても過言ではないのである。
バナー写真=千利休像(堺市博物館蔵)

田中 仙堂 TANAKA Sendō経歴・執筆一覧
大日本茶道学会会長。公益財団法人三徳庵理事長。1958年、東京都新宿区生まれ。本名は田中秀隆(ひでたか)。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。著書に、『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(文藝春秋、2021年刊行予定)、『千利休 「天下一」の茶人』(宮帯出版、2019年)、『岡倉天心「茶の本」をよむ』(講談社、2017年)、『茶の湯名言集』(KADOKAWA、2010年)、『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版、2007年)など。

画像 古備前擂鉢|吉兆庵美術館
美の標準 ー柳宗悦の眼による創作 | 日本民藝館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 画像 柳宗悦


吉兆庵美術館



日本民藝館


現在の日本民藝 「柳宗悦」

青空文庫+目次

 私たちはこれから九州の南端を発して北へと上り、四国を一瞥いちべつし、山陽山陰を廻り、中部の諸国を経て、北国に進み、転々と現在の民窯みんようを訪ねようとするのである。もとより訪ね得ないもの、知り得ないものなど多々あるに違いない。しかし現状を知り得たもの総じて四十数カ所に及ぶ。一カ所に多くは数個のまたは十数個の窯かまを有つから窯数からすれば概算少なくとも二百には達するであろう。私たちはこのために長い旅をつづけた。
 この本を編纂へんさんするに当って、四十数カ所の全部について記事を集めることが出来なかったのは残念である。しかしその大部分と、主要なほとんど凡てを網羅し得たから、これでほぼ現在の日本民窯を代表させ得ると信じる。その多くは在来の陶器史に記載なきものであるから、将来の研究者には役立つであろう。私たちは今後も埋もれた窯を続いて紹介したい考えである。
 以下諸篇は十二人の筆になるので、文体や、叙述の風や、観点や、精粗は一様ではない。ただ一冊に纏まとめる関係上なるべく簡単に各窯の歴史、品目、特色等を略述するに止めた。
 
