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古代キリスト教アルメニア王国

古代キリスト教アルメニア王国 2021年11月11日
アルメニア王国は、紀元前190年から紀元前66年まで独立していた王国であり、428年までローマとペルシア帝国に従属していた国家だった。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした。大アルメニア王国とも言われる。

アルメニアは王国として独立するまで、アケメネス朝、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝のサトラッピ(州)であった。アルメニア人はおもに交易の担い手としてメソポタミア、小アジア、地中海方面で活躍していた。セレウコス朝のアンティオコス3世(在位:紀元前223年 - 紀元前187年)がマグネシアの戦い(紀元前190年 - 紀元前189年)でローマ軍に敗れると、アルメニアのサトラップ(太守、総督)であったアルタクシアスとザリアドレスはローマ軍の賛同を得て独立を宣言し、それぞれアルメニア王国、ソフィーネ王国を建国する。

アルタクシアス朝
アルメニア王国はその創立者アルタクシアス1世(在位:紀元前189年 - 紀元前159年)に因んでアルタクシアス朝と呼ばれる。
アルタクシアス朝(紀元前189年 - 66年)はかつてのウラルトゥ帝国の版図を中心として約2世紀の間その支配を確立することとなる。

画像 ナショナルジオグラフィック
千と一の教会があった都 キリスト教国・中世アルメニアの首都アニ | ナショナルジオグラフィック 日本版サイト

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アルタクシアス1世の在位中、アルメニア語は公用語としての地位を確立するが、諸々の記録にアルメニア文字が使われるようになるには、紀元後3世紀~5世紀の人と思われる聖メスローブすなわちメスローブ・マシュトツの出現を待たねばならない。

したがってアルメニア文字によるアルタクシアス朝の当時の記録は存在しない。アルタクシアス1世の在位中、東と西に分裂していたアルメニアの統一が紀元前165年に提案されたが、彼の生存中に果たすことができなかった。

アルメニア王国の繁栄
アルタクシアス朝を継いだ者の中でアルメニア史において〝帝王”の名を冠して呼ばれるのはティグラネス2世(ティグラネス大王と呼ばれる)ただ一人である。

ティグラネス2世(在位:紀元前95年 - 54年)はアルメニア人の間では〝王の中の王”として伝説的な存在にすらなっている。ティグラネス2世の統治のもと、アルメニアの東と西が統一され、アルメニア王国は古代史上における最盛期を迎えることになる。

ティグラネス2世はパルティアから広大な領土を得ただけでなく、大アルメニア帝国の確立を目指して各地を転戦し、その遠征先は遠くパレスチナのプトレマイオスにまで達したといわれる。

さらにティグラネス2世は領土を拡大し、イベリア、アトロパネテ、アルバニアをはじめとするコーカサスの諸地域も紀元前83年までに帰属させた。これらの征服地はシリアと南方の一部を放棄させられた以外、ほぼ500年間アルメニアのアルタクシアス朝によって統治される。しかしその晩年にはセレウコス朝とも婚姻関係を持っていた義父のポントス王ミトラダテス6世とローマ帝国との紛争に巻き込まれ、シリアをはじめとする一部の領土を放棄してローマ帝国の同盟国となることでその独立を承認された。

ローマとパルティアの支配
ネロの治世下、ローマは同盟を結んだアルメニアに侵略してきたパルティアと55年から63年まで戦った。60年のアルメニア奪還と62年の喪失の後、ローマはパンノニアから第十五アポロン軍(英語版)のシリア総督コルブロを派遣する。コルブロは第十五アポロン軍の他、第三ガリア軍、第五マケドニア軍(英語版)、第十フレテンシス軍(英語版)と第二十二軍を率いて63年、アルメニアの王位をティリダテス1世(英語版)に復位させたヴォロガセス1世の領域に入った。これ以来、パルティアが望む人物を王に就け、戴冠はローマ皇帝及びその代理が行うという両属体制が出来た。名目上はローマ帝国の属国で、実質はパルティアの属国という折衷案である。

114年、第5次パルティア戦争を有利に運んだトラヤヌスは、一時的にアルメニアを属州化した。しかし、新たに属州化したメソポタミア地域の維持に耐えかねたローマ帝国は、118年にこれらの属州を放棄した。その後、再びアルメニア王国の支配に戻った。

ヴォロガセス4世がアルメニアに侵略し、旗下の将軍を王位に就けたことによって162年から165年までルキウス・ウェルス帝の戦役が引き起こされた。パルティアの脅威に対し、ウェルスは東へ出発した。彼の軍は大勝を治め、首都を取り返した。ローマ市民権を持ち、アルメニアの相続権利を持つソハエムスが傀儡王として即位した。

