見出し画像

エクセル家計簿がきになる

「性と金」の欲は不浄とされるが、必須生きる糧である

日本において、セックスタブー視は、厳格な宗教倫理観において律していると考えられるので、表面上ではあまり語ることはないのが実情で、云ってみれば闇世界の風物として顕著であり、またセックス産業は世界標準となっているようです。

と云うのも昨日の記事では、日本全国に残る性象徴シンボルが根強い人気を誇っているのは、そのせいでしょう。

初めに神ありき、その語りではこんな文字が並ぶ、

『古事記』や『日本書紀』にみられる天岩戸の神話である。アマテラスが天岩戸の奥に引き篭もり、入り口を大岩で塞ぎ、高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍(まが)が発生する。「天鈿女命(あめのうずめのみこと)が、香具山(のかぐやま)の天の日陰のかずらをたすきにかけて、天のまさきをかずらとなし、天香久山の小竹はを手草に結びて、天の岩やにうけふせて踏みとどこし、かんがかりして胸乳をかいで、裳緒をホト(女陰)に押し垂れた」。

直接的な性交の描写だが、なにしろ神話なので、取り締まりが及ばない。

もう一度、その復習をしてみましょう。
古代の性器崇拝思想 全国に存在する「生殖器信仰」の意味とその変遷
尊いものとの性的交わりによって愛する人と結ばれる。「市川 蛇蔵」著 

生殖器崇拝は、多産や豊穣などをもたらす性行為の呪術的な力を認めるもので、そうした信仰は各地に存在する。 その威風を伝えるべく、性器の誇張した話や巨大化させて絵に描いたり偶像に作ったりすることも古今東西で散見されている。女性の性の特徴としての乳房の突起や腹部の膨張、そして女陰は、母なる女性の敬重と讃美、そしてあらゆるものを産み出す神的象徴として、古代の人々に崇められてきた。ここで思い起こすのは、『古事記』や『日本書紀』にみられる天岩戸の神話である。
アマテラスが天岩戸の奥に引き篭もり、入り口を大岩で塞ぎ、高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍(まが)が発生する。「天鈿女命(あめのうずめのみこと)が、香具山(のかぐやま)の天の日陰のかずらをたすきにかけて、天のまさきをかずらとなし、天香久山の小竹はを手草に結びて、天の岩やにうけふせて踏みとどこし、かんがかりして胸乳をかいで、裳緒をホト(女陰)に押し垂れた」(岩屋の前で激しく踊る天鈿女命の額には、ねっとりと脂汗が滲み出し、頬は赤く火照っている。滑らかな象牙色の肌、上下左右に揺れるカタチのいいお椀方の乳房と薄桜色の胸の突起、狂おしくもなまめかしい曲線を描く腰から吊された淫ら縄は、美麗な太腿がくなくなと身動きするたびに揺れ動き、小判型の薄い繊毛が見え隠れする。その匂い立つ情感に、高天原は大いに揺れ、八百万の神たちは汗ばむほどの昂ぶりを感じていた)

そして時代が下ると、神々は領土拡大に手を染める。

房総半島における日本武尊伝説  
ヤマトタケル尊とは 房総半島各地におけるヤマトタケル尊の伝説ヤマトタケル尊が三浦半島から暴風雨の中房総半島の渡ったことは、記紀には詳しく書かれていませんが、日本書紀ではヤマトタケル尊はすぐに上総から陸奥国に入ったと書かれており、また、古事記では上総の国に渡ることができたとしているが、房総半島での出来事は全く書かれていない。
しかし、古老の目碑や里人の伝承、神社の社記などにはヤマトタケル尊がこの地に長く滞在し、蝦夷らを征伐したことや、弟橘媛の為の陵を造った事などが多く伝えられています。これらは、千葉県内に残る歴史書にも紹介されています。また、千葉県内にはヤマトタケル尊や弟橘媛を祭神とする神社がかなり多く見られる。祭神はヤマトタケル尊でもその由緒がはっきりしない神社もありますが、由緒がはっきりわかっている神社も多いく、これらの神社を紹介する。

房総半島とは房総半島という呼び名は、昔の律令制に基づく地方行政区名だった安房(あわ)の「房」と上総と下総の「総」が合体したものです。この国名は飛鳥時代から明治時代初期まで使われていました。
「総」は良い麻という意味があり、総国は良い麻がとれる地という事になる。また、安房という地名は四国の阿波国にいた「天太玉命(あめのふとたまのみこと)の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)が新開拓地として房総半島南部に上陸し、開拓を始めました。この忌部氏が住んだところを阿波→安房と呼んだという。
当時は、都を出た役人が後の東海道を通って東に向かい、房総半島に至るのに北部の陸路で行くか、三浦半島から海路で渡るかの二通りの道を利用した。通常は海路の利用が多く、その為に房総半島の中部が都に近いので「上総」とし、その北を「下総」と定められた。「古事記」や「日本書紀」は飛鳥時代に天武天皇の命により編纂され始め、奈良時代に成立しているので、ヤマトタケル尊の時代には使われていない国名も書かれている。