琉球壺屋

 琉球の窯場を壺屋つぼやと呼ぶ。古くは色々の個所に窯場があった。中で湧田とか知花とか、名がよく聞える。しかし天和てんなの頃一カ所に集められ、今の壺屋を形造った。那覇なは郊外の村であったが、今は町となり市の一部に編入された。瓦焼かわらやきは別だが、沖縄では今も壺屋町だけが焼物を作る窯場として現存している。壺屋という呼び方は、丁度本土で「皿山」と呼ぶのと同じである。
 日本国中、伝統的な民窯として挙げ得るものが沢山あるが、しかし昔からの手法がよく続き、作る物に未だ格があり、しかも背後の暮しぶりや村の状態まで、昔とそう変りがない点で、おそらく壺屋の如き例は稀まれであろう。その意味で日本国中の窯場の中で、最も興味ありまた最も大切にされていい生産地の一つといわねばならない。遠隔の地であるため、その存在やその価値を今まで省かえりみる人が少かったが、当然重要視されていい窯場である。土地の人といえども、他の窯場に対してどんな位置にあるかを熟知しないため、余り熱意を有たず、当事者も改良をのみ志して、在来の伝統を軽んずる傾向があるが、逆にこういう窯場をこそ、特色ある地方の産業として尊敬し保護しその固有性を発展せしめねばならない。
 壺屋の仕事は今二つに別れる。瓦は別として、「あらやち」(荒焼)と呼ぶ南蛮焼なんばんやきと、「じょうやち」(上焼)と呼ぶ陶器とである。南蛮の方は無釉むゆうのもので、主に泡盛壺あわもりつぼや水甕みずがめを作る。大体形の大きいものが多く、窯も従って大きい。窯数は今八基あって仕事が盛である。今も「あんびん」(水注みずつぎ)の如き小品を作るが、昔はもっと色々作った。この南蛮に対して上物を焼く窯が別に四基ある。上焼というのは有釉のもので、沖縄人が日常の生活に用いる数々の雑器を指すのである。多く白絵掛けをし上に絵を描く。品目はなかなか多く、名称も方言のものが多い。あんらあ甕がみ(油甕)、あんびん(水甕)、ちゅうかあ(酒土瓶どびん)、からから(酒注)、わんぶう(鉢)、まかい(碗わん)、その他、壺、皿、徳利とっくり、花活はないけ、香炉こうろ、湯呑ゆのみ、等色々の小品が出来る。別にじいしい甕がみ(厨子ずし甕)と呼ぶ骨壺こつつぼを作る。これには無釉のもの釉掛くすりがけしたもの両方ある。多く線彫せんぼりや彫刻を施し、形の堂々たるものである。
 大体琉球の焼物には三つの系統があって、それが互に交錯している。第一は明らかに南方支那系のもので、南蛮を始め、大まかに描いた染附そめつけの如きは明らかにその流れを示している。呂宋ルソンと呼ばれるもの、宋胡録そんころくとして知られるものも、琉球にその影響を見せる。ごく古い鉄釉てつぐすりのものも支那系のものが多いであろう。第二は朝鮮系のものである。これは文献上にもしばしば出てくる。例の慶長の頃、朝鮮の陶工が沖縄に移住して製陶の法を伝えた。しかし浦添うらそえの城址じょうしから見出される瓦等にも高麗こうらいの工匠が作ったということが記してあるから、朝鮮との交渉は遥かに古く溯さかのぼるのであろう。今の琉球の赤瓦の屋根は、朝鮮風な所が著しく見える。象嵌ぞうがんの或あるものにはちょっと高麗時代のものと見分けのつかないものさえある。第三に九州系統のもの、特に薩摩さつまの窯の影響が少くない。ある場合は薩摩に注文したものもあり、また本土のものを将来した場合もあって、その間の関係は濃い。しかしこの孤島の陶工は決して模倣に終らず、よく咀嚼そしゃくして独自の風に凡てを変えた。このことは特筆されていいであろう。小さなこの島は工藝の凡ての部門で大きな足跡を遺のこした。
 壺屋の仕事で著しいことは、一つの窯場でありながら驚くほど多様な種目や手法を有っていることである。前述のように三つの系統がここで繋つながったせいもあろうが、その変化の多い点で、他のどんな窯場にも見ない趣きを呈する。壺屋には磁器がないのであるから、凡ては陶器である。白釉、黒釉、柿釉かきぐすり、飴あめ釉、青釉、緑釉、海鼠なまこ釉、辰砂しんしゃ釉、青磁せいじ釉等これが流し釉であったり三彩であったりする。このほか窓釉、絞描しぼりがき、染附、象嵌等がある。だが中で特筆されていいのは線彫で模様を描きこれに飴釉や呉州ごすを差したもので、ほとんど他の窯場に見ない手法である。更に注意されていいのは赤絵で、赤、緑、黄、青、またこれに花紺青を添えたの等あって多彩である。もとより呉州に赤絵差しのものも作った。味あじわい大おおいに宋窯そうように近いものがあり、有名な犬山等より一段といい。大体釉薬うわぐすりに特色があり、珊瑚礁さんごしょうと籾殻もみがらとを焼いて作り、独特の柔味やわらかみを見せる。この釉薬こそは壺屋の大きな財産といえよう。
 昔の作に比べるなら現在のものは、どうしても見劣りがするが、しかし本土の他の窯の現状に比べると、壺屋にはまだまだ生命が残るのを感じないわけにゆかぬ。大体どこの窯場でも絵附をする力がほとんど絶えているが、壺屋ばかりはまだ活々いきいきした絵を描く。「まかい」と呼ぶ飯茶碗類等には昔に負けないものをしばしば見かける。それに南蛮等でもそうであるが、形に素晴らしいものが今なお残り、伝統の強さを明らかに知ることが出来る。特に凡ての作の背景でありまた基礎である暮しぶりや、信心や、また村の様子そのものが、如何にまだ純粋であるかを気附かないわけにゆかぬ。そういう根底が弱くなった本土の窯場に比べ、如何に恵まれた事情にあるかを知らねばならない。
 しかしこのような事情は、今日まで他府県の人々にはよく知られず、また土地の人々さえもその価値を充分認識していない。そのため壺屋出来の在来のものは、下賤げせんな人たちの用いる雑器に過ぎないとされ、島の人たちは好んで本土の焼物を輸入する。そうして一日も早く壺屋の現状を打破し、本土風なものをこしらえる方針を立てる。しかしほとんどどんな輸入の品よりも沖縄自身の焼物の方が優れているのだという自覚は遠からず起るであろう。また起らねばならぬ。地方の民窯として最も大切にされていい窯場の一つたることは疑う余地がない。
 因ちなみにいう、近時「古典焼」と称する琉球の焼物が関西にも東京にも進出している。多くは花瓶で、模様は人物とか鳥とか花とか船とか象とか芭蕉ばしょうとか、色々のものを一パイに浮彫し、これに様々な色を差してある。琉球の焼物というとこの種のものをよく聯想する人があるが、これはこの十年来の新作で、ほとんど琉球固有の特色のないものである。技術はなかなか発達しているが、装飾に過ぎて見るべきものほとんどない。伝統的な琉球正系の焼物とは甚しく距離の遠いものであることをここに注意しておきたい。

