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「ジャンヌ・ダルク」処刑セクハラ

1412年当時、フランスの社会風景は、君主政治である (独房でセクハラ被ったジャンヌ)


画像フランスエクスプレス 映画の舞台になったフランスの観光地シリーズ ベーナック城(ウイキペディア)

ジャンヌの生きた時代゛君主政治゛に支配されていた

1412年当時の、君主政治とは

日本の歴史では、応仁の乱、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。足利将軍家の権威・権力が失墜したことに起因する。8代将軍足利義政以降、有力な守護大名による権力闘争が激化し、結局、細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐって争った。

世界各地で国内政権争いに奔走し、今に語れる殺りくの戦争史である。
唐突に「ジャンヌ・ダルク」と切り出しても、学校の教科書では神格化した「女神の自由の像」が有名だが、それが「ジャンヌ・ダルク」のモデル、であるとはどこにも書いてない。

■ドラクロワ代表作「民衆を導く自由の女神」
シャルル10世の即位による反動的な政策に民衆が蜂起しパリを制圧した1830年の七月革命に想を得た作品である。ドラクロワは蜂起には参加しなかったが、少なくとも「国家のために絵を描く」ことぐらいすべきだと感じたという。(ウイキペディア)

ウイキペディア

一昨年来の「温暖化対策サミット」でデビューした、一人の少女、いま世界が最も注目している「スウェーデンのグレタ・トゥーンベリ」(19)にも通じる、その革命的アクションが波打っているとフォーカスした。

と同様のアンチテーゼだが、やはりそれも現世で神格化にしていない。

そのフランス「ジャンヌ・ダルク」について、昨今、まったく話題に上がらない不思議な現象に、それっ、どうした理由が起因するのかと、いろいろと歴史と生い立ちを探ってみた。

それで判ったのは当時17歳で蜂起し、19歳の時、異端審問(法曹政治より宗教が社会をコントロールしていた)にかけられ処刑されたという記録だった。後に、その罪は撤回された、というのは天文学哲学「ガリレイ」と同じ救済だった。

もう一つ「アラブの春」ネット革命が10年前にあったが、それも一つの時代のエポックであり、それらは一つのポリシーに貫き通されていたと推察したからだ。

男装兵「ジャンヌ・ダルク」とは何者か?
(この冒頭記事では、一昨日の前記とかさなる部分もある)

ジャンヌ・ダルクといったら肌胸もあらわな戦闘姿の絵(神の擬人化絵)が想像されるが、本人はそれとはまったく異なる「軍人」だ。その革命とはほど遠いフランスの17歳田舎娘が、どうして、そんなに大それたアクションをしたのか、探ってみたくなった。

もしかするとそれは、いま世界を覆っている政治体制民主主義資本経済システムから引導される、格差と貧富の差、最大の関心事は、富の寡占的独占が1パーセント富裕層に支配されているという現実打破の、突破口のヒントになるかもしれない。

かつては、ローカルな君主による領土争奪戦(とくにヨーロッパ世界で顕著)であったものが、やがて大型兵器が開発され、その結果世界戦争(フランス、ドイツ、プロイセンの普仏戦争)に及んだことは、もしかすると必然の結果だったかもしれない。いまのこの格差状況を放置しておくと、いずれ、それとは別のスタイルで闘争が始まる恐れがある。

ジャンヌ・ダルク(1412年ごろ1月6日 - 1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。
「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orleans[4]/英: The Maid of Orleans)とも呼ばれる。

ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。

その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。

神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。

イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。

ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。その後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。

神託

ジャンヌは、王太子シャルル(後のシャルル7世)を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じた王太子は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任にあたらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。
そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回した。結果、王太子はランスでフランス王位に就くことができフランス王シャルル7世となることができた。

フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。

歴史家ケリー・デヴリーズ(英語版)は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。

1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。

ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。
また当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している。

ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。
王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟の「ブルゴーニュ公ジャン1世」(無怖公)がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にオルレアン公が無怖公の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。

オルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。
イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。そしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた。

王太子が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。
無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子のフィリップ3世(善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。

1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。
この条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった。
ヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。

1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュはフランス王室と関係が深いフランスを支配下に置いたフランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。
パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた。

ジャンヌの生涯と生い立ち

ジャンヌの生誕地は現在は記念館になっている。画面右の樹木の後ろに見えるのが、少女期のジャンヌがミサに通った教会である。画像

ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加し、兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている。
この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、のちの異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。
この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している。

ジャンヌの軍事指揮能力

「... ここにいる乙女が八日間でロワール川に陣取っていたイングランド軍を打ち破り、完全に駆逐しました。イングランド兵士は戦死あるいは捕虜となり、戦いの意思を失っています。サフォーク伯、ラ・ポール卿兄弟、タルボット卿、スケールズ卿、ファストルフ卿ら、イングランドの貴顕や指揮官たちが敗北したことは紛れもない事実なのです」

-- ジャンヌが1429年6月25日にトゥルネー市民に送った書簡。Quicherat V, pp. 125–126.

ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。

ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。
デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。
この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した。
ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。

オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディー攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。

しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった。

イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョーの戦い、6月15日にモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。
そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた。

このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。

戦役中、フランス軍に続々と援軍に加わる将官が現れ、ギー14世・ド・ラヴァル(英語版)・アンドレ・ド・ラヴァル兄弟やアルテュール・ド・リッシュモンなどが参加した。リッシュモンは宮廷で疎まれ遠ざけられていたため、復帰を阻止したいシャルル7世と側近の命令がジャンヌらに届けられていた。しかし、他の武将たちはリッシュモンの力量を買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得、受け入れたジャンヌもリッシュモンと会見して協力を誓った。

6月18日にジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。

パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。
これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった。

「ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君に心からお願いいたします。これ以上、聖なるフランス王国と戦いを続けるのはおやめください。聖なる王国の国土や城塞から、一日も早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛するフランス国王の名代として、国王が名誉にかけて貴君との和平を望んでいることをお伝えします」

-- ジャンヌが1429年7月17日にブルゴーニュ公フィリップ3世に宛てた書簡。Quicherat V, pp. 126–127.

フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。
フランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。
また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。
そして「豆が食べられる」ようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである。

フランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。
しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。

イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。

フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。

しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している。
10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦(英語版)で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦(英語版)にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。

長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。度重なる屈辱的な敗戦でフランスの軍事力も国力も瓦解し、その指導力は失墜しきっていた。王太子シャルルがジャンヌの突拍子もない軍備の要求を認め、さらには軍の指揮官の一人に据えた背景には、それまで試みてきたありとあらゆる正攻法が失敗に終わったことに大きな原因があろう。崩壊寸前の絶望的な状況に置かれた政権のみが、母国の軍を率いて勝利せよという神の声を聴いたなどという無学な農夫の娘の訴えに耳を傾けるのだ。

— Stephen W. Richey、"Joan of Arc: A Military Appreciation"

「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」


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