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「利休」は生きていた歴史のナゾナゾ

千利休「切腹せず、九州に逃げた」異説唱える研究者も

現代に通じる茶の道を拓(ひら)き、政治や武家、商人に多大な影響を及ぼした茶聖、千利休。
豊臣秀吉の逆鱗(げきりん)に触れたなど諸説ありながら、切腹という壮絶な最期を迎えた、と400年超にわたり伝えられてきた。
この通説に疑義を唱える研究者がいる。「利休は切腹しておらず、追放されて九州に逃げ延びていた」。茶の湯の歴史に詳しい文教大の中村修也教授は、こう主張する。

契機は9年前、「千利休が切腹した場所は京都か堺か」という質問を受けたことだ。研究者にとって「利休が京で切腹したのは自明のこと」(中村さん)だった。根拠を示すため、利休が切腹したとされる1591(天正19)年2月28日前後の史料を探った。意外な事実に気づく。同時代の史料の多くは、利休の切腹をあまり明確に書いていないのだ。
2022/3/30 08:00 産経新聞 以下割愛

https://www.sankei.com/article/20220330-CNPVFOQ6Y5MM3J4LOXNS3G5I7U/

この疑問に、日本人の何人くらいが納得するかしないか、アンケートしてみる価値は、そうそうないとおもいますが、やはり利休は、秀吉の逆鱗に触れて潔く切腹、というのが定番ですから、そのままが妥当かと。

「茶杓」から話が飛び火して、利休切腹まで、来てしまいましたが、まあ、日本人だったら、この歴史話しだったら通説程度はしっているので、また資料も沢山あったので、今どきの歴史「カリキュラム」も息抜き程度になるでしょう。

信長、秀吉の戦国戦乱の世、と云っても「関が原」壬申の乱や近世の関ヶ原の戦い慶長5年9月15日(1600年10月21日)を延々とやっている訳にもいかず、戦争と云っても足軽百姓が忙しい農繁期にはできないし、まして米生産者の兵隊を失いたくないし、当時傭兵システムもなかったようだし、将軍首長としても頭痛したでしよう。
その合間に地籍調査の「太閤検地」もやらなきゃいけないと多忙な天下運営だったようです。

良く会見テレビで「桐の紋」入りの台が設置されますが、日本政府を意味する家紋として日本国のパスポートにも使用されており由緒ある家紋として、いまだにその信長家の家紋が使われていることもしばしばです。
二昔前でしたら、昭和サラリーマン全盛ですから、武蔵五輪書で社員鼓舞したようですが、今どき敵対ガーファに勝てるはずもなく、その後の消えた30年意気消沈がすべてをかたっているようです。

ですから、利休が、自ら切腹したのか(成田言説ではない)、それとも諸説の「追放されて九州に逃げ延びていた」というのも、まんざらでもないし、永田町に鎮座する「将門首塚」と同様に、神格化された話しは、旧いほど天に向かうようです。(そんなことも「わびさび」の一つなんでしょう)

じっさい、そんなナニナニ譚話はあるようで、私も幼いころ体験してます。話は60年前の中学校にあった、小さなため池です。その裏が小高い山で竹林に囲まれていた。その頂上までは数百メートルしかないが、その繁みは、とても人が歩ける状態になく、まして昼間も暗く「なにかでそう」と誰かが云っていた。ですから、その頂上ーに何があるか誰も知らないし、「みてはならない」という不文律が、いつからかあったような気がしたが、その発祥元もわからない。

歴史は続く

そして30年経過して、その山の開発が始まった。時代は、雄略天皇墓発掘品が新聞で賑わっていたころで、社会は古代史に関心が向いていた。私も個人的に素人考古学らしいことをやっていたので、その山に関心があった。というのは自宅の前に山があり、毎日、その山が低く削らるのを観ていたからでした。また毎日、山肌が露出するので、ますます興味が湧きます(女のハダカににているような~)、そんなワクワク感がありました。(勿論立ち入り禁止札は在りましたが、なにしろ訳を知っているは私だけ)
半月位たって、そこからあるものが出てきました。まさに偶然の出会いで、土建業者がブル稼働しないと、それはできなかったという関東ローム層赤砂のな山肌でした。
話しを切り抜いて、結果を先に云えば「古墳時代」の埋蔵品が、削りだされてたのです。そこは「横穴古墳」群といった、昔の土地柄ですから、それがあっても不思議はない。ブルで搔きまわした跡ですから、あちこちに、それらが散乱して発見された。また、その知識がないと、考古学的価値を知ることもできないわけてす。あまり詳しくすると長くるので、写真を張って、理解してもらうのがいいでしょう。