陸前の堤

 堤つつみは昔は郊外にあった陶郷と思えるが、今は仙台市の一部に加えられた。伊達だて藩は大きく昔は他にも窯場を有もっていたが、山の目焼、切込きりこみ焼、畑山はたやま焼、末家ばっけ焼等いう名のみ残って悉ことごとく絶えた。中で今もなお煙の上るのは堤町の窯だけである。町はずれの小川を渡ると坂路にかかるがそこからが陶郷である。歴史は古く二百余年のものと思える。藩の御用窯も務めたが、藩が廃すたれると共に過去の歴史に流されて、今残るのは雑器の窯のみである。最近は多く土管の窯になり下ったが、それでも伝来の民器を窯毎ごとに幾室かはつめる。窯は今八個ある。各々七つ八つの室を有つから大きな登り窯である。それに素焼窯が八つある。八軒で仕事をしていることが分る。あぶり五日、焚上たきあげ一昼夜というから仕事は決して小さくない。雑器の中で主なものは水甕みずがめ、壺つぼ、丼どんぶり、煮上皿にあげざら、片口かたくち、火鉢ひばち等である。釉は鉄であるが形いずれも強く、その力は他の窯では容易に見られない。町に売る繊細ないわゆる「下くだり物もの」とは比較にならない。しかしどこでもそうだが仙台の人たちは膝許ひざもとのこういう品を別に大事にはしない。段々需要が減って行くのも致し方ない。しかし見直す人が出れば惜しがるであろう。しっかりした感じでは出色の窯だといっていい。鉄釉てつぐすりに海鼠なまこの色が流れ出たものは多彩で特に見堪みごたえがする。昔は陸前のみならず陸中の南部にもこの水甕は行き渡った。この窯は当然保護されていいように思う。これだけの材料と手法と伝統と職人とがいれば、まだ色々な新しい仕事が出来る。
 今いった黒釉のほかに、赤楽風あからくふうの柄附えつきの焙烙ほうろくを作る。また漢時代のものを想わせるような厨子ずしも作る。共に形がいい。特に強さや確かさのあるのは釜戸(くど)と呼ぶ炉ろや五徳ごとくの類である。
 因にいう、この頃この窯で雅物を焼き始めた。更生のつもりかは知らぬが、少しも地方色なくみすぼらしい出来である。在来の雑器の前には顔色がない。この窯の更生は雑器の上に築かれるのが至当である。

羽前の成島

 この窯の名は広く知られていない。また広く知られるにしては、質素なものばかり焼く。しかし出来栄えからすると窯の少い北国では大事にされていいと思う。手法、様式に別に変化はなく黒釉くろぐすり一式である。火の具合で海鼠釉に変ると景色が出る。形確たしかで骨っぽい。都会では有もてない特権である。窯はわずか一個よりないが、年に五、六回は焼くというから、相当地方的需要があることが分る。長型丸型の水甕、片口、飯鉢めしばち、平鉢、土どだらい、切立きったて等いう名は地方窯に相応ふさわしい。
 場所は米沢よねざわ市に近い。詳しくは南置賜みなみおきたま郡広幡ひろはた村にある。どの系統の窯か歴史は審つまびらかでないが、作風からすると本郷の窯と兄弟である。作るものや名称に似通った点が多い。地理的にも遠くはないからこの想像は無理ではない。窯が小さいせいか、出来るものは在ざいに流れ込んで遠くには売られない。米沢の町には出るが、山形まではほとんど届かない。一般からその存在が知られていないのも無理はない。しかし忘れられては気の毒である。民窯に見られるいい特色がこの窯に来ても逢える。

