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バンクシーとバスキア

ジャン=ミシェル・バスキア Untitled 1982 Courtesy of Phillips


美術手帳

前澤友作が所蔵するバスキアの大作《Untitled》(1982)が出品される。予想落札価格は7000万ドル(約80億円)以上と推定されている。2022.2.28

前澤友作が所蔵するバスキアの大作《Untitled》(1982)が、5月18日にフィリップス・ニューヨークで開催される20世紀・現代美術のイブニングセールで8500万ドル(約109億円)で落札された。2022.5.19

昨日、その前澤友作氏が所有する「ストラディバリウス」を若きバイオリニストHIMARIさんにプレゼントした、というのを書きましたが、何が悪かったのか、note読者その怪訝な反応に戸惑いました。

前澤氏に対する浮名現代伝説は、誰もが認めるところですが、そうしたことが、この記事にも及ぶなどとは思いもよらない。如何せん、大金持ち、放蕩三昧時代の寵児、カネで市場を買い漁る、そんなダーティーイメージが払拭(本人全否定メディアの創作だ)されず私が被害者だ、と愚痴るのは、多分有名税というのだろう。

ですから、メディア前澤スキャンダルについては社会は、細心に傾注するようですが、所有するバスキア絵画については何もしらない、ま、知ったところで意味ないですから。念のため「美術手帳」から、その展示画を借りて、どんなものか掲載しました。

一口で定義すれば「ストリートアート」で、古くはへリング(キース・ヘリング(英語: Keith Haring, 1958年5月4日 - 1990年2月16日)は、アメリカ合衆国の画家である)のような、社会の中の神出鬼没の表現で、体制を批判した絵でした。もともと西洋圏では風刺画がありましたので、それを高度な落書き、として世に問う、そんなコンセプトでした。
ですから、同類のバンクシーは、その再来だったのでしょう。

感覚に訴える絵は嗜好品ですから、一枚の絵が、観る人によって違う、という曖昧領域であるし、また印(証明するハンコ、記名、篆刻など)の証明があれば高値で取引され、また贋作も出回るので、その差はありますが、プロでも騙される、ということがしばしばあって、博物館が恥をかくという話しもちらほら散見します。

絵を飾る、という習慣は日本では稀薄で、一般家庭にあるのは日本画掛軸か書か、そんなところでしょう。ですから昭和時代の居宅には、「床の間」があって、そうしたモノが飾ってありましたが、よもやそこにバスキアやバンクシーでは寸が合わない。まさに水と油です。

今ではAIで絵が描ける時代になりましたが、そのうち、前衛抽象画が、ネット上を飛び交って、そしてYouTubeのように人気アーティスト(著作権が確定してない)が出て、AI絵作家の富裕層が出ないとも限りません。

ジャン=ミシェル・バスキア
誕生日 1960年12月22日 死没年 1988年8月12日(27歳没)
国籍  アメリカ合衆国
影響を受けた芸術家
サイ・トゥオンブリー、ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、フランツ・クライン、パブロ・ピカソ、レオナルド・ダ・ヴィンチ

ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat、フランス語発音: [ʒɑ̃ miʃɛl baskja]、1960年12月22日 - 1988年8月12日)は、ニューヨーク市ブルックリンで生まれたアメリカの画家。グラフィティ・アートをモチーフにした作品で知られる。苗字の発音はフランス語の名前なので本来は語尾の t は発音されない。ハイチ系アメリカ人。

ジャン=ミシェル・バスキア (1984) プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、母に連れられニューヨーク近代美術館に行きピカソのゲルニカを良く見ていた。幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていた。17歳の頃から地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。活動を続けるうちに高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てていた。アンディ・ウォーホルはこの時に売っていたポストカードを1ドルで購入した。徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、キース・ヘリング、バーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くようになった。また、絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとなっている。一時結成していたノイズバンド「GRAY」の名は交通事故の際母親が病室に持ち込んだグレイの解剖書という本が由来している。 この本は骨や骸骨を書くアートスタイルにも影響している。
1983年にはアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようにもなる。 初対面のバスキアへのアンディ・ウォーホルの印象はあまりいい物ではなく、交友を深め合うまではアンディ・ウォーホルはバスキアを怖がっていたと語っている。 1985年の秋に開催された共同の展覧会「Andy Warhol and Jean-Michel Basquiat」の批評家達の反応はいい物ではなく これをきっかけに二人の関係は破綻。 1987年のウォーホルの死まで2人の互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるようになった。
そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていった。1988年、ヘロインのオーバードースにより27歳で死去。
彼はニューヨークのザ・グリーン=ウッド墓地で安らかに眠っている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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