また、最近知った、土地の由来である「字名」がそれを証明していたようです。その中学校敷地の東一体の約10町歩面積(現況 田、梨畑)の地名が「東・西・南」門前台と、役場発行の公図に書かれてありました。
ですから、私の発掘品が、その当時の副葬品であることがそれで証明されたわけですです。(それは今話している「利休と秀吉」時代よりもずっと古い千年前のことです)


古墳時代 ひらか



零台の掘削に使った和釘


なぜ戦国時代のエリートらは茶道に熱狂したのか

政治に利用、武士としての評価にもつながった
2022/10/24 15:30 東洋経済 石川 雅俊 : まめクリニックグループ創業者

茶道の新たな価値が注目され始めています。「近年、茶道を始めるビジネスパーソンが増えている」「ビジネスパーソンにとって有益な資質が養われる」と、メディアで話題を呼んでいるのです。
(写真:川崎市民団体Coaクラブ/PIXTA)
実際、茶道はビジネスパーソンの「癒やしとリフレッシュ」「仕事に使える教養の習得」「高い価値観を磨く人間修養」に大いに役立つとされ、また、「デザイン思考」「アート思考」などの右脳的思考も養われます。きめ細やかな配慮の心が育つことで、コミュニケーション力がアップするとともに、繊細な美を見出す感性が磨かれます。

不確かで複雑で曖昧でストレスフルなビジネス環境下で発揮する茶道の“効能”を、医師である著者が医学的に解説。書籍『大切なことはすべて茶道が教えてくれる』から、3回にわたってお伝えします(今回は3回目)。

1回目:「茶道は古い」と思う人に伝えたい、驚くべき効能

2回目:ビジネスに必要なセンスは「茶道」で身に付ける訳

天下人を魅了した武家茶道 戦国時代のトップエリート、天下人たちを魅了した武家茶道について、少し詳しくお伝えしておきましょう。「武家茶道」の登場は、茶道の様式において、根本精神をくつがえすような大転換でもありました。

利休の侘び茶は、小さな茶室で質素な道具を用いておこなわれていました。しかし武家茶道は、将軍はじめ武士たちへのもてなしを想定していることもあり、広間の茶室に意匠を凝らし、かつてとは異なる、比較的豪華な道具が用いられるようになりました。

また利休は茶室に身分の上下を持ち込みませんでしたが、古田織部は豊臣秀吉の意を汲んで、武家社会の厳格な主従関係を壊さないよう、身分の違いに応じて接遇を区別する作法を取り入れました。
これは「分相応の茶」といわれます。さらに、これまで茶室に刀を持ち込むことは固く禁止されていましたが、帯刀が許されるようになりました。しかし左腰に刀を差していると、左腰につけるべき袱紗(ふくさ)をつけることができません。そのため武家茶道では、袱紗を右の腰につけるようになりました。武家茶道には、ほかにも千家とくらべて細かな所作に違いがあります。

私が門下である「石州流伊佐派(せきしゅうりゅういさは)」も、武家茶道の流派です。

石州流では、正座の基本姿勢をとる際、ひざの上で軽く握りこぶしをつくり、その中に親指を隠すようにしまいます。これは武士として親指を守るための作法です。親指を失うと、刀を取って戦うことができません。武士にとっては命にかかわる重要な部位なのです。

またお辞儀をするときは、頭を深々と下げるのではなく、浅い角度で頭を下げます。これも同じように、いついかなるときも気を抜かず、周囲の気配に注意を払っていた武士の習慣の名残りとされています。茶道と密接なかかわりをもった代表的な武将としては、まず織田信長の名が挙げられます。信長は子どもの頃から型破りな人物であったことが知られていますが、その一方で文化的な家庭に生まれ、和歌や舞をたしなんだり、もともと公家の遊びであった蹴鞠(けまり)を楽しんだりする一面もありました。

そんな信長が茶道に熱中したきっかけは1568年、足利義昭とともに京都に入り、室町幕府の再興を果たした際、武士や豪商から「名物」と呼ばれるブランドものの茶器を数々、献上されたことだといわれています。

信長は熱心に茶の湯をたしなむようになると同時に、名物の収集に夢中になります。そして次々と領地を拡大する過程で、服従させた相手にその証として名物の茶器を献上させたり、強制的に買い上げるなどの「名物狩り」をおこなったのです。

茶道と政治の密接な関係

そして茶会を開いてはこれらの茶器を披露し、自らの権力を誇示しました。また家臣たちに茶会を禁じ、その一方で特別な手柄を立てた者のみに褒美として茶器を与え、茶会の開催を許しました。こうして武士たちの間で、名物の茶器や茶会の開催が特別な価値を持つことになったのです。