羽前の平清水

 羽前うぜんの窯といえば、誰にも平清水ひらしみずの事が念頭に浮ぶ。山形市を知る人はまた近くのこの窯を忘れない。この国では大きな窯場の一つである。詳しくは羽前国南村山郡滝山村字平清水である。山形市より遠くない。窯は千歳ちとせ山の麓ふもとに散在する。歴史はそう古くは溯さかのぼらないが、化政かせいの頃は既に盛である。今は磁器陶器を焼くが、土地では一方を石焼、一方を土焼どやきと呼ぶ。石焼の方は、肥前ひぜんの影響多く、後者は相馬そうま笠間かさまの系統だという。この土焼の方は主として雑器であるから格が一段と下るものと見做みなされている。しかしいずれの土地でもそうであるが、平清水で今も生命のあるものはこれらの土焼の雑器だけである。上等に扱われているものは都風で地方色なく全く生気がない。
 現在登り窯九個、角かく窯三個、上絵うわえ窯三個、別に人形を焼く小窯二個、昔に比べては衰えたといわれるが今なお仕事は相当盛である。特に近頃インキ瓶の需要があって活気を呈した。しかし地方窯として重要なのはここで焼く様々な雑器、壺、片口、甕、皿、徳利、鉢、便器、等々。白絵掛けの無地が得意のようであるが、このほかに飴釉あめぐすりや黒釉も沢山使う。この頃はマンガンを入れたので質が落ちた。それに無地にクロームで緑を流し等するが色が俗である。これに反し土地の材料で出来たものは色よく皆棄すて難い味がある。この窯では雑器になかなかうまく山水や花模様を描く。北国で見られる絵つけの便器は皆平清水で出来る。しかしもとの呉州ごすを棄てて洋風のコバルトに変え、けばけばしい色になったのは残念である。それに絵がやや荒れて昔ほどの落ちつきを欠くのは時代のせいで致し方もない。しかし下手げてな絵をうまく描く窯は少くなったのであるから、呉州にでも改めて描けば必ず見直せる品が出来よう。惜しい気がする。品物は山形市のみならず県外にもなかなか出てゆく。

羽前の新庄

 羽前の北端は最上もがみ郡である。郡の町は新庄しんじょうである。ここは更に北の横手を指す線と、左へ折れ余目あまるめに達する線との分れ目である。冬は雪に深い。この新庄の町はずれの東山に窯が二つある。開窯してより九十八年と聞いたからそう古い窯場ではない。技を九州に学び磁器を試みたが失敗し、結局土焼で仕事を続けるに至った。今日作るものと焼き始めた頃のものと、さしたる相違はないと思える。それほど作るものは時代離れがしている。湯通し、蓋附土鍋ふたつきどなべ、蓋無ふたなし土鍋、捏鉢こねばち、水甕みずがめいずれも特色がある。最近マンガンを使い出してずっと格が落ちたが、近在から得る鉄分のある釉を用いたものは甚だいい。それも特に海鼠なまこ釉になったものは見事である。形が純朴で貧しさからくる美しさがある。地方窯の魅力にはしばしばこういう性質がある。この窯で焼く蓋なしの土鍋は非常に形がいい。いつも三重ねにして売る。いずれも底に三つ足がついている。明かに鉄鍋の痕跡こんせきと思えるが、面白い事に三つの足は習慣に過ぎなく、底よりも上についているので用をなさない。だが陶工たちは知ってか知らぬか、元通りに必ず三つ足をつける。かかる気持があってのこの窯である。伝統に忠義だからこそかくも素朴な味が出るのである。時代と遠いだけにかえって見る眼には新しい。どの系統の窯か分らぬが、歴史は浅いにしても、その先がまだ遠くあるように思える。失透しっとうの海鼠窯を見ると出来たものは朝鮮あたりのものと似通う。格からすると成島なるしまや平清水等よりもっと地方色が強い。沢山は作られず近在に散るから、この窯の存在を知る人は土地の人以外には余りない。

羽後の楢岡

 私たちは更に北に進み、国を羽前から羽後にかえる。この国に人知れず二つの窯が細々と煙を続けている。誰も歴史を詳つまびらかにはしないが、出来る品の種類やら形やら釉からすると、どうしても新庄の窯の兄弟だと思える。いずれが上なのか分らぬがその血縁を疑うことが出来ない。秋田から横手に繋つながる線路の中頃に神宮寺じんぐうじという小駅がある。そこから南に一里ほど入ると窯場が一つ残されている。残されているといった方が感じがある。この北国の山間に寂しく煙を立てて幾許いくばくかの焼物を焼き続けているのは奇蹟である。出来たものは近くの大曲おおまがりや角館かくのだてに多少入るが多くは山間の部落へ散ってしまう。この窯場が歴史に綴られたことがまだないのも無理はない。
 出来るものは荒っぽい。だがそれだけに中から素晴らしい味のが出てくる。形は決して痩やせていない。釉がたっぷり乱暴にかかっている。外は多く柿釉かきぐすり、内は海鼠釉で色がなかなか美しい。無造作な所が品物に力を与え景色を添える。もとより田舎の勝手道具ばかりであるから小品はない。飯鉢めしばち、片口、甕かめ、壺、大鉢、擂鉢すりばち等を作る。出たものを選べば窯毎に一つや二つの名器は必ず得られるであろう。
 雪に深い所とて冬は休み、年に五、六回焚たけば仕事に忙しい方である。年の半なかばは農事で暮れる。今は六室も有つ窯一個だが、昔は三窯だったというから、相当近在を潤おしたものと思える。歴史は詳でないが凡そ百年ほどだと土地ではいう。詳しくは仙北郡南楢岡みなみならおか村である。それ故近在では「楢岡もの」で通る。格からいうと北国の窯ではこの窯のものが一番力強く朝鮮の会寧や明川に負けない立派なものが出来る。

