日産自動車履歴

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日産自動車、日立製作所、日本水産、損保ジャパンの誕生

同和自動車 満州にあった同和自動車の組立工場

 1930年代を代表するコメディアン・古川ロッパは、死の直前まで日記をつけていたんですが、昭和11年(1936)6月14日にみんなで豊島園に行ったことが書かれています。

《新宿駅へ一旦集り、僕はシボレー、他の連中はダットサンに分乗十何台、豊島園へ》




 ロッパ一行はタクシーに乗ったわけですが、当時のタクシーはメーター制ではなく、市内ならどこへ行っても1円だったため「円タク」と呼ばれていました。
 円タクのほとんどはシボレーかフォードで、まだ国産のダットサンはそれほど多くありません。ですが、当時で年1万5000台ほど生産されており、小型車としては大成功を収めていました。
このダットサンは、2002年まで使われていた日産自動車の大ブランドです。もともとは日本初の国産自動車メーカー・快進社が製造した車ですが、1931年に戸畑鋳物に買収され、それが1934年に「日産自動車」に社名変更したのです。

 今回は、このダットサンから、巨大財閥「日本産業」の歴史を振り返ります。この日本産業、実は三井・三菱を上回り、満州を支配した大コンツェルンなんですよ。創業者・鮎川義介(1880-1967) 日本産業を創業したのは、鮎川義介という人物です。明治の元勲・井上馨の姪を母とし、旧長州藩士を父とし、山口県に生まれました。東京帝大機械科を卒業後、アメリカの鉄鋼企業で労務者として働き、技術を習得しました。  鮎川は、見習い時代の話を、後にこう語っています。《向こうの労働者は堂々たる体躯の持ち主だから、その連中に交じって一緒に働くのは気後れしてならなかった。ある日、ポーランド人と一緒に「鋳物の湯搬び」をすることになった。これは、反射炉から真紅の熔鉄を鍋にくみ取って、大急ぎで鋳型まで運んで注ぎ込む作業なのだが、日本なら4~5貫の鍋なのに、こちらでは11貫の鍋。それを持って何度も往復するものだから、死ぬほどの苦しみだった。
 ところが、意外にも2週間ほどでこの作業に慣れてきたのは自分でも驚いた。腕力が強くなったのではなく、重いものを持ち運ぶコツを覚えたからだろう。
 実際、体の大きな西洋人は、ただ自分の体力だけを使って不器用に運ぶから、それ以上のものは持ち運べない。しかし、日本人は腕・腰・膝など五体のバネをうまく使うので、体力以上のものが扱えるのだ。 西洋人は体力や腕力で勝っているが、日本人には手先の器用さと動作の機敏さがある。この能力を発揮すれば、西洋人以上の仕事を成し遂げることは可能だとわかった。
 当時、日本人の労働賃金はアメリカ人の5分の1だったから、もし組織や規律や製造工程が同等であれば、輸入品を駆逐できるし、輸送費や関税や金利のハンディキャプがあっても、逆に向こうに輸出できる品物が多々あるはずだと信じるに至った》(『日産コンツェルン読本』より意訳)
 帰国後、鮎川は井上馨の支援の下、戸畑鋳物を創業します。 その後、恐慌で倒産寸前だった義弟経営の久原鉱業を引き継ぎ、昭和3年(1928)、同社を日本産業(日産)と改称しました。
さて、日産はダットサンを量産しますが、戦争が長引くうちに、戦場で役に立たない小型車は製造が制限されるようになりました。
 これは、外国車を排除するため、1936年に施行された「自動車製造事業法」に基づいています。この法令で、日産自動車と豊田自動織機自動車部(後のトヨタ)、東京自動車工業(後のいすゞ)の3社のみに自動車製造が許可されたんですが、第1条に原動機の気筒容積750㎤以上を自動車とすると明記されたことで、722ccのダットサンは製造ができなくなったのです。
 鮎川は無念だったでしょうが、やむなくトラックを製造していました。
 そんなある日、鮎川のもとに、関東軍の参謀が訪れてきました。そして、「ダットサンやトラックを満州で作ってもらいたい」という意外な申し出がありました。
 しかし、鮎川は「満州には部品工業がないから無理だ」と断ります。すると、後日、満州の権益を一手に握っていた南満州鉄道の調査部から「鉄鉱石、石炭などの地下資源はきわめて豊富にある。一度、実地を見聞してほしい」と資源調査報告が届けられたのです。
《「あんな広い土地を、鉄道や自動車で廻ってもわかるものではない」。 鮎川は1ヵ月をかけ、空から飛行機で満州全域を視察した。「北米大陸と地勢、気候、資源なども非常によく似ている。これを開発すれば、アメリカ以上のものになり得る。満州の開発は日本とアジアを一変させるだろう」》(『ダットサンの忘れえぬ七人』)
 こうして、鮎川は満州という広大な荒野への参入を決意するのでした。