このように茶道を政治に利用するやり方は、後に豊臣秀吉から「御茶湯御政道(おんちゃゆごせいどう)」と呼ばれることになりました。また信長はこの間、千利休らを「茶堂(茶頭)」という役職に据え、茶会や茶器の管理、教育など茶道に関する仕事をおこなわせましたが、残念ながら信長によって茶会が「名物鑑賞の場」「権力誇示の場」となってしまったのも事実です。

信長自身の最期も、お茶と無縁ではありません。信長は出陣に先立って38点の名物茶器を安土城から持ち出し、少数の従者だけで京都の本能寺に入り、「本能寺の変」の前日には茶会を開いていました。そして翌未明、明智光秀率いる大群に急襲され、最後には火を放って自害しています。信長が集めた格別の名物も、2点を除いてこのとき焼失しています。

信長に次いで天下人となった個性派の怪人物、豊臣秀吉も千利休を茶堂に据え、茶道を政治に巧みに利用しています。

秀吉は信長以上に利休を重用して、お茶に関してだけでなく、さまざまなことを相談する相手として非常に頼りにしていました。武将、大友宗麟(おおともそうりん)は大坂城を訪れたとき、秀吉の弟で右腕を務めていた豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは利休に(相談するように)」と告げられています。

秀吉は利休に命じて大阪城内に茶室をつくらせたほか、人々が驚嘆するようなさまざまな出来事を巻き起こしています。1585年に、利休とともに宮中に参内して正親町(おおぎまち)天皇に献茶をおこなうと、同じ年、金箔を貼り巡らせた黄金の茶室をつくりました。

これは組み立て式の小さな茶室で、木製の壁や柱などに金箔をほどこし、茶釜や茶道具一式まで金でそろえたものです。秀吉はこれを、京都御所をはじめさまざまな場所に運んで重要人物をもてなしました。

さらに各地の大名や豪商を一堂に集め「大阪城中大茶会」を開いたり、町民や農民までを招いた荒唐無稽な大規模イベント、「北野大茶会」を催すなどしています。

「北野大茶会」は、「高名な茶人や茶の湯好きを一堂に集結させ、名物茶器をかき集めた大茶会を催そう」という秀吉の思いつきからおこなわれました。北野の開催場所には4キロ四方にわたって800軒ともいわれる趣向を凝らした茶屋が建てられたといいます。

当日、秀吉は午前4時に駆けつけ、550人あまりにおよぶ茶人と、数えきれないほどの見物人で大盛況となりました。秀吉はこの日、貴賤かまわず人々に声をかけて上機嫌に過ごし、これによって茶の湯を庶民に親しませることにもつながったといわれています。秀吉は合戦場にも利休をともない、お茶をたてさせていました。また小牧・長久手の戦いのときには、合戦の最中にもかかわらず、利休のお茶を飲むため城に帰ったと伝えられています。このとき秀吉は「長い戦の鬱気(うっき:気が晴れず重苦しい状態)を散じたいので、茶の湯をつかまつれ」と命じて茶会を開かせています。

茶道を求め熱中した武士

初代将軍、徳川家康も茶道を好み、将軍の地位につく以前から千利休、古田織部、千宗旦らの茶会にしばしば参加していたことが知られています。

大切なことはすべて茶道が教えてくれる。

家康は茶会を好み、茶器の収集にも熱を上げ、晩年に過ごした駿河の駿府城では、美味しいお茶を飲むため、山間に「お茶壺屋敷(お茶蔵)」まで建てていました。これは夏でも冷涼な環境に置くことで、お茶がじっくりと熟成され、芳醇な味わいになるためです。

このように武士たちは、さまざまな理由で茶道を求め熱中していきました。

明日をも知れぬ状況の中、疲弊した心を癒やし、勇壮果敢な闘志を湧き起こそうとお茶を求めた者もいれば、頂点に立つ者にふさわしい人格を養うため茶道をたしなむ者もいました。また豪華で美しい茶道具に見せられ、コレクションに熱を上げた武士もいれば、自身の権勢を見せつけるために、大規模な茶会を催す武士もありました。

そしてこのような状況の中、茶道は教養、豊かさ、格式などの象徴にもなり、茶道に秀でているかどうかが、その人物の武士としての評価につながるようになりました。3代将軍、家光が定めた制度の参勤交代によって全国に伝えられ、茶道は武士たちの「必須の教養」となっていったのです。
著者 石川 雅俊 まめクリニックグループ創業者

画像 茶戦国時代のトップエリートたちも茶道に熱狂していました(写真:川崎市民団体Coaクラブ/PIXTA)
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