羽後の栗沢

 楢岡より更に北に上る事数里、同じ仙北郡豊岡村字栗沢に世に匿かくれた一窯ひとかまがある。二里ほど隔たる角館町に多少荷を運ぶが、しばしば運ぶ程の荷さえもなく近村に消費される。半農半陶で、それも一家族で支えている窯だから品数が少い。それも不景気では年に二度か三度の窯がせいぜいである。これも世に残された小さな窯場の一つである。角館でも訪ねずば品物を見る折もなく窯の名を知る人もない。歴史を問うと近村白岩の窯から転じたものだという。白岩の焼物は遠く廃れたのでその顛末てんまつは詳でないが、ともかくこのような窯が残るのは羽後にとっては幸である。作るものは品種も形態も手法も釉薬も楢岡ものとほとんど同一で、慣れないとちょっと見分けにくい。この二つの窯に繋がりのあることは否めない。よく比べると栗沢ものはやや薄手で釉が綺麗である。それだけに一方では力に乏しい。甕の如きも海鼠釉は主に縁に掛けてあるだけで、内も外も大概は柿釉である。楢岡に比して生産が遥か少く今のままでは永続きはむずかしい。だが珍重すべきこういう窯を保護する道はないものか。角館の人たちでも冷遇している。店という店他処よそから来た「下くだり物もの」ばかりで、土地の人は地のものを愛さない。当然とも想えるが、時代が過ぎれば取り返しのつかぬ感じを嘗なめるであろう。そうならないように何とか更生の道を講じたい。北国には窯数が数えるよりないのであるから。

陸奥の弘前

 私たちは本州の北端についに達した。歴史を振り返れば、僻陬へきすうのこの国にもかつてあった窯の名を二、三は数え得るであろう。十数年前までは弘前在ひろさきざいに悪戸あくど窯があった。色は寒いが、並釉に白の「いっちん」で見事な絵を描いた。この窯が絶えたのは何とも惜しいが、これが最後で窯の煙は津軽から消えたのである。だが幸なことに市内に新しく窯を築いて志を立て起き上った陶工がある。京都の河井の所で長らく勉強している高橋一智君である。土地の産業に深い関心を有つ木村研究所の後援で仕事が始められた。この窯が順調に進捗しんちょくすれば陸奥むつの窯藝史に輝かしい一章が加わるであろう。私は同君の為人ひととなりをよく知っている。何を目指して努力の数年を送ってきたかを知っている。個人で仕事を民藝の立場に返せる人はめったにない。同君の焼物はそれに適し同君の意志はそれを貫くだろう。先日北海道で試作した幾多のものは充分に未来を保証してくれる。生れ出いずるこの窯の前途を私は心から祝福する。仕事場の棚に釉掛くすりかけを終った鉢や皿や茶碗が数多く並べられているのを見た。この頁を書き終らんとする頃、初窯の煙が雪空に黒々と立ち登っていることであろう。(この稿を書いてから数年たった。爾来じらい健実な生長を示してくれているのを何より祝福したい)。

底本:「柳宗悦 民藝紀行」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2012(平成24)年6月15日第9刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集著作篇第十二卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年1月5日初版発行
初出:「工藝 第三十九号」
   1934(昭和9)年2月25日発行

青空文庫

民芸館展示


民芸館展示




陶芸作家 辻村史朗 (細川護熙 師匠)

粉引茶盌



破れ井戸茶碗


辻村史朗 粉引茶盌 奈良県陶芸家 - 工芸品
画像www.maidencane.com

保存版】 ☆辻村史朗☆破れ井戸茶碗 伊賀 - www.comunicandosalud.com


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

参照動画

表千家茶道教室ー千楽庵
水屋仕事 お釜をかける準備 表千家茶道 - Behind the scenes work for tea ceremony
文京区千駄木の自宅で茶道教室しています。
初心者からお免状取得を目的としたお稽古まで。
お茶室ー千楽庵 お稽古動画  ホームページ→ https://senrakuan.com/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?