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「日本の生い立ち」藤田組贋札事件

1878年12月に各府県から政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、政府内は騒然となった。やがて1879年9月15日、「ドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金にしようと企てた」という疑惑によって藤田の会社に家宅捜索が入り、藤田は又中梧一・藤田辰之助・藤田鹿太郎・新山陽治・佐伯勢一郎・河野清助・入江伊助ら7名と共に拘引され、10月16日東京に移送される。

12月20日何ら証拠がなく藤田は無罪放免となった。その後、1882年9月20日、神奈川県愛甲郡中津村の医師兼画家工・熊坂長庵から2円紙幣の贋札(2000枚行使)815枚と用紙及び印刷器具が押収され、冤罪が晴れた。 なぜ濡れ衣を着せられたのか。ひとつにはまず長州人脈を頼りに、若くして大金持ちになったことを妬まれたことがあった。
もうひとつは、背後に薩摩と長州の勢力争いがあった。薩摩側は西郷隆盛の失脚や大久保利通の死、と次々に有力者を失い、長州に押されていた。そこで薩摩閥が支配していた内務省警視局を動かして、長州系の大物の不正を暴く戦術が練られた。これより前に、長州閥の山縣有朋が政商・山城屋和助の汚職事件に連座したとして、危うく政治生命を失いかけたことがあった。

ニセ札に関する密告情報を得た警視局が井上馨と伝三郎を追い落とす同様の好機であった。井上は明治6年(1873年)、大蔵大輔のとき、尾去沢銅山(秋田県)に関連して、当時の山口県参事(知事)・中野梧一と結託して不正を働いたとして追及され、一時政界を追われた。
その中野も当時の藤田伝三郎商社の共同経営者で、やはりニセ札事件で検挙されている。井上・中野・伝三郎の3人は黒い糸でつながっているとの見方があった。その見方を世間に定着させることになったのは、この事件の直後から主として藩閥政治に批判的で自由民権運動に共感する講談師たちが語り始めた伝三郎の伝記だった。この伝記は虚実とりまぜた内容だったが、伝三郎は自身の主義として、一切抗議も弁明もしなかったから、事実としてまかり通ることになってしまった。

財閥の形成

ニセ札事件の直後は、陸軍や大阪府からの発注が途絶え、苦境に立たされた。
しかし明治14年それまでの藤田伝三郎商社を藤田組に組織替えして再出発を図った。藤田組は鉄道建設をはじめ、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの工事を請け負い、建設業で躍進するとともに、伝三郎は同16年には大阪紡績(東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。さらに17年、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けると、技術革新に力をいれ、明治30年代後半には、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。そのほか、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、山陽鉄道(国鉄に吸収)、宇治川電気(関西電力の前身)、北浜銀行(後に三和銀行)などの創設に指導的役割を果たした。毎日新聞も行き詰った「大阪日報」を伝三郎が大阪財界人に呼びかけ「大阪毎日新聞」として再興したものだ。このように、多角的事業経営に乗り出し財閥を形成していった。

児島湾干拓事業

特筆すべきは、児島湾の干拓事業である。この計画は岡山藩の時代からあり、一部着工されていた。明治になって旧藩士たちが工事を進めようとしたが、資金難から伝三郎を頼ってきた。採算の見通しは持てなかったが、大がかりな国土創成計画に夢を感じ引き受けた。
このあたりは、政商という世間の評を超えたスケールの大きさである。干拓事業は明治17年(1884年)に出願、22年(1889年)に認可された。地元の反対運動、不況、大洪水などあり着工したのは認可から10年後の明治32年(1899年)となった。全部で5500町歩の広大な海を7区に分けて埋め立てた。第1区から5区までは藤田組の単独施工で、昭和25年(1950年)に完成した。第6区は藤田組と農林省と農地開発営団が手がけた。全部が完成したのは昭和38年(1963年)で、着工以来実に65年の歳月がかかったことになる。


この功績によって、第2区を中心とした干拓地に作られた村には藤田の地名がつけられた。これは後に同村が岡山市に合併された後も地区名として残されている。そのため岡山市域においては「藤田伝三郎」と言えば「藤田村を作り上げた人」と教育され、岡山出身者には前述の功績・事件を知らずとも、何をおいてもその点で地域に殉じた大いなる偉人として認知されている。 ウイキペディア






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