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アフリカ「マラウイ」変奏曲

「なにもない」と空疎なシンドローム(症候群)という時代の裏

今朝の朝は、久しぶりの朝焼け空で、空気も乾燥していて、自転車に乗る風がとても心地よかった。

行く先々の田圃風景では早朝の鳥が忙しく鳴いていて、まるでそれは音楽会のようでもあった。それを良く聴いていると小節ごとの音程もしっかりしていて、まるでコード音程の曲のようにもきこえる。
と、はたと思ったのは、まったくのその逆で人間は、誕生有史以来、それらの動物と運命を共に生き、生存して、そうしたものから文明を育んだ、と今朝、その野鳥のさえずり声で気分が発起した。同時に人間の浅はかさと、もともと、その領土(Earth)は、野生動物の棲み処、だったのであることに気付かされた。

いつものように、パソコン起動し、一覧を覗いて記事日割りを選択してみるが、これといった国内ニュースがないことは、逆説論でいいことなんだろう。

そんな中、はるか遠来の地アフリカで、飛行機が消息不明で、そこには国の閣僚数名がのっており、生存絶望的であるとニュース記事にある。

その国の名が、アフリカ「マラウイ」と聞いて、まったく知らない土地だったし、そのニュースと訊けば紛争ぼっ発か、と連想したが、果たして、その記事を書いて誰が読むのだろう、と不安は払拭されない。

しかし、そのまったく知らないアフリカの国の一つが、突然クローズアップされる、というのは最近頻発しているので、その「マラウイ」について検証することにした。
結果的には、欧米列強国植民地時代の暗黒政治が、にわかに暴露されていった一定の図式で示される現代構図のようだった。

また、そうした「人類負の遺産」は、そのアンチ派とっては絶好のネタであり、多くの映画も作られていた。
その中の代表的名作「スパイゲーム」を紹介して、その紛争戦争の発加点は、誰の手によって引火しているのか、併せて検証した記事を書いてみる。


マラウイ副大統領搭乗の軍用機発見、全員死亡 
2024/6/11(火) 21:02配信ロイター

[ブランタイア(マラウイ) 11日 ロイター] -
アフリカ南東部マラウイのチャクウェラ大統領は11日、チリマ副大統領が乗った軍用機が墜落し、副大統領を含む10人全員が死亡したと発表した。

軍用機は北部のムズズ空港に向けて現地時間10日午前に首都リロングウェを離陸した後、レーダーから消え、捜索していた。

チャクウェラ大統領は国民に向けた演説で「大変な悲劇が起こった」と述べた。捜索隊が丘の近くで軍用機を発見。機体は大破し生存者はいなかったと説明した。 記事引用

てはその「マラウイ」とはアフリカのどの緯度に位置し、何が起きているのか、資料を漁った。(興味のない方にとっては馬に念仏、ネコの反SNSであって奨励は出来ない模様)

マラウイってどんな国? マラウイはアフリカ南部に位置し、ザンビア、タンザニア、モザンビークと国境を接する内陸国です。

ウイキペディア

 アフリカ大地溝帯の南端の裂け目に水がたまったマラウイ湖が南北に細長くのびていて、マラウイはその西岸に沿って、東西は狭いところで90km、広いところでも160kmほど、南北は約900kmとたいへん細長い形をしています。マラウイ湖は世界遺産に登録されています。その面積は九州の8割ほどで、国土の約2割を占めています。国土のほとんどは標高1000m前後の高原にあり、気候は温帯です。南部は低地で、熱帯となっています。

 主な産業は農業で、自給用のとうもろこしなどが生産されているほか、輸出用に葉たばこの生産が盛んです。マラウイ共和国。マラウイはチェワ語で「炎」を意味する。

マラウイ共和国歴史 ウイキペディア 詳細は「マラウイの歴史」参照

かつてこの地にはサン人が居住していたが、15世紀にチェワ族を中心とするバントゥー系の複数の部族が連合してマラヴィ(Maravi)と呼ばれるようになり、マラビ帝国(マラヴィ帝国、マラウィ帝国とも)が建国された。マラビ帝国はモザンビーク方面から到来したポルトガル人やスワヒリ都市のアラブ人との交易を行いながら、19世紀末までこの地を統治した。
イギリス中央アフリカ保護領の切手(1897年)