房総半島上陸地の諸説房総半島西岸には、ヤマトタケル尊が上陸したという伝説を伝える神社がありますが、その地が幾つもあるのを地図から想像して見ました。走水から船出したヤマトタケル尊は、弟橘媛の入水により突然の暴風から難を逃れる事が出来た。そして房総半島で最初に上陸した土地は、富津か木更津のどこかであったと思われる。伝承をもとにすると上陸地点の海岸は、八剱八幡神社近くで、三舟山近く、金谷神社、みさご島付近のどこかで、軍船の停泊地が館山湾内ではなかったかと思われる。古代の房総半島は、海水面は7mほど高かったことから、現代の富津岬は海面下であり、ここは干潟と思われる。
ヤマトタケル尊の船の部材があると言われる金谷神社や、弟橘媛の陵と伝えられているみさご島付近は、古代と位置はほぼ変わらず、海が前に広がっています。八剱八幡神社と三舟山は現在は海岸から離れていますが、大和時代には海岸近くにあったと思われる。その為、八剱八幡神社付近に上陸したとも考えられる。
日本武尊の伝説は日本全国に残されているが、私達の住む千葉県にも多くの伝説が残されている。第12代景行天皇の皇子(みこ)として生まれた皇族で、日本書紀では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、古事記では「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記されている。現在の漢字表記では一般に「日本武尊」が通用される。

第14代仲哀天皇の父に当たり、熊襲征討や東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄です。

日本武尊は景行天皇12年(西暦82 年)に父親は景行天皇、母親は播磨稲日大郎姫の二男として生まれ、景行41年(西暦111年)に29歳で逝去しています。日本書紀では、双子として誕生した際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことから大碓尊と小碓命の名が付けられたという。尊の用字は皇位継承者を目指す人物に使用されるものとされている。幼名を小碓尊(おうすのみこと)、青年期を日本童男(やまとおぐな)、成人期には日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊の配偶者には6名が記されている。
妃 両道入姫皇女(ふたいじりわけびめのひめみこ) ―垂仁天皇皇女で 14 代仲哀天皇の母親妃 吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ) ―吉備武彦の娘妃 弟橘媛(おとたちばなひめ) ―穂積氏の忍山宿穪の娘(9 男を生む)妃 山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)ー日本書紀に記載なし

妃 布多遅比売(ふたじひめ)―日本書紀に記載なし 妻 (日本書紀では名は不詳、旧事本記では橘姫)※ 「古事記」では、倭建命のひ孫の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地に征討に出る雄略天皇などに似た事績があることから、4 世紀から 7 世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。

ヤマトタケル尊の西征と東征

ヤマトタケル尊は、4世紀頃に景行天皇の命を受けて西征(南九州の熊曾建(くまそたける)や出雲の出雲建(いずもたける)と東征に向かっている。ここでは東征について語ります。

この征伐については、古事記(和銅5年・712年)と日本書紀(養老4年・720年)では表現や内容が違うので、両方を表示して記載します。

「古事記」では、西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛(ひいらぎのはちずほこ)を授け、吉備臣(きびのおみ)の祖先である御鋤友耳建日子(みすきともみみたけひこ)をお供とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ね、「父天皇は自分に死ねと思っているのか」と嘆く。

倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣「草那藝剣(くさなぎのつるぎ)」と袋を与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。

日本書紀では、当初、東征の将軍に選ばれた大碓命(おおうすのみこと)は怖気づいて逃げてしまい、代わりに日本武尊が立候補する。

天皇は斧と鉞(まさかり)を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(天皇)はお前の位だ。と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お供に吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひ)と、料理係に七掬脛(ななつかはぎ)を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を賜る。

最も差異の大きい部分である。「日本書紀」では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に変わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、「古事記」の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。

ヤマトタケル尊の東征軍路は古事記と日本書紀では相違があり、日本書紀の方が陸奥、日高見(北上川流域の国)へとより北の方に侵攻していったように書かれている。(コース図参照)

● 古事記での軍路

倭―伊勢―尾張―駿河―相模走水―上総―常陸新治―筑波―相模足柄―甲斐―科野(しなの)―尾張―

近江伊吹山―伊勢能煩野(のぼの)で逝去した。

● 日本書紀での軍路

倭―伊勢―駿河―相模走水―上総―陸奥―日高見―常陸新治―筑波―甲斐―武蔵―上野―碓氷坂―信濃―美濃―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野で逝去した。