アルメニア王国の衰退
サーサーン朝ペルシアは252年アルメニアを占領し、ローマが287年に取り戻すまで保持した。384年に王国は東ローマとペルシアの間で分裂した。西アルメニアは即座に小アルメニアという名でローマの属州となった。東アルメニアは428年までペルシアの内部でそのまま王国として残った。その後地方貴族が王制を廃止、サーサーン朝が行政官を送り込んだ。アルメニアは301年にキリスト教(後のアルメニア使徒教会)を国教としたが、これは世界初であった。アルメニア人の間にはキリスト教は浸透しており、ローマ側においても、ペルシア側に併合された地域でもキリスト教の信仰は衰えることはなかった。

建国神話
マケドニアの建国神話は、異説もあるが、最も有名なのはヘロドトスの伝える建国神話である。

ヘーラクレースの曾孫であったテメノスがアルゴスの王位を継承し、その子供たちがテメノスの王位継承を巡って争いを起こした。この時、敗れたペルディッカス1世は兄たちと共にレバイアという上マケドニアの町に亡命したが、ここで凶兆が現れたとして更に追放された。

ペルディッカス1世は兄たちを引き連れて更に放浪とし、最終的にはミダスの園と呼ばれる場所の近くに定住した。そこを拠点として彼らは周囲の土地を征服し、マケドニア王家を創始した。
したがって、マケドニア王家はアルゴスを故郷とし、更にヘーラクレースの血を引く由緒正しき英雄の血筋であるとした。 資料ウィキペディア


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アニの荒廃した中世アルメニアのサイトで古代のアルメニア教会。961 と 1045年アニ中世アルメニア王国の首都であった。 

37361074-アニの荒廃した中世アルメニアのサイトで古代のアルメニア教会。961-と-1045年アニ中世アルメニア王国の首都であった。


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古代王国「パルティア」

古典ギリシア語ないしラテン語である「パルティア」は元々、パルティア王国の故地である東北イランのパルサワ(古代ペルシア語:Parthava)を転写した地名でしかない。

「パルテヤ」とも表記されるパルティア王国の領域は現在でいうアルメニア、イラク、グルジア、トルコ東部、シリア東部、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタン、クウェート、サウジアラビアのペルシャ湾岸部、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦の領域にまで拡大した。

最も初期の都はミトラダトケルタ、次いでカスピ海南岸のヘカトンピュロス、更に遷都してバビロニアのクテシフォン(現在のイラク)。
また、歴代のパルティア王は「アルサケス」という称号を継承しており、もともと初代王の個人名であったものが、後にパルティアの君主号として定着した。これはちょうどローマ帝国の「アウグストゥス」や「カエサル」に類似している。

紀元前3世紀中頃には「セレウコス朝」の支配力が衰え、紀元前250年頃にその支配下から「バクトリア」が独立した。

これとほぼ同時にパルティア(英語版)地方とヒュルカニア(英語版)地方では現地の総督 (サトラップ)であったアンドラゴラスが「セレウコス朝」より独立していたが、パルニ氏族を中心とした遊牧民勢力が、アルサケス1世(前247年頃 - 前211年頃)と弟のティリダテス1世を指導者としてアンドラゴラスの勢力を放逐して周辺一帯の支配権を得た。
この年代はおおよそ紀元前247年ごろと推定されている。

アルサケス1世とティリダテス1世の関係には様々な説がある(それぞれの項目を参照)。
以降、パルティア地方に定着した彼らは「パルティア人」と呼ばれるようになる。

アルサケス1世とティリダテス1世による征服以前から「パルティア」という地名は存在したが、その時代の「パルティア人」と一般的に知られている「パルティア人」は同一ではない。

アルサケス1世らは、初めニサ(現在のアシガバート近郊、ミトラダトケルタだとする説が有力)を根拠地としていたが、ヒュルカニア(英語版)地方(カスピ南東部)に進出し、ヘカトンピュロスを首都とした。
その後、長くパルティアにとってヒュルカニア(英語版)地方が本拠地となった。

同じく「セレウコス朝」より独立したバクトリアのディオドトス2世とは紀元前228年頃に同盟を結び東方を固めた。しかし、セレウコス朝シリアのセレウコス2世の遠征に遭い、アルサケス1世は一度はサカの地に避難したものの、セレウコス2世がシリアで没する(紀元前226年)と再び帰還した。

その後は町の建設を行い、国固めを行った。
アルサケス1世の死後、歴代の王は全て王の称号として「アルサケス(アルシャク)」を用いるようになった。
王位を継いだアルサケス2世(在位:前211年頃 - 前191年)の時代にはメディアのエクバタナを占領したが、セレウコス朝のアンティオコス3世の東方遠征によってにエクバタナを奪還される。