スコットからの強力なキリスト教宣教活動による結果、1891年にイギリスの保護領となり、1893年にイギリス中央アフリカ保護領(1893年 - 1907年)と改称されたのち1907年にニヤサランド保護領(1907年 - 1953年)となった。1915年には牧師のジョン・チレンブウェが反乱を起こすものの鎮圧されたが、この反乱はマラウイで植民地支配への抵抗の象徴とされ、マラウイ・クワチャ紙幣にはチレンブウェの肖像が使用されている。第二次世界大戦後、1953年に北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)、ニヤサランドをあわせたローデシア・ニヤサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦、CAF、1953年 - 1963年)が成立した。
これは、地下資源の豊富な北ローデシア、製造業が盛んな南ローデシアと、黒人労働力の供給先であるニヤサランドを結びつけて経済発展を図った白人入植者(アングロアフリカン)の策であった。

しかし、1958年11月23日の全アフリカ人民会議(英語版)(AAPC)に出席したバンダをはじめとした急進派の独立運動がアフリカ各地で高揚した。

ニヤサランドでは1959年にローデシア・ニヤサランド連邦への反対運動を続けたバンダがグウェル(現ジンバブエ領内)に投獄されていて、いわゆる1960年の「アフリカの年」を迎える中で連邦分離の動きは止まらず、連邦の維持は困難になっていた。1962年には連邦内の自治権を獲得。同年には連邦離脱の権利を認めさせ、翌1963年にローデシア・ニヤサランド連邦は解体した。

独立 1964年7月6日にニヤサランドはイギリス連邦内の英連邦王国の形式で独立、国際連合にも加盟した。初代大統領はヘイスティングズ・カムズ・バンダ。バンダは民主化がなされた1994年まで大統領職にあった。
バンダは就任後すぐに独裁傾向を強め、1966年にマラウイはマラウイ会議党 (MCP) による一党制国家になり、1970年にはバンダは終身大統領の座についた。
外交的には、経済発展の必要性から、マラウイ国民の主要な出稼ぎ先であったアパルトヘイト時代の南アフリカ共和国とも外交関係を維持した。
ほかにも、アフリカにおける植民地帝国を維持しようとしていたポルトガルとも連携してモザンビーク経由で沿岸部との繋がりを持とうとするなど、アフリカ南部の白人政権への接近がみられた。そのため、首都改造や鉄道網整備に際して、南アフリカ共和国から経済支援を受けた。また、この時代には反共の観点から台湾(中華民国)との友好関係が保たれた。1992年になるとバンダの圧政に対し国内の反発が強くなり、1993年の国民投票で複数政党制が認められ、民主的に行われた1994年の選挙では統一民主戦線のバキリ・ムルジが大統領に当選した。

2004年の選挙では同じ統一民主戦線のビング・ワ・ムタリカが大統領に当選。ムタリカは、2005年に民主進歩党(DPP)を旗揚げし、2009年に再選されたが、2012年4月5日に急死した。

4月7日に副大統領で民主進歩党から除名されて人民党を立ち上げていたジョイス・バンダが憲法の規定により大統領に昇格し、マラウイ初の女性大統領となった。
しかし、2014年5月20日に実施された2014年の選挙で、ビング・ワ・ムタリカ元大統領の実弟で、民主進歩党のピーター・ムタリカが当選して第5代大統領に就任した。2019年の大統領選ではムタリカ大統領が再選されたが僅差での勝利となり、野党が選挙不正を訴え抗議する事態となった。
ウイキペディア

そうした情報から類推すると(ロシアの傭兵のリーダープリゴジン氏は事故というより暗殺が疑われます)他のコメント~
が考えられますが、そうした確証は今のところどこにもない。


ウイキペディア


スパイ・ゲーム』わずかなヘリ撮影シーンに垣間見るトニー・スコットの意匠

スパイ・ゲーム 2019.08.02牛津厚信 CINEMORE(シネモア) https://cinemore.jp/jp/erudition/841/article_842_p1.html

映画 スパイ・ゲーム

Index  硬派で、熱く、魂のこもったトニー・スコット映画の魅力
投影された、レッドフォードとブラッド・ピットの師弟関係
異なる演技アプローチをどう折り合わせるか?