日本書紀(景行天皇)

冬十月二日、日本武尊は東征に出発し七日に寄り道をし伊勢神宮を拝まれた。そこで倭姫命にお別れの言葉を述べ、「今天皇の御命令を承って東国に行き、もともろの欺く者を討つことになりました。それでご挨拶に参りました」と言われた。

倭姫命は草薙剣をとって、日本武尊に授けられ「慎重になさいませ。決して油断なさってはいけません」と言われた。この年、日本武尊は初めて駿河に到着された。そこの賊は偽り従い欺いて、「この野に大鹿が極めて多くおります。吐く息は朝霧のようで、足は茂った林のようです。御出かけになって狩りをなさいませ」と申し上げた。

日本武尊はその言葉を信じて野に入り狩りをしたが、賊は皇子を殺そうという気があってその野に火を放った。皇子は欺かれたと気づき、火打石を取り出し火をつけて迎え火を作り逃げることが出来た。皇子は「もう少しのところで欺かれる所であった」と言われた。そして、ことごとくその賊どもを焼き滅してしまわれた。そこで名付けられたのが「焼津」という。

更に相模に着き、上総に渡ろうとされ海を望まれて大言壮語して「こんな小さな海、飛び上がってでも渡ることができよう」と言われた。ところが、海の中ほどまで来た時、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。その時皇子につき従っておられた妾(おみな)の弟橘媛(おとたちばなひめ)が皇子に申されるのに「いま風起こり、波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賤しい私めが皇子の身代わりに海に入りましょう」と申し上げた。そして、言い終わるとすぐに波を押し分け海にお入りになった。

暴風はすぐに止んで、船は無事に岸に着けられた。時の人はその海を名付けて「馳水(はしりみず)浦賀水道」と言った。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国(みちのくに)に入られた。その時、大きな鏡を船に掲げて海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領の島津神・国津神たちが、竹水門に集まって防ごうとしていた。しかし遥かに王船を見てその威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて仰ぎ拝んで「君のお顔を拝見すると、人より優れておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。皇子はお答えになって「われは現人神(あらひとがみ)天皇の皇子である。」と言われた。蝦夷らはすっかり畏まって着物をつまみ上げ、波をかき分けて王船を助けて岸に着けた。そして、自ら両手を後ろに縛って降伏した。そこで日本武尊は、その罪を許された。

こうして、その首領をとりことして手下にされた。蝦夷を平らげられ、日高見国から帰り、常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった。その時、灯りをともしてお食事をされた。この夜、日本武尊は歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」しかし、従者たちは答えられなかったが、御火焚の者が皇子の歌の跡を続けて歌って「日日並べて 夜には九夜日には十日」とお答えした。皇子は御火焚の賢いのをほめて、暑く褒美を与えられた。この宮においでになって、靫部(ゆけいのもとのお)(兵士)を大伴連(おおともむらじ)の先祖の武日(たけひ)を賜った。
日本武尊は「蝦夷の悪い者たちは全て罪に服した。ただ信濃国、越国(北陸)だけがすこし王化に服していない」と言われた。甲斐から北方の、武蔵・上野をお廻りになって、西の碓日坂(碓氷峠)にお着きになった。そのとき、日本武尊はしきりに弟橘媛を偲ぶお気持ちを持たれ、碓日嶺にのぼり、東南の方を望まれて三度歎いて「吾妻はや(わが妻は、ああ)」と言われた。そこで、碓日嶺より東の諸国を「吾嬬国」と言うのである。
資料元 ふるさと市原

■後記
伝記物語りは、ある程度の盛り付け創作が含まれるのは許容されますが、大筋では、過去のデータをもとに脚色しているので、相対的には累計的にまとまっていて、読む方もそれで安心します。

ではその「ヤマトタケル」は、どこにいたのか、ということですが、゛西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛(ひいらぎのはちずほこ)を授け、吉備臣(きびのおみ)の祖先である御鋤友耳建日子(みすきともみみたけひこ)をお供とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ね、「父天皇は自分に死ねと思っているのか」と嘆く。゛

と人地名もありますのでほぼ、実態は明かのようです。後は考古学研究者に委ねるしかありません。

まるで夏休み宿題のようなテーマですが、それを誰に提出して、その採点は誰にしてもらうか、は当然このnote読者であります。

でも、このSNS界隈も含めて現社会は、そんな話を訊かせてほしいと、思っているのでしょうか。いつもの疑問です。

相変わらず外は酷暑でクーラーなしでは、やっていられません。ですがガソリン値が高止まりで、各、食料品もじわりじわりと高騰してます。とどのつまり、今の生活費で足りるのか、という切迫感がつのります。

生きるにはやはり「金」が必要であることを直にかたっているのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?