さらにアナーヒター神殿の財宝を奪われ、最終的には本拠地のヘカトンピュロスにまで進軍されたため、セレウコス朝の優位を認め「同盟者」となった。
次の王フリアパティウス(在位:前191年 - 前176年)からはティリダテス1世の子孫が王位を継いでいくことになる。
彼の時代の前189年、セレウコス朝のアンティオコス3世がローマとの戦いに敗れ、この直後に再びセレウコス朝の勢力下から離脱した。

フラーテス1世(在位前176年 - 前171年)の時代にはエルブールズ山脈へ進出。さらにマーザンダラーン(カスピ海南岸)を征圧し、メディア侵出の足がかりを得た。

総じてこの時代のパルティアは中央アジアに近い地域の一角を占める地方勢力でしかなく、古代の記録者達も彼らに対して格段の興味を示してはいなかった。しかし、やがてパルティアはイラン世界の覇を唱える勢力に成長していくことになる。

ミトラダテス1世(在位:前171年 - 前138年)の治世にはパルティアは飛躍的な拡大を遂げた。

まずエウクラティデス1世王が率いるグレコ・バクトリア王国に東征して2州を奪い、西方では長期に渡る戦いの末、紀元前148年または紀元前147年にはメディア地方をその支配下に置いた。

これによってセレウコス朝の中核地帯であるバビロニアへの拡大が視野に入ることとなった。
セレウコス朝の内乱も手伝ってバビロニア方面への侵攻は大成功に終わり、前141年までにはバビロニアの中心都市セレウキアを陥落させ、翌年にはスシアナ(Susiana、現フーゼスターン州)の中心都市スサも陥落、エリマイス王国もその影響下に置いた。

しかし、このミトラダテス1世の征服活動の結果、パルティアの支配地域には多数の異民族集団が内包されることになった。

ミトラダテス1世以降のパルティア王達は異民族の統治に非常に気を使ったが、パルティアの支配を忌避し反パルティアの政治傾向を長く持ち続ける集団も存在した。

ミトラダテス1世は北西インドのサカ人が本拠地のヒュルカニア(英語版)に侵入したと言う報せを受けて、ヒュルカニアへ出向いた。その間にセレウコス朝のデメトリオス2世はエリマイス、ペルシス(ペルシア湾北岸)、バクトリアと協力し、バビロニアで挙兵した。

しかし、王の留守を預かったパルティアの将軍たちはこの軍を打ち破ってデメトリオス2世を捕虜とした。この時セレウコス朝に味方をしたエリマイスの都市アルテミスには制裁として略奪が行われた。ミトラダテス1世はその後インド北西部を征服し、王はバシレオス・メガロス(大王)を名乗った。

フラーテス2世(在位:前138年 - 前128年)は初め幼少であったため、 母リインヌが摂政となった。
彼の治世に捕虜であったセレウコス朝のデメトリオス2世の弟であるアンティオコス7世が、失地奪還のために兵を起した。

デメトリオス2世の侵入時と同じく、パルティア領内の旧支配層はセレウコス朝の「マケドニア人王」の到来を歓迎し、この軍に参入していった。

こうしてまずメディア地方が、紀元前130年にはバビロニア一帯が占領された。
このとき和平交渉により、フラーテス2世はデメトリオス2世を返還した。
アンティオコス7世は更に東方へと向かったが、現地住民に圧力をかけ不評だったため、住民は重圧に抵抗する態度を見せ始めた。
パルティア側は市民蜂起の工作を行い、蜂起軍にパルティア軍を参加させ、蜂起を盛り上げた。
前129年にアンティオコス7世は反乱鎮圧中に戦没した。
アンティオコス7世の子は捕虜となり、パルティアで丁重に扱われた。また、同年アラブ人ヒスパネシオス(英語版)によってメソポタミア南部にカラケネ王国が建てられ、一時バビロンとセレウキアを奪われた。フラーテス2世は勢いに乗じて、シリア侵攻を計画したが、傭兵として雇っていたサカ人やバビロニアのギリシア人捕虜が反乱を起こし、紀元前128年、フラーテス2世は戦死した。

続くアルタバヌス1世(在位:前128年 - 前123年)は、即位後、遊牧民であるトハラ人に悩まされた。
トハラはアムダリヤ川の北を本拠とし、アルタバヌス1世はトハラ人との戦闘において腕に毒矢を受けて戦没した。
この結果サカ人はドランギアナ北方(現在のアフガニスタン、ヘラート市近辺)に移住し、この一帯はサカスタンと呼ばれるようになった。

ミトラダテス2世(在位:前123年頃 - 前87年頃)の時代にはサカ人の圧力をかわすことに成功し、西ではセレウコス朝を攻めてメソポタミア北部を制圧。
さらにカラケネ王国および小アジアのアルメニア王国を服属させた。都をクテシフォンに移し、この時代には再びメソポタミアからインダス川までを支配する大国となり、ミトラダテス2世はイラン地方の覇者の称号である「バシレウス・バシレイオン」(諸王の王)を名乗るようになった。前92年にはローマと会談し、初めての接触を持っている。この時代がパルティアの最盛期と評される。