 8月になると、この暑い季節に亡くなった映画監督トニー・スコットのことを思い出す。

 彼は、兄リドリー・スコットみたいな格調高さを追究するわけでもなく、かといって商業主義に迎合するような生ぬるい姿勢を見せることもなかった。チャカチャカと早回しで動く映像がトレードマークのため、どこか軽く見られることもあるが、その実、遺した作品はどれも硬派で、熱く、魂のこもったものばかりだ。

 スコット作品ではとにかく様々な要素が複雑に絡まりあう。だが決してそれが混沌に陥ることはない。演出の采配が極めてクレバーゆえ、不思議とその状況は観客の頭の中でわかりやすい一本の筋となってスムーズに理解、吸収されていく。また、ムダな説明シーンをできるだけ削ぎ落とし、作品の核をできるだけスピーディーかつダイレクトに観客へ届けようとするのも、トニー作品の特徴だった。

 これらの全てが懐かしい。あのチャカチャカした映像にもう一度会いたい。彼の新作が劇場にかかることは二度とないのかと思うと、寂しさがこみ上げてくる。

『スパイ・ゲーム』はトニー・スコットが2001年に発表したサスペンス・アクション大作である。もともとは『キャラクター 孤独な人の肖像』(97)でアカデミー賞外国語映画賞を受賞したオランダの映画監督マイク・ファン・ディムのハリウッド進出作として準備されていたそうだが、幾多の事情が重なって彼は降板することとなり、代わりに手堅い人選としてスコットに話が回ってきたという。

 全体の3分の2が回想シーンから成る本作は、一つ作り方を間違えると現在地のわかりにくい映画に陥るリスクがあった。だがスコットはまさにそこに勝機を見出した。アメリカ、ベトナム、ドイツ、ベイルート、中国という国々が織り成す回想シーンを、音や映像で描き分けることで、観客を客席にいながらにして世界各地へといざなう面白い効果が生まれるのではないか、と考えたようだ。

 そのため、各国のシーンでは色調がガラリと異なっており、そこにほとばしる温度、空気、陽光、街の外観、人々の営みも全く違う。これらの要素は本作のリアリティを高める大きな鍵となった。

 そして、本作のもう一つの見どころと言えば、やはりキャストに尽きるだろう。

 2000年代の多くの作品で名優デンゼル・ワシントンを起用し続けたスコットだが、本作はロバート・レッドフォードとブラッド・ピット(彼は『ボーン・アイデンティティ』(02)のオファーを蹴って本作を選んだ)という二大俳優の共演をダイナミックに描いた貴重な作品となった。このキャスティングを是非にと後押ししたのも、先に決まっていたスコットだったという。

 レッドフォードとブラッド・ピットは、かの名作『リバー・ランズ・スルー・イット』(92)で監督、主演をそれぞれ担った師弟コンビでもある。当時から「似てる!」と言われ続けた彼らが、あれから10年ほどの歳月が流れ、本作でも現実の延長線上のようにCIAのベテランと新米という師弟関係を演じているのである。これは単なるフィクションとドキュメントの違いを超えた、非常に興味深い事態と言えよう。

 ここでもう一つ重要となるのが“演技アプローチ”の違いだ。レッドフォードとブラッド・ピットは、役作りの方法や本番への臨み方が全く異なるのである。

 まず、レッドフォードは入念に脚本を読み込み、さらに役柄について入念な研究を重ねるタイプ。そうやって演じるキャラクターを自分の中にしっかりと作り上げて、どんな事態にも対応できるようにしてから現場へと臨む。

 一方、ブラッド・ピットはどうか。もちろん彼も脚本を読み込んで研究を重ねる。だが撮影現場ではむしろ、自分の中に巻き起こる瞬発的な「ひらめき」を大切にするタイプだ。

 それゆえ、事前に大方の疑問を解決して現場に臨むレッドフォードとは違い、ブラピは演じながら悩んだり、ふと思いついたことを「こういったアイディアはどう?」と提案して撮影を止めてしまうことも多々あったという。

 制作進行の観点から言えば少しばかり迷惑ではあるものの、しかし主役の彼にしか見えてこないビジョンというものは確実にある。そしてスコット監督によると「ブラッドにはそのシーンを飛躍的に高める“何か”を、直感的に見つけ出す才能がある」とのこと。彼がのちにプロデューサーとしてプランBを率いることになるのも十分に納得出来る話である。

 スコット監督は当初、このアプローチの異なる二人が果たしてうまく噛み合うのかどうか心配だったそうだ。しかしさすが『リバー・ランズ・スルー・イット』で築かれた師弟関係は磐石なものだった。

 たとえ撮影中に考え方の違いが芽生えても、二人は相手を尊重しあいながらギャップを乗り越えていった。このあたりの関係性も、互いに過去のわだかまりを乗り越えていく『スパイ・ゲーム』の主人公たちのそれと、見事なまでに共鳴している。こうして彼らの演技上のケミストリーは、予想をはるかに超える高品質のレベルへと花開いて行ったのだ。

 考え方の違いを乗り越え、密にコミュニケーションを築きながら本作を切り開いていったのはトニー・スコット監督も同じだ。とりわけ彼にとってレッドフォードは尊敬する監督でもあったため、最初は「監督を監督すること」にとても緊張したという。

 両者の監督としての采配の振るい方はまるで違う。レッドフォードは一対一のシンプルな化学変化を好む人。一方、トニー・スコットはあらゆることを試したり、いろんなものを一緒くたに投入して「そこで何が起こるのか」をじっくり検証する。そんな自分のやり方を理解してもらえるのかどうか、スコットは正直心配だった。が、しかしレッドフフォードはしっかりとその違いを見極め、監督の狙いに応えようと努力してくれたという。

 だが、一つだけレッドフォードが疑問を呈した場面があった。それは中盤に登場する屋上シーン。心から信頼を寄せていたベテラン諜報員(レッドフォード)に裏切られる形となった新人ビショップが「なぜあのようなことをしたのか?」と問いただすシーンだ。

 このシーンでトニーが持ち出そうとしたのが「ヘリ撮影」だった。屋上で一対一の会話を交わす二人の姿をヘリが360度旋回しながら活写する。これはトニー・スコット作品を愛する人にはおなじみの、今となってはまさに「お家芸」とも呼ぶべき手法だ。

 レッドフォードはこのような重要な場面でヘリを飛ばすことに納得がいかなかった。これではちっとも演技に集中できないし、そもそもヘリを飛ばす必然性があるのかわからない。撮影中も「これ以上ヘリが近づいたら、俺は帰るぞ」と冗談交じりに口にするほどだったとか。

 この時の意見の相違は、未だに伝説として語り継がれている。ただ、トニー・スコットには確かな勝算があった。彼はただ絵面的なかっこよさを狙って空撮するようなことは決してしない。このグルグルと常軌を失ったような旋回は、今まさに裏切られて足元がぐらつくビショップの「不安と怒りと戸惑い」をストレートに表現したもの。そこには心象表現としての理由付けがきちんとあったのだ。

 しかもヘリ撮影によってこういった心象表現が可能なのかどうか、トニーは『スパイ・ゲーム』直前に撮影したテレコム・イタリアのCMにて一つの実験を行っていた。マーロン・ブランドを山頂に立たせて、その姿をヘリで活写することで、この手法の効果を試していたのだ。表現される心象模様は全く異なるものではあるものの、このCM映像は『スパイ・ゲーム』でのヘリ撮影の、まさにプロトタイプというべきもの。この時の強い手応えもありトニーは「いける!」と判断したのである。

 結果、当初は納得していなかったレッドフォードも、いざ完成した映像を見て「なるほど、これがやりたかったのか!」と得心した。こうして名優を前に自分なりのやり方を堂々と貫けたことによって、スコット監督もまた大きな自信を得ることができたという。ほんのわずかなシーンではあるものの、このヘリ撮影には大きな意味が込められていたわけだ。

 トニー・スコットがこの世からいなくなって7年。彼の新作が劇場にかかることはもう2度とないが、我々は珠玉の名作から多くの意匠を、まだまだ汲み取ることができる。そして彼が作品内に封じ込めたダイナミックな魂の躍動は、今なお微塵も古びることなく、観る者に大きな感銘を与え続ける。その感動の連鎖が続く限り、彼が過去の人となることはない。

スパイ・ゲーム 2019.08.02 文: 牛津厚信 USHIZU ATSUNOBU
1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンII』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。


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