アンティオコス

アンティオコス1世ソテル(Αντίοχος Α' Σωτήρ、? - 紀元前261年)は、セレウコス朝シリアの王(在位紀元前291年または紀元前281年 - 紀元前261年)。セレウコス1世の子。

紀元前291年頃より、父セレウコス1世からユーフラテス川東方諸州の王として共同統治者に任命された。父の暗殺で即位し(紀元前281年)、広大な領土の管理・都市建設に努めた。

シリアと北アナトリアの反乱を鎮圧し、マケドニア王アンティゴノス2世と交戦するが、ガリア人の侵入により同盟へ転換する(紀元前279年)。
ガリア人の侵入を撃破した(紀元前275年)事で、小アジアのイオニア人諸都市より、救済王(ソテル)と称された。父王同様、都市建設とギリシャ人の入植活動を奨励したが、これは東方のパルティアやガリア人に対抗する上でも優れた政策であった上、ヘレニズム文化の拡大にも寄与した。

一方で父ほどの軍事的才能はなかったようで、エジプトのプトレマイオス2世と戦い、フェニキアと小アジアの海岸地域を奪われた(第一次シリア戦争、紀元前274年 - 紀元前271年)。プトレマイオス2世と同盟したペルガモン王国との戦いにも敗北した(紀元前266年 - 紀元前261年)ために多くの領土を失い、失意の内に病死した。(ウィキペディア)

    
古代神話ゾロアスター「ザラスシュトラ」(ツァラトウストラ)

世界最古の預言者といわれるザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、紀元前1600年頃から紀元前1000年頃にかけて生きた人といわれるが、その生涯の詳細についてはよくわかっていない。

しばしば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その活動には今なお不明なところが多い。

ゾロアスター教発祥の地と信じられているのが、古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ Balkh)の地である。バルフは現在のアフガニスタン北部に所在し、ゾロアスター教の信徒にとっては、ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。

開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)とされる。経典宗教の特徴を有し、その根本教典より「アヴェスターの宗教」ともいえる。
そうしたイラン古代の宗教的伝統の上に立って、教義の合理化・体系化を図った人がザラスシュトラであるとも考えられる。

ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」(アータル、アヴェスター語: ātar‎)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。
ゾロアスター教の全寺院には、「ザラスシュトラ」が点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けており、寺院内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する。
中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。
ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。
また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パーシー(パースィー、パールシー)」の語を用いて、パーシー教ないしパールシー教とも称される。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている。インドやイラン、その他、欧米圏にも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。

ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった。

紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続するサーサーン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。

ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジアや中国へも伝播していった。
7世紀後半以降のイスラームの台頭とペルシア人のムスリム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。
17世紀以降のイギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在、きわめて少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を保持している。

ゾロアスター教の教義は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と評されることもあるが、これは正確ではなく、その教義のなかではアムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。
検索(ウィキペディア)

後記=いわゆる中東世界(昔は中近東と呼んだ)の古い歴史を調べてみると、まったく今のテロ混沌戦争となんらかわりない。単純にいって2000年来、殺し合いをしているのだろうか。
それは平和裏に住む人間にとって予想もしない、想像をはるかに超える修羅世界である。では、我々が歴史的にまったく無垢な社会であったのか、といえば、そこにはやはり同様の地獄図が展開していた。幸いなことにその理由として、今は「裕福さ」を手中していたため、その結果に至ってないという幸運だ。やはりあらゆるタイプの貧困が彷徨する生活は、あらゆる希望を閉ざしている。

今書いている記事など、インターネットに蓄積されたデータをもとに分析検証しながら、できるだけ正しく表記しようとつとめて書いている。つい先日も判らないことがあったので、検索スクロールしていると、なにやら見覚えのあるロゴ表記、クリックしたところ、なんと自分の書いた文で、それは自分がアップロードしたサイト記事だった。自分で書いた内容に、さらにそれ以上のクオリティーを探し出すのは困難を極める。そろそろ、自ら作った壁が立ちはだかるとこまで来たか、という窮鼠感があった。
さて、どうするか・・・???

◆追記 wikipedia.org/
西洋史を書いていると、凡そ紀元前247年 - 224年の上記「セレウコス朝」あたりか、古代ギリシアの「ターレス」の前600年程度が一つの目安になっている。しかし、それよりずっと古い遺物が偶然発見されている。またその人体ミイラも現存し、しっかり管理保存されている。なんとそれは5300年のミイラであり、「アイスマン」として世界で唯一つの人類価値をもつ。
ついてはその一部を抜書きした。


自著ライブドアブログ 抜粋


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2021/11/11 おめでとうございます!

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(皆様のご厚情に感謝、御礼申し上げます。筆者 racoco)




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